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    シモーヌ・ブエのインタビュー その2

    シオランの生涯の伴侶であるシモーヌ・ブエとノルベール・ドディル(Norbert Dodille)の対談の翻訳の後半です。

    その1はこちらです。


    ***


    ノルベール・ドディル(Norbert Dodille):シオランはカイエのなかであなたのことを語っているのですか? 彼があなたについてどう思っていたのか、知ることができたのですか?

    シモーヌ・ブエ(Simone Boué):いいえ。彼は私についてほとんど何も語っていません。これはとても、とても奇妙なことだと思います。私たちは、いつも日曜パリ郊外でいっしょに過ごし、昼の間はずっと散歩をして、25キロか30キロか歩いていました。私はいつも彼のそばにいました。でも日記では彼はこう書いているのです。「田舎で素晴らしい一日。『私は』何キロも歩いた……」と。でも私もそこにいたのです。私は今でも完璧に思い出せます。私が出てくるのは、本当にときどきです――彼はあるご婦人と出会って、こう書きます。「その婦人は『私たちに』言った」。そして彼はそういう風に書くのがよいと思っているのです。これはとてもおかしなことだと思います。彼は本当に自分のためだけに日記を書いていたのですね。そういうものですから、いくつかのくだりは、届くあてのない便りになっています。

    D:対談のなかでも、シオランは、自分のプライベートな生活や、あなた自身のことや、自分とあなたとの関係に関しては全然話そうとしませんでした。

    B:彼はまったく私のことを話しませんでした。まあ、私たちは完全に切り離された違う生活をしていた、というのもありますが……。私のほうも、高校教師でしたが、家に帰ったときは、高校で私が何をしたかというような、彼には全然興味がない話をすることもまったくありませんでした。

    D:それでも、彼にとってあなたは欠かせない存在だったのではありませんか。

    B:欠かせない存在だったのかどうか、私にはわかりません。私がいなくても、彼はうまくやっていったでしょう。

    D:彼があなたのことを語らないのを見るのは、少しばかり辛いことではありませんでしたか。

    B:いえ、私は単に驚いただけです。それに、私は絶対に未亡人、それも自分の地位を悪用する未亡人にはなりたくないんですよ。だから、このインタビューを受けるのもあまり気が乗らなかったんです。

    D:しかし、彼が友人と自宅で会うときは、あなたもいっしょにいらっしゃったのでしょう。

    B:ええ、もちろんです。友人たち、とくに翻訳家たち。シオランの翻訳家たちについて、一冊の本が書けると思いますよ!1950年ごろには、シオランはマダム・テゼナス(Mme Tezenas)のサロンに頻繁に通っていました。私はといえば、夜更かしをしないというのが私の強迫観念でした。次の朝には授業がありましたからね。それに、私はとても不作法で引っ込み思案ですから。ですので、彼は私とはまったく独立に外出していたのです。だからジャニーヌ・ヴォルムス(Jeannine Worms)は、私の存在など知らないまま、その時期にシオランを客として招いたのですね。シオランは決して私のことを話しませんでしたし、私のほうでも、家族には彼のことを絶対に話そうとしませんでした。

    D:あなたのご家族は、シオランのことを何も知らなかったのですか?

    B:ええ。私はこんな風に言いたくなかったんですよ。「私には親しい人がいるんだけど、彼は無国籍で、無職で、一文無しで……」。もし私の両親の心がとても広くて、認めてくれたとしても、彼のほうが両親に言うことを認めなかったでしょうね。

    D:では、彼はあなたのご両親のことをまったく知らなかったのですね。

    B:そうです。問題が難しくなったのは、『歴史とユートピア』の出版のあと、シオランのおかげで、私たちがここのオデオン街のアパートに引っ越してきたときです。『対談集』のなかでシオランが語っているのでご存じでしょうが、彼がここのアパートの管理人の女性に自著を送ったところ、彼女がこの部屋を私たちにくれたのです。これが自分の最大の文学的成功だと彼はいつも言っていました。おかげで、私は自分の住所をこの部屋と書くしかなくなり、私の母には(父は当時もう他界していました)、同居人を見つけたと言っておきました。そういうわけで、母が私を訪ねにこの家に来たときには、私たちは家具を大移動して、この部屋がシェアされているものだと母に見えるように努力しました。

    D:そのような生活、つまり、独立していながら養われているという生活は、シオランにとってあまりに都合がよすぎる、と考えることはありませんでしたか? 実際、安定した関係を持ちながら完全な自由を保持している、世帯を持ちながら独立・独身であるというのは、あらゆる男たちの夢ではないでしょうか。彼はあなたと共にいることで、とてつもない幸運を手にしたと言えるのではないでしょうか。

    B:私はそんな風に考えたことはありません。「独立している」とか、「安定した関係を持つ」とか、私は物事をそういう風にとらえたことはありませんし、シオランもそうだったと思います。この件について、あなたに何か申し上げることは私にはできません。
     コンスタンティン・ノイカ(Constantin Noica)のことを思い出します。彼が初めてここに来たときのことです。彼については、それ以前にも聞いたことがありました。シオランは彼にとても長い手紙を書いていて、そしてノイカはとても鋭敏な、たぶん少しばかり鋭敏すぎる精神を持ち合わせていました。私と二人きりになったとき、彼はだしぬけにこう言ったんです。「どうやったらシオランに耐え続けていられるんです?」。私はこう返答しました。「彼だって私に耐えているんですよ!」。
     シオランは、いつもまったく予測不可能な人でした。これには良い面もあります。彼とずっと一緒にいても、飽きるということがありませんでしたからね。ただ厄介な面もありました。彼といると、何か計画を立てるということがまったくできないんです。私にとってこれは問題でした。というのも、それでも私は予測しなければなりませんでしたから。彼は彼独特の食餌療法を持っていて、すべてはその食餌療法の枠に従って行われました。彼は頻繁に市場に行っていました。私たちがディエップに行くときは、この家を空にするのですが、シオランは電気を全部消すとか、冷蔵庫を完全に空にするとか、そういったことをとても神経質に気にしていました。ディエップに着くと、私があれこれ必要なものを買い揃えていきます。やっと準備ができたと思ったら、シオランが「さあ、帰ろう!」と言うんです。それで、私たちはディエップを立って、ここに帰ってきて、そして空の冷蔵庫をシオランがまた埋め始める、という具合です。

    D:その気まぐれとわがままに、あなたは耐え、ついていったわけですね。あなたが怒ったことはなかったのですか。「こんなことなら、もうヴァンデに帰ります!」と言うような。

    B:いえ、そんなことはありませんよ! ヴァンデに帰りたいと思ったことはありません! 腹が立つこともありましたが、共に暮らしていかなければならないのなら、いつもある種の妥協をすることになるのです。それにシオランのほうでも、いろいろなことに耐えていたと思いますよ。たとえ、食事療法を必要としない私のほうが生きやすかったので、その分だけ、私が多くの妥協をしなければならなかったとしてもです。

    D:あなたたちはディエップで小部屋を手に入れたと聞きましたが。

    B:ああ、あれは物置小屋と言ったほうがいいですね。それは崖の上に立てられた城に面していまして、部屋は小さいですが、その城が見えるんですよ。その部屋で二人で何日か過ごそうとしたんですが、でもその部屋はとても小さくて、そんなに長くいたら互いに殺し合いを始めかねないほどでした。それにシオランは、昼の何時だろうが夜の何時だろうが、好きな時に起きて好きなときに寝る、という習慣がありましたから、二人で過ごすのは無理だと悟ったわけです。その物置小屋には、屋根裏にちょっとした空間がありまして、屋根を通して日光が入ってくるものですから、私たちはそこに湯沸かし器を置いていました。シオランはその空間を何かに使おうと思い立ちました。彼は壁を切り抜いて、何枚かの木の板をぞんざいに打ちつけました。そうやって屋根窓を作ると、そこから城の素晴らしい景色が目に入ってきました。窓が額縁のように城を飾っていて、しかもそこからは城しか見えないのです。シオランはちょっとした台を作って、その上に椅子を置いていました。
     その後、私はヴァンデに向けて出発しました。帰ってくると、シオランの様子がおかしくなっているように感じました。11月になって、5日間の休暇を取得できましたから、私はシオランにディエップに行こうと提案しました。すると彼は「私は行かない」と言い出したのです。私は怒って一人で出発しました。次の日、彼は私を追ってきて合流し、こう説明しました。夏のこと、先ほどお話した仕事をしているとき、彼は胸のつかえを感じて、ディエップで医者に診てもらったそうです。その結果、どうも癌ではないかと彼は疑いはじめました。パリに帰って、彼はまた医者に診てもらって、その診断結果が来るのがちょうど私たちがディエップに出発する日だったというわけです。そのせいで彼は行かないと言ったのですね。

    D:あなたは子供をつくりたいと思ったり、彼の説得を試みたりはしなかったのですか。

    B:想像してみてください、シオランと子供! 私はイタリア人の友人から15日間猫を一匹預かったことがあります。そのときにわかりましたよ! シオランがどんなに猫に似ているかをね。彼自身が猫のようで、そして私はその二匹の世話をしなければならないのです! どちらも何をしでかすのか、まったくわからないので、本当にうんざりしましたよ。

    D:シオランの日常のスケジュールはどのようなものでしたか。

    B:シオランに関するかぎり、「スケジュール」という言葉に対応するものは何もありません!
    私はといえば、朝早く家を出ます。私はあまり家にいることがありませんでした、とくに仕事を始めてまもない時期は。その後、リセ・モンテーニュに移ってからは、朝8時ごろ家を出て、12時ごろ帰宅、大急ぎで市場に行って、帰ってきて、食事の準備をします、というのも、シオランはひどい食事療法を行っていましたから。彼は痛みに苦しんでいました――身体のあらゆるところがあらゆる仕方で痛んでいました。おまけに彼は胃炎を患いはじめたので、蒸した野菜、全粒穀物(ホールグレイン)が必要でした。彼は「ラ・ヴィ・クレール」(La Vie claire)*1の、本当に本当の信奉者でした。続けますと、午後になると私はまた授業をしに外に出ます。彼はというと、だいたい、あるいはもう頻繁に、昼寝をします。昼寝をしなければならないというのが、彼が頑として変えない持論でした。彼は私にも昼寝をさせようとしていたのですが、私はまったくする気はありませんでした。もうすでに朝起きるのだけでこんなにもつらいのに、昼に二回目をしようだなんて思えませんよ。彼は何時だろうと昼寝をすることができました。でも夜には眠れませんでした。それで、彼は朝の二時や四時に外に出るのです。

    D:旅行はどうだったのですか。

    B:スペインに行きました。彼が情熱的な愛情を抱いていた国ですね。1936年に彼はスペインで奨学金を貰うはずだったのですが、内戦のためにその話はなくなりました。自転車でスペインを周ったこともあります。私たちは村々の道を通り過ぎましたが、当時はまだ観光客がいなかったので、子供たちが「イギリス人だ!」(Son inglés!)と叫んで私たちを追いかけてきました。私たちはイギリスやイタリアにも自転車で行きました。

    D:あなたたちはすべてのバカンスで一緒だったのですか?

    B:ええ、私が両親と過ごしたバカンスを除いて。

    D:いつも自転車で?

    B:はい。はじめはずっと自転車で移動していました。後になると、自動車の交通がどんどん激しくなってきて、どうも難しくなってしまいました。それで、新しくいい方法を思いつきました。徒歩で出発して、運河や川沿いの道を歩いていくのです。とても魅力的でしたよ。そうやって何キロ歩いたのか、わからないくらいです。
     シオランは常識では考えられないほど遠歩きが好きでした。彼にとって、それは肉体労働のようなものでした。歩いたり、自転車に乗ったりするのは、意識から逃れ、風景や歩行の運動のなかに沈み込むことを意味していました。
     徒歩や自転車で、リュックサックを背負いながら何キロも移動して、キャンプをすることもありました。当時はどこでもキャンプすることができました。とくに印象的だったのは、教会の敷地内でキャンプをしたときですね。それはロマネスク様式の、海に切り立った崖の上にある素晴らしい教会で、ジロンド川河口のタルモン(Talmont)というところにありました。それからランド(Landes)地方のすぐそばまで行きましたよ。ですが、野宿のキャンプが完全に禁止されてしまいました。私たちは本当のキャンプがしたかったので、まったくひどい話です。それからはもう、一度もキャンプをしたことはありません。

    D:あなたがたはヨーロッパの外には一度も行かれませんでしたね。

    B:はい。シオランは何回もアメリカに招待されました。でも彼は行きたがらなかった。そのうえ彼は飛行機に乗りたがりませんでした。彼は人生で一度も飛行機に乗ったことがありませんでした。その件で憶えていることがありまして、1951年に、私はフルブライト奨学金を貰ったのですが、彼は私がアメリカに行くことを望みませんでした。彼は私に飛行機に乗ってほしくなかったのです。1951年当時は、誰でもアメリカに行けるという時代ではありませんでしたから、私にとっては特別なことでした。ですから結局私は譲りませんでした。出発の日のことを思い出します。彼はオルリー空港まで私に付き添ってきました。当時は、とても牧歌的で温かみがあるというか、飛行機のところまで付き添いの人が行くことができたのです。それで、私の友人の一人が、薔薇の花束と庭で取れたサクランボを持ってきてくれたのですが、彼女は遅れて着いたので、飛行機のドアがもう閉められたあとだったんです。搭乗員の方が再びドアを開けてくれて、私はタラップを降りることができました。今ではもう考えられないことでしょう! そのとき、タラップの下で、私はシオランを見ました。彼は顔面蒼白でした。そして私を非難するような目で見ていました。私はとても強い罪悪感を抱きながら出発しました。

    D:彼はそれでも鉄道は利用したのですよね?

    B:ええ、たしかに。でもひとたび列車のなかに乗ると、信じられないような光景になりまして。彼はいつも何かの物音に敏感で、なんでもない風の流れすら怖がるのです。それで彼はある席に座ったと思ったら3分後にはまた別の席に変え、また別の席に変え…というわけです。


    "まったくの無名"


    D:モーリス・ナドーのあの有名な記事*2、フランスでシオランを最初に取りあげた記事についてお聞かせ願えますか?シオランはどうやってそれを知ったのでしょうか?

    B:それは1949年のことでした。その日、私たちはフォワイエ・アンテルナシオナルの食堂で食事をしていました。シオランはサンミシェル大通りのキオスクで、『コンバ』紙を買っていましたので、私もそれを見ました。

    D:偶然の出来事ですね。彼は何も知らずに、「君について書かれた記事が載っているよ」、とも誰にも言われずに……。

    B:いえ、彼は毎日『コンバ』紙を読んでいたのです。彼は新聞を開くと、衝撃を受けました。見逃すことがありえないほど大きな記事でした。彼は読み始めました。私たちはほんとうに驚きました。フランスでは、シオランはまったくの無名だったのにひきかえ――例のカイエを読むことで私はさらに意識するようになったのですが――ルーマニアでは彼はとても知られていました。そういう状況で、彼はここにやってきたわけです。彼がまだフランス語で書いていなかったとき、彼が語ってくれた考えのことを思い出します。私たちはコレージュ・ド・フランスの数学の講義に出席したことがありました。その数学の先生はチェコかどこかの出身で、フランス語が話せませんでした。でもその必要はありませんでした。だって彼が黒板に数式を書けば、人々はついてきてくれるのですからね。それを見てシオランは言ったものです。「数学者であるというのはなんという利点だろう!」。ある日、こうも言いました。「誰も知らない言葉で書くよりも、[フランス語で]オペレッタを書くほうがましだ」。
     彼は、ルーマニアでは彼の世代の「恐るべき子供」で、彼の本はスキャンダルになりましたけど、フランスでは何者でもありませんでした。だから、ナドーが例の記事を書いたとき、彼はとても驚いたのです。

    D:それで、成功はいつやってきましたか?例の記事のあと、あなたが仰ったように、この成功は再び地に落ちました。そしていつまた舞い戻ってきたのですか?

    B:シオランの成功はとても、とても遅いものでした。カイエのなかで、彼はガリマールを訪ねたときのことを書いています。誰も彼のことを知らなかったので、彼は自分の名前を何度も繰り返さなければなりませんでした。ようやくクロード・ガリマールの事務所まで到達して、自分のことを、売春宿のボスでさえ目を合わせたがらない、客のつかない売春婦のようだと感じているとガリマールに訴えました。
     商業的に成功した最初の本、それがきっかけで世間によく名前が知られるようになった最初の本は、『オマージュの試み』です。これは「アルカード」叢書の一冊として、ポケット・ブックで出版されました。
     シオランは、もし著作がポケット・ブックで出版されれば、若者に必ず読まれると確信していました。若者に読まれることこそ、彼が望んでいたことでした。『実存の誘惑』、『時間への失墜』といった見事な本を書いたのに、いまだに『崩壊概論』の著者として見なされることに彼はうんざりしていました。それで、ある日彼は私にこう言ったというわけです。「クロード・ガリマールに会ってくるよ。ポケット・ブックにしてくれと言うつもりだ」。私は、彼の本がまったく売れていないことを知っていましたから、やめたほうがいいと言いました。それでも彼は行きました。

    D:彼はあなたの言うことをいつも聞かないのですね……。

    B:ええ、まったくね。そんなわけで、彼はガリマールに会ったのですが、ガリマールは何も言わずに立ち上がって、あるファイルを取り出してきました。それはシオランの本の売り上げ表でしたが、その数字はほんとうに笑ってしまうようなものでした。ガリマールはシオランにそれを見せながらこう言いました。「このような状況では、ポケット・ブックで出版するわけにはいきません」。帰宅したシオランは、顔が死人のように蒼白になっていて、私にこう言いました。「君が正しかった!」――彼がこんなことを言うのは、そうそうあるものではありません。
     彼の人生は屈辱の連続でした。
     彼の成功が始まったのは『オマージュの試み』のとき(1986年)で、ほんとうに、ほんとうに遅れてやってきました。それで彼はシオランになったのです。それ以前、彼はE・M・シオランでした。

    D:E・M・シオラン、それはエミールという、フランスでは居心地が悪いと感じていた自分の名前を、隠す手段であったのですね。

    B:そのとおりです。フランス語ではエミールという名前は床屋の名前だと彼は考えていました。昔、私には同時期に学位を取った友人がいたのですが、彼女のテーマはE・M・フォースターでした。シオランはこの二つのイニシャルがとても気に入って、自分のものとして採用したのです。シオランはずっとイギリス人に魅せられていて、彼は英語を勉強しながらシェイクスピアやシェリーを読んでいました。

    D:そしてガリマールは彼のことを「シオラン」(Cioran)と短く呼ぶことに決めました。

    B:ええ、それは『オマージュの試み』のときからですが、シオランは何も聞かされてなかったんですよ。短く「シオラン」とだけ表紙に記されたまま出版されて、怒り出した人たちもいました。アラン・ボスケ(Alain Bosquet)がその一人で、彼は『コティディアン』紙のなかで、E・M・シオランがシオランになったことに憤慨している記事を書きました。
     個人的には、この本がとても好きです。彼がようやく自分自身以外のことについて語った本ですから。
     いえ、でも実際には、それは間違いですね。彼はいつも自分自身のことを語るのですから。

    D:シオランの名声は、実際どのようなものでしたか。会いたいという人々やインタビューの申し込みを、よりいっそう引き寄せましたか?

    B:外国の出版社の人々も来ましたね。翻訳の申し込みがどんどん増えていきました。

    D:シオランは、最終的に、作家として認められたと感じていたのでしょうか。

    B:それほどでもありません。今日の午後、ちょうどサンダ・ストロジャンと話したところなんですよ。ご存知でしょうが、彼女はときどき抒情的にものを言うくせがあって、私にこう言いました。「結局、フランス人は自分が今持っているものについて何もわからないんですね」。
     ときどき、私はシオランについて信じられないようなことを耳にします。
     例を挙げれば、最近、ガブリエル・リーチェアヌがミシャロン(Michalon)社から本を出しました。その本のなかのシオランのインタビューは、ルーマニア語で行われて、フランス語に翻訳されたものです*3。ええ、たしかにシオランは、カミュから「いまやあなたも思想の領域に入るべきですよ」と言われたと語っています。でもシオランは話しているとき3分毎に悪態を吐くのです。おわかりでしょうが、彼の口から直接何度も聞いたおかげで、私はそういうルーマニア語の悪態を知っています。シオランがリーチェアヌに語っているときに出たそうした悪態の一つを、訳者は「くそくらえだ」(va te faire foutre)と訳しました*4。
     この表現は大いに成功しましたよ。私はシオランに興味を抱いていた医者の方を知っているのですが、彼はこの箇所を読んで、シオランの返答はとんでもないものだとみなしました。どういう評判となったか、おわかりでしょう!
     続けて、またカミュについてですが、フランス・キュルチュールがリーチェアヌの本の書評を公にしました。その結論というのが、シオランがカミュについて言ったことは彼自身にもはねかえってくる。シオラン自身もリセの最終学年向きの哲学者だ、と。私はこれを違う機会、フィリップ・テソン(Philippe Tesson)の放送のなかでも聞きました。シオランが自分のことを哲学者だとみなしたことは一度もありません。同じことを私はガブリエル・マツネフ(Gabriel Matzneff)にも言いました。彼は『師と共犯者』(Maîtres et complices)のなかでシオランについて一章を割いているのですが、そこでこう言っているのです。「そう、実際私はシオランを最終学年にいるときに発見した、しかしそれには何の意味もない」、等々。

    D:結局、あなたはシオランが名声を得たことを好まれなかったのですね。

    B:私としては、シオランは自分が有名になったことを知らないまま死んだと思います。

    D:しかし、ベルナール・ピヴォ(Bernard Pivot)がシオランを番組のなかで取り上げたというのは、ひとつの兆候ではないでしょうか? それに、少し話は変わりますが、シオランはインタビューを拒否し続けてきましたが、そんなことをしていれば、世間からの低い評価を受けるのは当たり前のことではないでしょうか?

    B:ご存知のように、彼はそのことについて何度も立ち戻ってきました。もちろん、『カイエ』のなかで、彼はいつも完璧に誠実であるというわけではありません。しかし彼はもう本当に数えきれないほど書いています。有名であるよりは無名のほうがよい、理解されてはならない、名声は軽蔑すべきものだ、と。この件ではウジェーヌ・イヨネスコとの間で論争にもなりました。イヨネスコは、シオランよりも無邪気で、世間からの承認と名声にとても満足していました。大きな論争になったのは、イヨネスコがアカデミー・フランセーズの会員に選ばれたときです。そのときシオランは辞退することを勧めました。イヨネスコが気分を害していることがわかるほどにまで、彼は自分の意見に固執しました。その後、イヨネスコがある日こう言ってきたと彼は『カイエ』に書いています。「アカデミーの会員になったけど、もう生涯ずっとなんだね」。シオランはこう答えました。「そんなことはないよ。ペタンやモーラス、ドーデのことを考えてごらんよ。彼らは除名された。きみだって、裏切り行為をやらないとも限らないよ」。するとウジェーヌが、「じゃあ、希望があるんだ」。私はこの話が大好きです。*5
     たしかに、名声に対するシオランの態度はあいまいなところがあります。彼は読まれることを望み、ポケット・ブックでの出版を希望したわけで、矛盾しているとも言えます。この件ではミショーとも論争になりました。ミショーはポケット・ブックに反対でした。でもシオランは賛成でした。若者に読まれることを望んでいたからです。

    D:シオランはまた、言ってみれば「公式」の承認も受けましたね。例えばミッテラン大統領の招待です。

    B:ええ。ミッテランは彼を二回招待しました。でも彼は行きたがりませんでした。

    D:では、彼は拒否したのですね。それは簡単にできることではありません。

    B:一回は受けました。それはティエリ・ド・ボセ(Thierry de Beaucé)が彼を招待したパーティーで、ミッテランが来る手筈になっていました。会場が遠く、パリの外の場所だったので、ティエリ・ド・ボセはシオランを迎えにここまで来ましたよ。シオランは、ミッテランがルーマニアについて話してくれるのではないかと考えていました。フランス大統領として、遠からず公式訪問するはずですからね。ミッテランはシオランとほとんど話しませんでしたので、ルーマニアについてももちろん話さなかったでしょうね。このパーティーには、有名人、とくにテレビの有名人がたくさん来ていて、シオランは彼らを紹介されたのですが、彼のほうはテレビを全然見ないので、誰なのかまったくわからなかったそうです。
     シオランが病院で人生の終わりに近づいていたころ、ミッテランが訪問できないかどうか私に訊いてきました。私は断りました。そんな訪問にはなんの意味もないでしょう。

    D:シオランがテレビに出たがらなかったのは、街中で彼だと知られるのを避けるためだというのは本当ですか?

    B:はい。彼はリュクサンブール公園を散歩できない状況に陥って、平穏を妨げられるのを望まなかったのです。
    あるとき、マツネフがシオランをとりあげた写真入りの記事を、『フィガロ・マガジン』紙のなかで書きました。それでシオランの顔が知られてしまって、数日後彼が街中に出たとき、あるご婦人が彼を呼び止めたんですが、彼はうまくやりました。「あなたはシオランですか?」と訊かれても、「いいえ」と答えたのです。もっと後になって――このことを思うと私は心が苦しくなるのですが、彼の病気が悪化し、記憶を失いはじめました。あるとき、街中で、「あなたはシオランですか?」と訊かれると、彼はこう答えました。「以前はそうでした」。


    "「アルベールを連れてきたんだ。彼はずっと笑っているんだよ!」"


    D:それでは、今度はシオランの友人たちについてお話を聞かせてください。自分はシオランの親しい友人だと自称する人は非常に多いですが、彼にはそんなに親友がたくさんいたのでしょうか?

    B:いいえ、もちろんそんなことはありません。

    D:では、本当にそうだった人のことを教えてください。

    B:ルーマニアの友人のことですか、フランスの友人のことですか?シオランにはたくさんのフランス人の友人がいましたが、シオランは彼らについてあまり話しませんでした。フランスに来て間もないころ、彼は文学サロン(Maison des Lettres)に頻繁に通い、いつも居合わせたある青年と知り合いました。その青年はシオランの親友となり、1993年に亡くなりました。彼は突飛な空想に耽ることが多い青年で、『崩壊概論』の最初の原稿についてコメントしたのは、他でもない彼です。「いかにも外国人が書いたみたいですよ。全部書き直さなきゃ」とね。
     シオランの他の友人で、私も頻繁に見た人物は、アルベール・ラバック(Albert Labacqz)という人です。シオランと彼はユースホステルで出会いました。彼は当時ちょっと困難な状況を抱えた青年でした。彼は大ブルジョワの出なのですが、父親が彼を働かせようとして、それで彼は銀行で働いていたにもかかわらず、その給料がとても低く、不幸な境遇にありました。この青年の、人生に迷って当惑した側面が、シオランを惹きつけました。ラバックは敏感なのに無感動な青年で、すぐに笑い出したかと思うと、ずっと笑っているのです。シオラン自身もとてもおかしな人間ですから、彼らは完璧に理解しあっていました。
     1946年か47年のことですが、私がバカンスから帰ってくると、シオランがこう言ってきました。「アルベールを連れてきたんだ。彼はずっと笑っているんだよ!」。その後、アルベールは仕事で素晴らしい成功を収めて、ディエップに豪華なアパルトマンを手に入れました。それでシオランに8月の間その部屋を使ってもよいと言ってきたんです。何年もの間、1976年に先ほどお話しした小部屋を買うまで、私たちはその部屋に滞在しました。
     友人のなかにはマクシム・ネモ(Maxime Nemo)という筆名の人もいました。彼はとても魅力的で話しがうまい人で、カフェ・フロールである人から紹介されて知り合いました。彼のパートナーは数学の教授をしていて、ナントのあたりに広い屋敷を持っていました。その屋敷は素晴らしいもので、周囲から隔絶され、とても高い壁に囲まれていて、ブドウ園の真ん中にありました。夏にはよくそこに行って一週間を過ごしました。シオランはそこで本当に幸福そうに暮らしていました。彼は壁を補修する木を剪定して過ごしていました。彼は手仕事をするのが大好きでした。彼にとって、庭園は幸福に等しいものでした。しかし物事には裏の側面があるものです。彼の幸福を妨げたのは会話でした。ネモという人は才能のある人でしたが、彼はシオランをあまりにも称賛するので、しばしばシオランを不快にさせました。

    D:作家ではどうですか?イヨネスコが、一番の親友だったというのは真実ですか?

    B:はい。二人はとても頻繁に会っていました。それにイヨネスコは、ほんとうに、ほんとうに電話をかけてくるのが多い人でした。ご存じでしょうが、イヨネスコはとても苦しんでいて、それがシオランの心を動かしていました。イヨネスコの電話は非常に長くて、二人の間の会話はしばしば驚くぐらいにとても面白いものでした。

    D:ミショーもそうですか?

    B:ええ、シオランは彼のことをよく知っていました。ミショーも頻繁に電話をかけてきて、彼らはよく夕方に会っていました。シオランはカイエのなかでミショーと会ったときの話を書いていますが、特に目を引くのは、ニューヨークから帰ってきたミショーが、ニューヨークを一種の恐怖として語ったときのことですね。シオランはミショーのユーモア溢れる反応が好きで、それが彼を魅了していました。二人の仲はとてもよいものでした。私たちがホテル・マージョリーを引き払ったとき、ミショーはシオランに当座のお金を貸そうと言ってきたくらいです。シオランは断りましたけどね。

    D:ベケットは?

    B:ええ。ベケットと会うのはとても印象的でした。ベケットは無口で、シオランと正反対なのです。おしゃべりのバルカン人というやつですね!でも彼らは深い相互理解の基盤を持っていました。1969年か70年ごろ、シオランは後に『生誕の災厄』になるエッセイを書いていました。死は受け入れる。生も受け入れる。ただし生誕は受け入れない――これがシオランにずっと現れるテーマです。この点でベケットも同じなのです。生まれないこと以上によいことなどない、それだけ。自分が何でもない地点に戻るというのはたしかに馬鹿げたことです。シオランはときどき感情をさらけだすことがあって、自分は何者でもなく、不毛で、書くことができないとベケットに訴えたのですが、それを聞いたベケットは、医者が患者にするように、そして友人を励まし慰めるように、シオランの肩を軽くたたいたとのことです。
     シオランがベケットと最後に会っていたのは、リュクサンブール公園の、ギヌメール通りに面した人通りが少ないところで、私たちはそこをベケットの道(Beckett's way)と呼んでいました。ベケットはシオランにこう言っていたものです。「カーテンが落ちる前にまた会わないといけないね」と。
     シオランはベケットの奥さん、スザンヌを知っていました。彼らはよく三人で夕食を共にしていました。そこでも一番しゃべるのはシオランでしたね。
     シオランの持論は、おしゃべりのバルカン人は、イギリス人の気品に征服されざるをえないというものでした。ある日、彼がそれをベケットに言ったところ、ベケットはイギリス人は下品だと猛抗議したとのことです。彼のなかのアイルランド人が目覚めたのですね!

    D:友人のほかにも、彼を悩ます迷惑な人々がいました。シオランは、手紙のなかで、援助や紹介を求めて押し寄せてくる大勢のルーマニア人のことを嘆いていましたね。

    B:家族を助けるというのが、シオランのオブセッションでした。だから、彼の家族にお金を届けることができるそういった人たちの世話をしていたのです。それに、彼が言うところの不幸な国に、彼が結び付けられているというのもありました。あるとき、彼と何かの親戚関係がある二人がやってきたのですが、彼らはフランス語を一言も知りませんでした。ここの建物にやってきた彼らは、門番にドイツ語で話しかけたのですが、通じない。彼らは今度はハンガリー語を使いましたが、もちろん通じない。彼らが騒ぎ立てたので、シオランが降りてきたのですが、彼らが言うところによると、門番がドイツ語を話したがらないのは、彼女がドイツ嫌いなせいだと。シオランは同胞を恥ずかしく思いました。

    D:彼の家族とは、とくに、レルという愛称の、弟さんのアウレルのことですね。

    B:ええ。シオランにとってとても大切な存在でした。シオランは彼に対して悔やむ気持ちがありました。

    D:それは、修道院に入るという弟さんの希望を断念させ、その後に弟さんが裁判で有罪判決を受けたからですね。アウレルは鉄衛団に関わって、長年を牢屋で過ごさなければなりませんでした。アウレルはパリに来ましたね。

    B:はい、何回も。最初は1981年のことで、シオランは駅まで迎えにいきました。もう何十年も会っていなかったので、彼らはお互いのことがわかりませんでした。シオランのほうが近づいて、「お前なのか?」とアウレルに言ったと思います。レルは当時フランス語がほとんど話せなかったうえに、彼はそもそもあまり話さない性質でした。彼が無口だということは、ずっと以前にシオランから聞いていました。シオランからこういう逸話を聞いたことがあります。彼がブカレストで学生だったころ、シビウの実家に帰ると、彼が帰ってくるのを見たお手伝いさんがほっとしたということです。彼女が言うには、「少なくとも、あなたはしゃべってくれますからね」。レルと彼の恋人のイカ(Ică)が来ても、レルはまったく何も話さないので、イカが代弁しなければなりませんでした。私が驚いたのは、レルが放つ諦めの雰囲気です。彼がする唯一の身ぶりは、腕を広げて、そして下ろす、というものでした。私が彼に肉が好きかどうか聞いたとき、彼はこのジェスチャーで答えました。


    "彼らはシオランを誘拐しようとしたのだろう"


    B:ずっと後になって、シオランがブロカ病院に入院すると、レルは、12世紀のアラブの首長が書いた詩を送ってきました。その首長はシリア出身で、スペインに定住していました。彼はシリアに向かうという旅行者に詩を贈りました。「君は私の故郷へ旅立つけれど、私の体はここにあるが、魂はあそこにあると知ってほしい。天がある日二つを一つにしてくれたなら!」この詩をレルはコピーして私に送ってきました。手紙の日付は4月8日、つまりシオランの誕生日となっていました。それはおそらく、兄から遠く離れていたレルが感じていたもののメタファーなのだろう、とそのとき私は思いました。
     私はシオランに弟さんと会いたいか訊きました。彼は大きな声で「いや!」と答えました。一週間後、私はまた訊きました。彼はこう答えました。「うん、でも……」(oui, mais...)。私はレルに手紙を書いて、そのなかでこの答えをそのまま引用しました。実際、レルにとって、とても称賛し誇りに思う兄があんな状態にあるのを知るのは、とてもつらいことだったでしょう。シオランはもはやシオランではありませんでした。彼はもうほとんど話すことも、歩くこともできませんでした。たぶんこのことを、レルは私が思うよりも知っていたのでしょう。ある日、レルがリーチェアヌのところから電話を掛けてきました。私は言いました。「あなたは私の手紙に返事をしなかったけど、こっちに来る予定はあるの?」彼はこう答えました。「私は行かない。というのも、「でも」(mais)のほうが「うん」(oui)よりも重いと思ったから」。とても美しい答え、そう思いませんか?

    D:それでも彼は結局来たのですね?

    B:ある若いルーマニア人女性が、シオランについての論文を書く計画をしていて、ルーマニアのレルにコンタクトを取りました。彼女はシュヴルーズの谷に家があったので、そこに滞在して兄に会わないかとレルに提案したわけです。それでレルはやって来ました。コルネリア*6はブロカでほとんど毎日彼に付き添っていました。
    私たちは公園に出ました。シオランはもう歩けなかったので、彼を車いすに乗せて歩きました。ほとんどの時間、車いすを押していたのはレルでした。彼はシオランに、あるときはルーマニア語で、またあるときはフランス語で話しかけていました。話していたのはもちろん彼らの幼年時代の思い出だったでしょう。シオランはとても生き生きとしていて、よく笑い、私たちは彼が話についてきて、ちゃんと理解していると感じました。

    D:他にも訪問者はいたのですか?

    B:望ましい訪問者ばかりというわけではありませんでしたね。ある日、私がシオランの病室に来ると、ドアの前に二人のルーマニア人が立っていました。二人は私がやってくるのに気づいて立ち去ろうとしたようでしたが、廊下の隅に隠れたところを私が見つけました。彼らは明らかにシオランが独りのときに病室に入ろうとしていました。一人はスリーピースの背広を着た、間違いなく東欧風の人間で、頭を下げてうつむいていました。もう一人は大男で、非常に攻撃的で喧嘩腰でした。私は二人に誰かと尋ねました。彼らが言うには、自分たちはシオランの古い友人であると。そして大男のほうが、信じられないほど横柄に、「それで、あなたは誰?」と私に言ってきました。その時から、シオランの病室を訪問禁止にしました。
     レルが言うには、彼らはシオランを誘拐しようとしたのだろう、ということです。

    D:レルは最後までいっしょにいたのですか?

    B:いえ。私は彼が最後に病院に来たときのことをいまだに憶えています。帰ろうとする彼を、私はエレベーターまで送っていきました。そして私たちは別れの挨拶をしました。私は、おそらく彼と再び会うことはもうないだろう、と思っていました。私たちはお互いにあまりにも年をとりすぎていました。この思いが、彼が帰るのを見送ろうという気にさせたのです。私は自分に言いました――シオランももう彼とは会えないのだと。エレベーターのドアが閉まった後も、ずっとそこで立ち続けました。涙がこぼれていました。しばらくして、私はシオランが寝ている病室に戻りました。私は何が起こったのか言えませんでした。なんの言葉も私の口から出てきませんでした。私は彼を見て、彼も私を見ました。そして私は、もうずっと以前から何も見出せなかった彼の眼ざしのなかに、何かが浮かんでいることに気づいたのです。

    (終)



    *1 「ラ・ヴィ・クレール」はフランスの健康・有機製品製造・販売チェーン。

    *2 モーリス・ナドー(Maurice Nadeau)は著名な作家・批評家。ナドーは1949年9月29日付の『コンバ』(Combat)紙で、「黄昏の思想家」(Un penseur crépusculaire)と題してフランスでシオランを初めて紹介する記事を書き、カミュの『シシュポスの神話』と比較しつつシオランと『崩壊概論』について論じた。

    *3 このリーチェアヌの著作はItinéaires d'une vie: E.M.Cioranという題名でミシャロン社から1995年に出版された。本文中で問題になっている対談は本ブログにて翻訳されている。該当箇所はこちらを参照。

    *4 "va te faire foutre"はスラング・俗語表現で、直訳すると「自分自身に性交してもらえ」となり、「くそくらえ」「失せろ」といった意味で使われる。上記注3で挙げた本ブログ上の対談はルーマニア語から訳されており、該当箇所のルーマニア語原文は"f...mama mă-tii!"となっている。これはおそらく"futu-ți mama mă-tii"を伏字にしたもので、直訳すると「お前の婆さんと性交しろ」となり、これも「くそくらえ」「失せろ」という意味で使われる。

    *5 正確には、『カイエ』のなかでは(レオン・)ドーデではなく、アベル・エルマン(Abel Hermant)となっている。エルマンはフランスの作家で、対独協力のためにアカデミーを除名された。なお、ドーデがアカデミー会員になったことはない。Cf. Cahiers, Paris, Gallimard, 1997, p. 787. 『カイエ』、金井裕訳、法政大学出版局、2006年、792頁。

    *6 コルネリア(Cornelia)が誰かは不明だが、おそらく直前のルーマニア人女性の名前か。
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    シモーヌ・ブエのインタビュー その1

    シオランの生涯の伴侶であるシモーヌ・ブエとノルベール・ドディル(Norbert Dodille)の対談の翻訳です。以前のリーチェアヌの対談よりも詳細に自分とシオランのことについて語ってくれています。少し長いので二分割で翻訳することにしました。

    シモーヌ・ブエについては、以前のリーチェアヌとの対談もご覧ください。 こちら

    底本は以下の通りです。

    Lectures de Cioran, Norbert Dodille et Gabriel Liiceanu(ed.), L'Harmattan,1997, p. 11-41.

    文中で補足した箇所は[]で、人名や著作名などの補足は脚注で記してあります。



    ***


    ノルベール・ドディル(Norbert Dodille):シモーヌ・ブエさん、シオランと出会う前のあなたはどんな人だったのでしょうか。

    シモーヌ・ブエ(Simone Boue):ですが、私が興味があるのはシオランであって、私自身ではありません。

    D:それでも、ご自身についていくらかお話しいただけませんか。あなたはヴァンデで生まれたのでしたね。

    B:ええ。

    D:英語の勉強をなされたと。

    B:ええ。

    D:ヴァンデで?

    B:いいえ、ヴァンデで英語の勉強なんかできませんよ。ヴァンデはポワティエ大学に頼りきりで、そこで私は勉強を始めたのです。

    D:その後はどうされたのですか。

    B:その後は、奨学金を貰ってパリに来て、アグレガシオン(教授資格試験)の準備を始めたのです。1940年のことです。当時はすべてが混沌としていました。大言語学者のユションが、ドイツ軍のパリ占領のときに自殺していました。アグレガシオンを受けるには、その前に言語学の口答試験に合格しなければならなかったのですが、私は言語学については何も知りませんでした。もしユションが存命だったら、私は絶対に受からなかったでしょうね。彼のかわりに着いた人は、私より言語学を知らなかったんです。それで私は合格することができて、アグレガシオンの準備を始めたというわけです。でも、それほど真面目ではありませんでしたね、あまり授業には行きませんでしたから。
     私がシオランと知り合ったのは、アグレガシオンの授業ではなくて、サン=ミシェル大通りにある、フォワイエ・アンテルナシオナルという学生寮です。その館長はアメリカ人女性で、ミス・ワトソンといいました。パリに来た直後は、あまり寮に入る気はありませんでしたが、それでも寮の情報を得ようと建物に入ったとき、アメリカ人のアクセントで、「アデイェール!」(Adeyèle)といって家政婦を呼ぶ声が聞こえたのです(その家政婦の名前はアデール(Adèle)といいました)。完全なドイツの占領下でアメリカ人の発音が聞けるなんて、と思い、私はすぐにここに入ることに決めました。
     そこには学生なら誰でも利用できる食堂がありました。そこで私はシオランと知り合ったのです。本当によく憶えていてますが、それは1942年11月18日のことでした。私は以前から彼が気になっていました。というのも、彼は他の学生ととても違っていて、そのうえ平均より年をとっていましたから。彼は31歳でした。私は昼食をとるために食堂の列に並んでいました。食堂を利用するには、用紙に日付、名前を書いてそれを支払いのときに出さなければいけませんでした。シオランは私の隣に並んでいて、今日は何日かと訊いてきたんです。私がこの日の日付を正確に思い出せるのは、その日が私の誕生日だったからなんです。私の母がケーキを送ってきてくれていたはずです。私は彼に日付を教えて、その後……。

    D:彼があなたに近づいたのは、無料で食事をするためだったのか、それともあなたに話しかけるためだったのでしょうか。

    B:その両方だと思います。

    D:それで、その時からあなたがたは一緒に暮らし始めたのですか。

    B:いえ、そんなにすぐではありませんよ! 当時彼は、ここからすぐ近くのラシーヌ街のホテルに住んでいて、部屋はとてもよいものでした。私はといえば、クラインという若い女性の友達が理由で、私はフォワイエ・アンテルナシオナルを引き払いました。彼女はたぶんリトアニア人で、クジャス街に部屋を持っていました。ある日彼女がシオランにこう言ったことがあります。「私が住んでいるのは売春宿なの!」実際に、そのホテルはナイトクラブに繋がっていて、とても人通りが多くて、まあ要するに売春宿でした。彼女の部屋は最上階にあって、それはとても素晴らしいものでした。というのも、その部屋は屋根裏部屋だったので日当たりがとてもよく、さらにそこからはとなりの学校の木で生い茂った中庭が見えたからです。彼女がその部屋を引き払うと言ったとき、私はそこを貰おうと思いました。それで私はしばらくそこに住んでいたのですが、ときどき落ち着かない気分になることがあり、結局引っ越しをしました。
     そのうち戦争が終わり、私は1945年にアグレガシオンに合格し、ミュールーズに赴任する通知を受けました。アルザスがフランス領に戻ったので、学校教師が必要になったのですね。けれど私はパリにいることしか考えていませんでした。同じ年にパリの学校のコンクールに合格していたものですから、私はその校長のところに行き、ポストが貰えないか訊きに行きました。その校長はとてもいい人でした。アグレガシオンの特典を逃さないためにもミュールーズに行くほうがいいと彼が助言してくれたので、最終的に私は行く決心をしました。
     当時、あそこにはとても不思議な雰囲気がありました。二種類の学生がいて、ひとつはアルザス人で、ずっとドイツ語で学んできた子たちです。もうひとつは、「内地人」と呼ばれていたグループで、大多数はユダヤ人の子たちでした。あのときのようなクラスを受け持ったことは、それ以後一度もありません。彼女たちは授業が始まる定時よりも前にすでに勉強を始めていて、それで私を待っているのです。普通は授業のなかで生徒を教えているという感じがするものですが、そのときは反対で、私が教えられているような気になりました。校長は、ちょっとヴァージニア・ウルフを思い起こさせるような女性でした。彼女はアルザス人で、占領期をパリで過ごし、この学校をなんとしても再建してみせるという気持ちに溢れていました。
     その頃はきわめて不公平なことがありました。「内地」から来た教師は、他の教師、つまりアルザス人よりも1.5倍の給料を貰っていたのです。同じ資格を持ち、同じ困難に見舞われているのにもかかわらずです。私にとっては得なことでしたよ、もちろんね。おかげで私は二等列車でパリまで行けたのです(当時は三等までありました)。鉄道での移動はとても長いもので、だいたい12時間ほどかかりました。アメリカが戦争中ノジャンの鉄橋を破壊していたので、非常に遠回りしなければならなかったのです。それに加えて、私が乗った列車は、アルベルグエクスプレス(Albergexpress)といって、ウィーンまで繋がっている便でした。いくつもの国境を越えていかねばなりませんし、金だか何かの闇取引があるということで、税関の役人がちょっとしたポケットまですべて調べ上げるので、いつも遅延していました。

    D:シオランはあなたに会いにミュールーズまで行かなかったのですか。

    B:いえ、もちろん来ましたよ。彼は当時自転車にとても熱中していました。私は最初のクリスマスのバカンスをパリでシオランと過ごしたのですが、その後イースターのバカンスのとき、シオランが私にこう言いました。「君はパリに自転車で来なよ。それで二人で自転車でアルザスまで行こう」。実際に自転車でアルザスまで行きましたよ。私は疲れ果てましたが、シオランはピンピンしていました。オー=ラン(Haut-Rhin)では登りの道がとてもあって、もう今ではとてもできないでしょうね。

    D:あなたはミュールーズに一年しかいなかったのですね。

    B:はい。私がパリに近いところに行けるようシオランがいろいろと働きかけてくれたのです。成功したのはリュパスコ*1のおかげです。リュパスコは中学校の校長を知っていましたので。リュパスコはとても素晴らしい人で、私たちは彼のことが大好きです。彼はすべてを大げさに言うのです。シオランでもリュパスコの誇張ぶりにはかなわないでしょうね。そのおかげで私はオルレアンに赴任することができました。パリから1時間20分のところです。

    D:それで、あなたはシオランと一緒に住み始めたのですね。

    B:いえ、私はオルレアンにアパートを借りました。でもパリには週に二度は行っていました。オルレアンには一年しかいませんでした。1947年までですね。少なくとも二年はいることを見込んでいたらしく、委員会の人たちは不満げでした。リュパスコがまた動いてくれて、私はヴェルサイユに赴任しました。

    D:それであなたはパリに住み始めたのですか。

    B:そうともそうでないとも言えますね。ご存じのように、私は不眠なのですが、それは教師になってからのことなのです。授業の準備をしなければとか、明日遅れないようにしなければと考えて過ごすうちに、私は眠れなくなってしまいました。だから私はヴェルサイユに小部屋を借りて、週二日はそこで寝泊りしていたのです。私が勤めていたリセはリセ・オッシュという男子校でした。当時そこには私しか女性がいませんでしたので、ちょっとした特別な地位に自分がいる気がして、快適だったといいでしょうね。でも家からリセまで1時間以上かかったので、それを除けばのことですが。

    D:パリであなたはどこでシオランと一緒に生活したのですか。

    B:ホテル・マージョリーです。ほとんど移動しないで引っ越しをするというのが彼のいつもの流儀でした。ラシーヌ通りにあるホテル・ラシーヌから移ったのですが、ホテル・マージョリーはラシーヌ通りとムッシュー・ル・プランス通りの角にありました。

    D:当時、ホテルの料金は安かったですね。

    B:ええ。一月毎に払っていました。ホテル・マージョリーでは、シオランは二つの小部屋を借りていましたが、そのあと私たちはもうひとつ隣の部屋を借りました。というのも、私は両親に伝える住所としてもうひとつ部屋が必要だったのです。ご存じでしょうが、当時はこういったこと[シオランとの共同生活]は無条件に許されるというわけではありませんでした。

    D:ヴェルサイユの後はどうされたのですか。

    B:ヴェルサイユの後は、リセ・ミシュレに赴任しました。そこがすごくよかったのは、私はHEC[HEC経営大学院。グランゼコールのひとつ]受験クラスを任されて、週に13時間半教えるだけで済んだことです。でもクラスの時間の間隔がとても開いていて、結局私は朝にバスに乗って、夜の7時半に帰らなければなりませんでした。ほぼ一日中ですよ!

    D:それでリセ・ミシュレもまだ遠かったので、あなたはもっと近いところに赴任しようとされたのですか。

    B:そのとき、悲劇的なことが起こったんですよ。私はリセ・フェヌロンのカーニュ[高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)文系受験準備クラス]に任命されました。私はカーニュの仕事をしたことがなかったのに加えて、生徒を合格させてその仕事を全うするためにはまったく不可能なクラスを持たされました。そのクラスにいたのは技術系の学校の受験を準備していた女生徒たちで、私は彼女たちに電話でテストのヒントや対策やら何やらを教えなければなりませんでした。カーニュで授業をするというのはまったく簡単なことではないことがわかりました。全然うまくいきませんでしたよ。そのとき、私はまったく眠れなくなりました。この不眠は3ヶ月続きました。夜の間ずっと15分毎に鳴るソルボンヌの鐘の音を聞いていましたよ。まったく眠れませんでした。当時は窓を見るたびに飛び降りようと思いました。結局私は視察官のところに行ったのですが、私がどんな状態にあるのかを見た視察官は、クリスマスまでの休暇を言い渡しました。その後、私はリセ・モンテーニュに赴任するよう命じられました。そこはとてもいいところで、私はリュクサンブール公園を通って、毎日徒歩で行けるようになりました。


    "結局のところ、シオランは書くのがあまり好きではなかったのだと思います"



    D:1947年、シオランはどのような文学生活を送っていたのですか。彼はガリマールのもとで『崩壊概論』を苦しみながら書いていましたか。

    B:私がシオランと知り合ったとき、彼はルーマニア語で書いていました。それというのも、彼がフランス語で書く決心をしたのはまさに1947年のことですからね。『崩壊概論』はその2年後に出ました。彼は少なくとも2回か3回は書き直しました。

    D:はい、彼はその逸話を語っていますね。それによると、彼はディエップにいて、マラルメをルーマニア語に訳していたところ、結局こんなことには意味がないと考え、決断したとのことです。この話は本当のことですか。

    B:ええ。ディエップがどうやって私たちの人生に現れて来たのか、お話しましょう。私がポワティエで会った古い友人がディエップでポストを得たのですが、その理由というのが、誰もディエップに行きたがらなかったというものでした。当時は戦争中で空爆がありましたから。私はそのときフォワイエ・アンテルナシオナルにいました。ある日、その古い友人が私をディエップに来るよう誘ってくれました。それで私はディエップで8日間過ごし、フランス解放の後には、シオランを連れてたびたび訪れるようになったわけです。なんといっても行くのが簡単で、鉄道に乗ればすぐ着きましたからね。シオランはディエップが大いに気に入っていました。
     1947年のその夏も、私たちはディエップで過ごしたのですが、その後私は両親に会いに行ったので、シオランを一人で置いていかねばなりませんでした。彼はディエップ近くのオフランヴィルの家族経営のペンションに滞在しました。そしてそこで、彼が語っているように、マラルメを訳していたとき……その後はご存じのとおりです。

    D:彼はいつフランス語で書き始めたのですか。あなたは彼を手助けしましたか。

    B:いいえ。その当時、私はオルレアンにいました。彼が『崩壊概論』を書いていることを私は知っていました。でも私がそれに何か関わった記憶はありません。私が知っていたのは、彼が『崩壊概論』の最初のバージョンを書いたということ、それをガリマールに持ち込んだこと、その原稿をあるフランス人の友人に見せたところ、「全部書き直さなきゃ。いかにも外国人が書いたみたいだ」と言われたということだけです。シオランはそう言われて激怒しましたが、最終的にはその友人が正しいと認めるようになり、書き直し始めました。他で知っているのは、彼がある女性と会っていたということですね。私はその女性が誰なのか知りません。私はその人に一度も会ったことがないので、名前も知らないのです。シオランはその人のことを「文法学者さん」と呼んでいました。というのも、シオランには、人にニックネームを付けたがるという、たぶんルーマニア、あるいはラシナリ出身の人特有の癖がありましたから。ですので、おそらくその人が彼に手助けしたのでしょう。私が唯一出来たことは、彼の原稿をタイプ打ちすることでした。シオランのすべての原稿をタイプ打ちしたのは私です。そこにかけては私には値打ちがありましたね。彼はタイプミスが許せなくて、ミスを見つけると怒るのです。
      『崩壊概論』の最初のバージョンをタイプ打ちしたのは私ではありません。彼はタイピストに頼んだのですが、その値段がとても高かったのに、ミスばかりしていたので、私がタイプ打ちを勉強して、私がするようになったのです。

    D:彼はあなたに原稿を見せたのですね。その原稿を見て、あなたは彼に何か言わなかったのですか。例えば、これは間違っているとか、こんな言い方はしないとか。

    B:彼は1日に1ページ以上はほとんど書きませんでした。彼の本が短いのは、彼があまり書かなかったためですね。私がリセから家に帰ってくると、だいたい彼は書いたページを見せてきました。彼は満足していませんでした。彼は自分の書いたものにいつも不満でした。それで私に原稿を読むよう頼んでくるのです。彼は私の観察眼がとても優れているといつも言っていました。私が読むと、彼は自分のテクストがよいものだと思うようになるのです。私が読むことが必要だったのですね。まあ、このような感じですね。私はセイレーンの呼び声のひとつだったと言っていいでしょうね。しばしば、私にフランス語を教えたのはシオランではないか、と思うことがあります。私が自分の言語について意識するようになったのは、彼のおかげですからね。
    ときどき、私は異論を挟みます。しかし彼には彼の考えがあるのです。彼がチェロネッティ*2について書いたテクストのことを思い出します。彼がそれを書いたのは、チェロネッティの『肉体の沈黙』の翻訳が出るためで、チェロネッティがシオランに序文を頼んだのです。シオランは嫌がって、なんとかして断る方法を探りました。彼はいつもそうして逃れようとするのです。結局彼はこんな風に言いました。「私は序文は書かないが、編集者への手紙なら書いてもいい」。彼はその書いた手紙を私に見せてきました。手紙を読んで私はひっくり返るほど驚きました。シオランが問題になっている物事をそのまま語らないのに私は慣れていましたが、しかしその手紙は、リュクサンブール公園で、義理の娘といっしょにいるチェロネッティを、シオランが木の後ろから隠れて見る話で始まっていました。私は言いましたよ。こんなことを公にするのは非常識だと。シオランは有無を言わさない断固とした声で答えました。「句読点のひとつたりとも変える気はない!」。実際、彼は句読点のひとつたりとも変えませんでした。だから私の指摘などお構いなしでしたね。

    D:いつもそうだったのですか。

    B:ときどきはありましたよ。彼が私のほうが正しいと思ったときの話ですけどね。

    D:それで、彼があなたに読んでもらうよう渡したテクストは、ルーズリーフに書いてあったのですか。

    B:いいえ。彼は大判の便箋に書いていました。最初彼は鉄製のペンとインクを使っていました。それが書き物をしているシオランについての、私の最初の記憶です。当時、彼はルーマニア語で書いていました。そのあと、彼は万年筆を買いました。ボールペンを使うようになったのはずっとあとになってのことです。私が『祖国』*3の原稿の書かれた年代を特定できたのは、こういったことを憶えているからなのです。
     彼の書く文字を判読するには、いくつかの彼の癖を心得れば、難しいことではありません。特徴的なのはRの書き方で、彼はNのようにRを書くのです。彼はいつもこう言っていました。「私は[フランス語の]Rを発音することができないので、書くときもこんなに下手なんだよ」。私がRをうまく発音できることに彼は驚いていました。私がしゃべっているとき、彼は私に近づいてきて、下のほうから私の口をじっと見て、どうやって私が発音しているのか理解しようとしていました。

    D:彼には書くときの儀式や、特別な時間といったものはなかったのですか。

    B:いいえ。結局のところ、シオランは書くのがあまり好きではなかったのだと思います。『崩壊概論』のあと、『苦渋の三段論法』が出ましたが、これは商業的には完全な失敗でした。いまでは一番売れている本ですが、それは最近再版されてのことです。はじめの出版直後には、雑誌『エル』に書評が一本載ったきりでした。それでガリマールが本を絶版にしました。そのあと、シオランはあまり書かなくなりました。もし『新フランス評論』編集長のジャン・ポーランが、シオランに原稿を頼まなかったら、シオランは決定的に書くのをやめていたかもしれません。彼の本の多くは、『新フランス評論』に掲載されたエッセイによってできています。彼にはどうすることもできませんでした。ポーランに原稿を書くと約束してしまったのですからね! 彼はこんな風に言っていました。「書くと約束してしまったからね。約束してしまったせいで、締め切りなんてものができてしまった」。彼はいつもこんな調子で言うのです。「私にはこの原稿は絶対に書けないよ」。そうこうしているうちに、突然、彼は部屋に引きこもり、書き始めるのです。私がいつも驚いていたのは、彼は一度書き始めると、何事もなかったかのようにすらすらと書いていくことです。彼の原稿を見れば、修正した箇所がほとんどないのがわかります。

    D:シオランは、エッセイとは他のもの、例えば、演劇とか何らかのフィクションとか、そういったものをを書こうとしたことは一度もなかったのでしょうか。

    B:あっけにとられるようなことを仰るんですね。シオランはそんなことは一度も考えませんでしたね。シオランは同じテーマの違うバリエーションしか書きませんでした。

    D:しかし、それはあらゆる作家にあてはまることではないですか。シオランに他のものを書く気があったというのは、それほど考えられないことでしょうか。

    B:シオランがしばしば友人に自分の過去を語っていたことを思い出します。彼が学生のころ、兵役についていたころのことなど、とても素晴らしい物語でした。腹がよじれるほど笑ったあと、友人の多くが彼にこう言うのがつねでした。「回想録を書く気はないのかい」。シオランはこう答えました。「でも、私には回想録や物語を書く能力がないよ。それを書くのに必要なものが私にはないんだ」。

    D:シオランのルーマニア語のテクストの翻訳については、どのような事情があったのでしょうか。彼はそれに関わったのですか。

    B:彼は長い間自分のルーマニア語のテクストが翻訳されるのを拒否していました。思い出しますが、はじめに翻訳のことに言及したのはアラン・パリュイ*4です。シオランはパリュイのことがとても気に入っていて、つねづね翻訳家になるよう急き立てていました。彼には才能があると思っていたのです。というのも、シオランにはちょっとした悪癖がありました。それは人に助言を与えて、人に何かをさせたがるという悪癖です。シオランは助言を与えるのをとても好んでいましたが、私のほうは、そういった助言をまったく信じていませんでした。
     それで、ある日、パリュイがシオランに会いにやってきました。パリュイは『絶望のきわみで』を翻訳したいと思っていました。シオランは彼にこう言いました。「試しに少し訳したのを見せてくれないか」。パリュイはいくつか訳したページを持ってまたやってきました。そして彼ら二人が下した結論は、これはフランス語には合わない、というものでした。
     何年かあと、今度はサンダ・ストロジャン*5が『涙と聖者』を翻訳しはじめ、彼女は訳文を持ってしょっちゅう訪ねにきました。それで二人は検討をはじめるのですが、シオランは私に同席するよう頼んできました。私にとってはまったく不幸なことでしたよ。というのも、シオランは、日常的なことに関しては優しく、愛想がよく丁寧なのですが、ことがエクリチュール、テクストの問題になると、そういった優しさはもはや彼にはないのです。彼はくりかえしこう言ったものです。「これはだめ、削除しなきゃ」。サンダが家にまた来たとき、彼女はこう言いました。「今日はまた何を削除されるんでしょうか?」。『涙と聖者』のフランス語版は、ルーマニア語版のだいたい3分の1の長さしかないと思います。サンダは序文を書いてその分を埋めなければなりませんでした。さらにシオランは、いくらかのページを書き直そうと考えました。そのせいで、読んでもルーマニア語から翻訳されたテクストを読んでいるという気がせず、むしろここにいるのはフランス語の作家である、という感じがするようになりました。最近、私は英訳を読んだのですが、とても驚きました。英語のほうがルーマニア語の翻訳にとても合っているのですね。仏訳のような堅苦しさがありません。ルーマニア語のシオランの、あの膨張するバロック的文体には、フランス語より、ドイツ語や英語のほうがよく合っているのですね……。


    "私にとって、それはシオランと共にいるための、ひとつの仕方だったのです"


    D:シオランがあなたに読んでタイプしてもらうよう頼んだテクストの他にも、あなたは彼の死後、彼のつけていた日記を発見されましたね。

    B:あれは日記ではないのです。あれは、どういう風に言えばいいのかわかりませんが、カイエ(cahiers, ノート)です。シオランの原稿をドゥセ図書館に寄贈すると決めて、片付けをしていたときに、たまたま、わきにほうっておかれたそのカイエを見つけました。多くのカイエが残されていましたが、それぞれのカイエの表紙には、「破棄すること」と書かれてありました。私は図書館への寄贈の話もうちやってそのカイエを読み始め、これはそれまでとは違うシオランを明らかにする貴重な発見だと思いました。それは下書きノートも兼ねています。のちに彼の著作のなかに収録されたものがたくさんあります。一字一句同じなものもあります。推敲を重ねて、同じ文章の3つか4つかの違うバージョンが続けざまに出てくることもあります。彼は文章表現において完璧な地点に行きたいと望んでいたのです。けれども、カイエには他のことも書かれています。いずれにしても、日付が記されていることはそれほど多くありません。だいたいの場合、日付が付されているときにはこういった記述が伴っていることが多いのです――「恐ろしい夜」とか、「ひどい苦しみ」とか。
     カイエのテクストを書き写す過程で、私は日付が記されているものすべてを保存しました。たとえ大した関心を惹かないようなものであってもです。私は、私がしていること、私が決めたことに、満足してもいれば不満でもあります。シオランはこのカイエのことを私に話したことは一度もありませんでした。生前、私は彼の部屋に入るとき、テーブルの上にノートがひとつ置いてあることにときどき気付いていました。ご存じでしょうが、彼の部屋には、他の人は入れなかったのです。掃除婦も彼の部屋には出入り禁止でした。というのも、なにかものがなくなるとしたら、それはつねに誰かが無秩序を乱すからであるというのが、彼の持論だったからです。それで、私が気付いたそのノートですが、それはいつも同じノートでした。彼はいつも同じ種類のノートを買っていたのです。そしてそのノートはいつも閉じられていました。もちろん、私は一度も開けたことはありませんでした。
    この一連のノートを見つけたあと、私はドゥセ図書館の館長に、これをすぐには寄贈しないことを伝えました。

    D:そしてあなたは再び、前と同じように、そのカイエをタイプライターで打ち始めたのですね。

    B:ええ。私にとって、それはシオランと共に居続けるための、ひとつの仕方だったのです。

    D:シオランはあなたに原稿は見せたけれども、そのカイエは見せなかったのですね。

    B:そうです。

    D:そのカイエは、どこがいわゆる日記というものと違うのでしょうか。

    B:それは、「今日だれだれと会った。これこれをした」といったような、普通の日記の記述とはまったく違います。シオランは彼が会った人、あるいは彼の周りにいる人については多く語りません。彼は自分について語ります。ほとんど自分のことしか語りません。出来事は、ただ彼に関係するときにのみ現れますが、それは往々にしてとても悲しいものです。
     私はこう言って自分を慰めようとします。「どうしてこんな風に書かれるのだろう! このときには私もそばにいたのに。これはこんな風ではなかった、だってシオランには暗いところはまったくなかった。彼は陽気、とても陽気だったのだ」。もちろん、この理由はとてもよく理解できます――彼は悲しいときにしか、絶望の発作が起こったときにしか書きませんでした。彼はどこかでこう言っています。
     「私の本が暗いのは、それは私が自分の体に弾丸を一発ぶちかましたいときに書き始めるからだ」、と。
    このカイエを彼は夜に書いたのです、眠れないときに、あるいは遅く帰ってきて、床につく前に。このカイエのなかで繰り返し現れるのは、つねに挫折という感情です。このせいで私は読むのがとてもつらくなります。彼はこんなに挫折の感情に取りつかれていたのか、彼はこれほどまで不幸だったのか、と思うと。

    D:その挫折の感情ですが、それは作家としての成功に対してのもの、彼が不十分だと思っていた世間での評判に対してのものでしょうか。

    B:いいえ。私が思うに、この挫折の感情は、結局は彼自身に抱いたものだったと思います。

    D:あなたは、そのカイエを出版されたいと望んでいらっしゃるのですね。

    B:はい。それはこう考えたからなんです――「これがドゥセ財団の手に渡るとすると、これに興味を持った研究者が必ず現れて、いつの日か公にされるだろう。それなら、私が先にやったほうがいいだろう」。しかし、私は自分の編集者としての資質にひどく疑問を持っています。私はシオランのテクストをタイプ打ちしていたけれども、今やっているこれはそれ以上の仕事です。私は生前の彼の前でタイプ打ちをしただけで、この文章が出版されるかどうかを決めていたわけではありませんし、自分の意見があったわけでもありません。

    D:それであなたは、そのカイエの出版について、責任を感じていらっしゃるのですね。カイエのなかには、伝記的な要素や記述も含まれていますね。例えば次のようなものです。「マリー=フランス(・イヨネスコ)*6と素晴らしい夕食」。そしてまた、後に出版されるテクストの下書きや、あなたがとても悲痛だと仰られた考えの記述などがあります。全部で35冊あると聞きましたが。

    B:何冊というのは難しいですね。というのも、バカンスのときに持って行って書いた小さなノートも複数あるからです。あるときから、もっと大きいサイズのノートにだけ書くようになり、その小さなノートは単なる下書き用のノートになったのです。あるものはとても推敲され作りこまれていますが、逆にあるものは浮かんだ考えをそのままメモしただけと、統一性がありません。
     なにより、このテクストを出版されることを彼が望んだのかどうか、私にはわかりません。彼はときどき他の人々についても語っています。ほとんどの場合彼は名前を書かず、イニシャルで済ませていますが、しかし結局誰のことなのか、すぐにわかってしまいます。ご存じでしょうが、シオランにはこういった側面もあって、彼はときどきとても…

    D:悪意がある?

    B:ええ。彼は冗談を言ったり誇張をするという誘惑に打ち勝ったことは一度もありませんからね。彼は友人に腹を立てても、のちには仲直りするんです。


    (続く)


    *1 ステファーヌ・リュパスコ(Stéphane Lupasco, 1900-1988) ルーマニア生まれのフランスの哲学者。

    *2 グイード・チェロネッティ(Guido Ceronetti, 1927-)イタリアの作家。シオランのチェロネッティについてのテクストは『オマージュの試み』に収録されている。

    *3 『祖国』(Mon pays)シオランの死後発見されたテクスト。自身のルーマニア時代の過去、とくに政治的熱狂について書かれている。執筆年代に関しては、シモーヌ・ブエは1950年代初頭としているが、マルタ・ペトレウ(Marta Petreu)は45年-47年としているなど諸説ある。邦訳『ルーマニアの変容』に収録されている。

    *4 アラン・パリュイ(Alain Paruit, 1939-2009)フランスの翻訳家。数々のシオランのルーマニア語作品の仏訳を手がける。

    *5 サンダ・ストロジャン(Sanda Stolojan, 1919-2005)ルーマニア生まれのフランスの作家。『涙と聖者』の仏訳者。

    *6 マリー=フランス・イヨネスコ(Marie-France Ionesco)フランスの作家。父はウジェーヌ・イヨネスコ。

    シモーヌ・ブエとガブリエル・リーチェアヌの対談

     今回は、シオランの生涯の伴侶であるシモーヌ・ブエさんの、ガブリエル・リーチェアヌによるインタビューです。



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    シモーヌ・ブエ


     シモーヌ・ブエ(Simone boué)さんは1919年、フランスのヴァンデ県で生まれました。ポワティエ大学で英語・英文学を学び、以下の対談にもあるとおり、アグレガシオン(教授資格試験)に合格、リセ(高校)の教授となります。シオランとは1944年に知り合い、それ以降、シオランが死ぬまで50年以上生活を共にします。
     シモーヌ・ブエさんはシオランと長年連れ添ったパートナーですが、結婚はしていません。これは他のインタビューで明らかにされていることですが、彼女はシオランと共同生活をしていることを、家族になんと死ぬまで隠していたそうです。家族は彼女の死後になって彼女がシオランと共同生活していたことを知り、とても驚いたそうです。この「二重生活」について彼女は他の箇所で言及していますので、今後それも翻訳したいと思っています。
     シオランの死後は、彼の『カイエ』を発見し、これの出版を準備しますが、『カイエ』の出版を見る前に、1997年9月11日、海水浴場での不慮の事故によって亡くなりました。
     今はパリのモンパルナス墓地に、シオランと同じ墓石の下に眠っています。



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    ***



     ここでシモーヌ・ブエの肖像を描くつもりはない。私はただ、シオランの成功の背後には、彼女という不可視の者の存在があったと言いたいだけである。英雄の栄光の影には、足取りを見守る誰かがいるものだし、ホメロスの英雄の勝利は、舞台裏での神々の祝福あればこそである。神々は時には雲、時には鳥の姿をとって介入し、また時には単純に、槍や矢の軌道を逸らしてやったり、反対に突き刺してやったりする。後には天使がこの役割を果たすようになり、配慮されている者の眼には見えない保護者としてふるまうのであった。しばしばあまりにも見事なまでに起こるのだが、偉大な人々の人生においては、神々や天使がしたのと同じように、その「作品」を創るのが可能な状況を整える何者かがつねにいるものである。その者は何も望むことなくそれをなし、誰からも称賛されることもない。彼らの行いはほとんど知られることなく終わる。

     シオランはある時期奨学金を貰って生活をしていたが、しかし本当の奨学金、運命のはからいによって一生涯受け取ることになった奨学金は、「シモーヌ・ブエ」という名を持っていた。幾度となく、特に1990年以降にシオランを訊ねることによって、私は彼女の知己を得ることになった。「私の友」(Mon amie)、シオランは彼女のことをそう言って紹介してくれた。彼女は、面白いと思ったシオランの日々の言動を語ってくれ、その話のなかでシオランはいつも立派な姿をしているとはいかず、いつも隣にいる彼をからかうのであったが、その愛情に溢れた光景はとても美しいものだった。彼女にはシオランと同じようなユーモアの感覚があり、二人の言葉の応酬を聞くと、これが趣味のよさというものか、という感慨を誰でも抱かざるをえないのだった。私は何度も彼らと夕食の席を共にした。1994年、彼女に短いインタビューの録画を頼んだとき(そのときシオランはもうブロカ病院に収容されていた。そして私はソリン・イリエシュとちょうど同じ時にパリに居合わせたのだった。シモーヌは彼のことを、1990年6月にシオランとの対談を録画したときに知っていた)、彼女は快く承諾してくれた。ただし、録画せずに、音声だけという条件つきで。すでに機材をオデオン街の小さなアパートの部屋に設置してしまっていたソリン・イリエシュが、ビデオカメラを帽子で隠さなければならなくなったことを思い出す。そうしてシモーヌはインタビュー中、たえず笑いながら、皮肉を交えてコメントをしてくれたのである。

     その前の日の晩、モニカ・ロヴィネスクから、明日11月18日がシモーヌの誕生日だということを聞いた(モニカの誕生日は11月19日であるから、おそらく何度も一緒に祝ったことだろう)。正直に言うと、このインタビューにかける私の期待はかなり大きいものだった。しかし、私はシモーヌから、50年もの間そばに居続けた人物について、特別なことを聞くことに失敗した。私たちが話題にしている当の人が、寝たきりの病人であること、このことがインタビュー中ずっと奇妙な感じを与え、突っ込んだ話を訊きづらくしたのだった。ある意味では、彼女はつねに一貫していたとも言える。彼女は一貫して不可視の者であり続けた。けれども、彼女という「隣人」から語られる光景に現れるシオランは、この上なく生き生きとしている。

    ガブリエル・リーチェアヌ




    ***



    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):今日は1994年11月18日です。シモーヌ・ブエさん、あなたの誕生日であり、そしてあなたがシオランと知り合った日からちょうど50年になる日ですね。

    シモーヌ・ブエ(Simone Boué):ええ。それは1944年11月18日のことでした。私はフォワイエ・アンテルナシオナル(Foyer International)の学食の列に並んでいて、いつも遅れて来たものですから、その時もちょうど閉まる直前に着いたのです。シオランは私よりも遅れて来て、私のちょうど後ろに並びました。

    L:それはどこで起こったのですか?

    B:サン・ミシェル大通りです。1階に学生食堂がありました。利用するには用紙に日付などの必要事項を書かなければいけないんですが、そのときシオランが私に近づいて来たんです。私は前から彼が気になっていました。

    L:彼のどのあたりが気になっていましたか?彼には何か特別な感じがあったのでしょうか。

    B:ええ、彼はいつも一人で、全然フランス人っぽくありませんでした。それが私にとって(笑い)、むしろポジティブなことだったんです。お分かりになるでしょう?若いころには、普通とは違ったものに心を惹かれるものです。

    L:彼にはエキゾチックな雰囲気がありましたか?

    B:エキゾチックは言い過ぎですね。でもまったくフランス風ではありませんでした。たぶんロシア風な……。

    L:シオランはその時学生だったと思いますが。

    B:ええ……いえ、そうですね……はい、博士課程の学生でした。そうでなければ学食にいる理由がありませんから。とはいっても、彼にとって重要なのは、学生という身分であることで、学食で食事ができるという点にありました。
    それで、彼は私に近づいて来て、今日は何日かと訊いてきたんです。用紙の必要事項を埋めなければなりませんでしたので。ええ、私は答えることができましたよ、何といってもその日は私の誕生日だったんですから。11月18日です。そうやって私たちは会話を続けて、お互い知り合ったわけです。私たちは一緒に食堂を出て、その後も会うようになりました。

    L:間違いでなければ、当時シオランは英文学、特にシェリーの詩に熱中していて、そしてあなたは英語の勉強をしていたのですから、おそらくあなたがたには会話の種には困らなかったと思いますが……。

    B:彼は以前から英語を勉強していました。私たちが知り合った時、彼には「ミス」(Miss)と呼ばれていた先生がいて、イギリス人の年配の女性――実際はアイルランド人でした。当時はドイツ軍占領下でしたから、イギリス人がフランスにいるわけもありませんでした。

    L:彼は「ミス」先生にお金を払うことができたのですか?

    B:それが、彼の支払いは本当に少なかったんですが、彼女は特に彼のために時間を割いてくれたのです。何と言ってもシオランは非常にもてましたし、さらにしょっちゅうフランス人の悪口を言うものですから、アイルランド人のご婦人を喜ばせないわけがなかったのですね。思うのですが、あのご婦人は彼にちょっと愛情を抱いていたようですね。先ほど申し上げたように、彼にはフランス人風でないところがありましたから。そこにアームチェアがあるでしょう?それはもともとそのご婦人のものだったのです。

    L:当時シオランはどこに住んでいましたか?

    B:ホテル・ラシーヌです。彼にはちょっとした奨学金がありました――どんな奨学金か正確には知りませんが。

    L:彼はどんな風に過ごしていたのでしょう?大いに本を読み、書いていましたか?彼には計画があったのでしょうか。フランス語で書くという考えに惹かれていたのですか?

    B:ああ、いえ、それはまったくありません。彼と知り合ったとき、強く印象に残っていることがあります。時々、彼はルーマニア語の聖書を読んで、暗闇の世界に入って行きます。その後、彼は読書をやめて、筆をとってルーマニア語で書き始めます。そうして一ページも書かないうちに書くのをやめてしまうと、彼はまったく様変わりして、快活になり、口笛さえ吹くようになるのです。あの時期、エリアーデがポルトガルから小包を送ってくれていて……。

    L:エリアーデは当時リスボンの大使館に勤めていましたね。

    B:ええ、その通りです。小包のなかには特に煙草のキャメルが入っていました。シオランは夜バーの入り口でその煙草を売っていたんですよ。そのおかげでシオランは月の家賃を支払うことができたんです。考えられないことじゃありませんか。あの時期のことをよく憶えています。彼が書き物をする机の下に、スーツケースがひとつ置いてありました。いつルーマニア政府に動員されてもいいように準備してあったのです。彼がルーマニアを去る際武官の人にこう言ったそうです。「私を当てにしてもらってもいいですよ。何かあった時に状況をなんとかできるのは私だけです」。いずれにせよ、シオランが書き物をしていたときに足をのっけていたそのスーツケースを見る度に、私は怖くなったものです。

    L:シオランの英語と英文学への関心はどのくらい続いたのですか。

    B:非常に長く続きました。ずっと、と言ってもいいくらい。彼は私と一緒に英語の講義に出て、出席者のなかで非常に目立っていました。なぜかというと、彼が帽子を被っていたからなんですよ。当時フランスでは帽子を被る人は誰もいなかったのです。同じように彼は厚手の素敵なコートを着ていましたが、フランス人はそういう服装をまったくしていませんでした。あのような時期ですからね。みんな熱心にノートを取っていましたが、シオランはまったくノートを取りませんでした。そうやってみんなが彼を好奇心を持った目で見ていました。実を言うと、私もシオランも、講義にちゃんと出ていたというわけではありませんでした。

    L:彼のどのようなところに一番惹かれましたか。彼の考える仕方、語り方でしょうか。彼には何か特別なところがありましたか。

    B:ええ、とてもね!彼といると驚きの連続でした。彼は物事を見る際にまったくの独自の仕方を持っていて、時には本当に細かいところまで観察するかと思うと、時にはまったく見ないままでいるのです。ええ、あんなに面白い人に会ったことは一度もなかったと言えるでしょうね……。

    L:彼はいつもアイロニーに溢れていましたか?彼はいつも同じ調子でしたか?それとも……。

    B:同じ調子?ご冗談を!その反対です。申し上げましたでしょう。いかに彼が突然暗い気分に落ち込んで、一ページを書き上げることで、いかに解放されたか、ということを。
    時々私たちは外に出て、とくにリュクサンブール公園に行きました。あそこでシオランはルーマニア人の友人と会っていたのです。あの時私は初めてルーマニア語の下品な言葉を聞いて、それと知らずに憶えはじめました。もちろん、私には彼らが何を言っているのかわかりませんでしたが、でも聞き取ったいくつかのフレーズを繰り返すことはできました。それで、あるとき、おそるおそる、「『尻の穴を舐めろ』(pupa-ma-n-cur)ってどういう意味なの?」と訊いてみたのです。彼らは全員笑い出して、私の発音がトランシルヴァニアのアクセントだったと言ってくれました。これは私が憶えた最初のルーマニア語の下品な言葉でしたね。

    L:気を落とされると申し訳ないのですが、今のあなたの発音は紛れもなくパリ風のアクセントでしたよ。

    B:(笑い)腹立たしいですね!

    L:教えていただきたいのですが、シオランのような人間と50年間も共に過ごすというのは、どのようなことなのでしょうか?実りあるものでしたか?喜びでしたか?それとも反対に、苦しいものでしたか?このようなことをお伺いするのは失礼かも知れませんが……。

    B:実のところ、私たちはまったく異なった生活を送ってきました。私は教師でしたから、考えることは一つだけです。明日も早く起きなければいけない。そしてまさにこのことから、私は不眠にもなりました。彼は、反対に、多くの人々と会って頻繁に外出し、夜遅くに帰ってきました。最初のころ、彼が知り合った人を私は知りませんでした。私たちはほとんど反対の時間に生きていたからです。とはいえ、もちろん(笑い)、今では会うようになっています。

    L:ミショーやベケットとは知り合いにならなかったと仰るのですか?

    B:いえ、もちろん知り合いましたよ。でも今私は戦後まもなくの頃の話をしていたのです。私はまずエリアーデと知り合いましたが、とても面白かったのは、シオランが人を紹介する際の、まったくフランス的でないやり方でした。彼はひどく誇張するのです。「君はもっとも偉大な作家と知り合うことになるんだよ」、といった風に。でもこのやり方は、刺激的で、人をわくわくさせるものでもありました。

    L:シオランの著作の暗い色調と、日常生活で放つ陽気さとの間の矛盾に驚いたことはありませんでしたか?彼は笑うことが好きで、他人を笑わせることも好きだという……。

    B:シオランの著作のなかに何か強壮剤のようなものがあり、いたるところにユーモア感覚が潜んでいると言う人は、決して少数ではありません。実のところ、彼の気分は非常に変わりやすいのです。あるときは虐殺でもしかねない気分ですが、5分もすると笑い出しはじめる、といったこともあります。

    L:彼が違う言語で書くことを、違う文化に属すことを決めたときのことを憶えていらっしゃいますか?

    B:その兆候はありました。ある日、「誰も知らない言語で書くなんて何の意味もない」と彼が言うのを聞いたことがあります。

    L:彼は「小さな文化から来た者の傷付いたプライド」を持っていましたか?

    B:疑いなく持っていました。

    L:彼は言葉を変えるに際して苦労しましたか?

    B:これは彼自身が言っていたのですが、多くのルーマニア人と同じように、彼はフランス語が完璧に出来ると思っていました。ですが始めてみて、そうでないことに気付いたのです。彼は友人の一人に原稿を見て貰いましたが、すべて書き直すよう言われて、シオランはひどく腹を立てていました……。

    L:ですが、あなたの意見を聞こうとはしなかったのですか?

    B:私はその時期ミュールーズにいたのです。私が得た最初のポストでした。それは戦争が終わって間もなくのことで、鉄道が通る高架橋が爆撃で破壊されていました。ミュールーズからパリへは12時間かかったのです。ですから、私たちはあまり会えませんでしたし、シオランのフランス語での最初の本の原稿をめぐる話に私は関わらなかったのです。

    L:それでは、シオランがフランス語に問題を抱えていたのは、最初の著作、『崩壊概論』だけであったと言ってもよいのでしょうか?その後、彼は完璧にフランス語をものにしたのでしょうか。こう申し上げるのは、私がこの時期、シオランの言語的アイデンティティの変化の時期に強く関心を抱いているからです。二冊目の本は自然に出てきたのでしょうか?

    B:二冊目の本は、ご存じのように、アフォリスムの著作でした。ですからある意味で、シオランはどの文章にもより容易に取り組めたはずです。

    L:「『否定』が私の人生に最初から入り込んでいた」、とシオランは好んで言っていますが、ブエさん、あなたは彼の生の哲学、彼の懐疑主義、この世界と生をすべて覆い尽くす彼のペシミズムとうまくやっていくことが出来たのですか?この世界の美しい側面が、少なくとも著作のなかでは、完璧に無視されているのですから……。

    B:彼が世界の美しさから逃れられたとは決して思いません……。

    L:しかし、著作のなかに現れているのは生の否定的な側面のみです。

    B:私がこう言うのは、なにかある「ヴィジョン」に依拠してではないのです。私はつねに彼の人格の「陽気な」側面に居合わせてきて、あなたが仰っているような側面についてどうこう思ったことはあまりありませんでした。私が彼の著作のなかで関心があるのは、その文章表現の完璧さです。

    L:フランスで著作活動を始めたころのシオランは、まったく無名の存在でした。彼は夢見、悩んでいたのでしょうか。彼は何かプランを持っていたのか、あるいは文化のシーンでの自分の未来について、不安に駆られていたのでしょうか。

    B:シオランは計画というものを一度も持ったことがありませんでした。彼はプランというものをまったく馬鹿げたものとみなしていました。実際、彼はその日その日を生きてきたのです。

    L:ある時シオランは、名声を得た者は軽蔑するに値すると言ったことがあります。彼はどのようにして、自分が有名になり、フランス語の偉大な文体を持つ作家と称賛され、つねに文学賞を与えられながらそれを拒否するといった事態を経験したのでしょうか。

    B:ですが、それはごく最近になって起こったことです。シオランは、人前に出ると「イヨネスコの友人」として紹介されると繰り返し語っていました。時が経つと、今度は「ベケットの友人」になりました。長い間、彼は「彼自身」としては存在しなかったのです。このことは彼を面白がらせましたが、私が思うに、傷ついてもいたと思います。人間として当然のことです。『オマージュの試み』でようやく彼は本当に世間に名前を知られるようになりました。最後から二番目の本でやっとですよ。その後『告白と呪詛』が出て、それで終わりです。その後のことはあなたがご存じの通りです。
    彼がある日、クロード・ガリマールと会ったときのことをお話しましょう。シオランは、自分がいまだに『崩壊概論』の著者であると言われることにうんざりしていました。彼は『概論』のあとに書き続けてきた本がなぜまったく無視されているのか、理解できませんでした。だから彼は出版社に、どうして自分の本がポケット・ブックにならないのか、訊きに行ったのです。シオランは、自分の本がポケット・ブックになって若者に読まれることを望んでいました。そのせいで彼はミショーと議論になったくらいです。ミショーはポケット・ブックに完全に反対の立場でしたから。それで、シオランはガリマールのところに行って、文庫化の提案をしたというわけです。ガリマールは引き出しから薄い書類を出して来ましたが、それはシオランの全著作の収益表で、笑ってしまうほどのものでした。「シオランさん、この表をご覧ください、こんな売り上げでどうしてポケット・ブックに出来たりするものですか」。

    L:では当時、あなたたちは生活面ではとても控えめな暮らしをしていたと理解してもよろしいのでしょうか?

    B:(笑い)ええ、とても控えめ、そう、とても控えめでしたね……。もっと正確にいえば、私たちは平均以外の暮らしをしたことは一度もありません。教師の給料がありましたし、私たちはほとんどお金を使いませんでした。このアパートの部屋の家賃もかなり安いものですが、これはシオランのおかげです。それ以外の彼の功績は、私をアグレガシオン、教授資格試験に合格させたことですね。私は試験勉強をまったくしていませんでした。私が試験会場に行ったのも偶然からで、両親が試験勉強のためのお金を送ってきてくれたのです。この両親の愛情によって、私は会場に行くだろう、そして試験に落ちて、教授資格のない教師のままになるだろう……と私は心のなかで言ったものです。それで私は筆記試験を受けて、まったく思いがけないことに、私は合格者リストのなかに自分の名前を発見し、口頭試験に進むことになったのです。私には話すことだけが恐ろしかった、単純に話すことができなかったからです。だから私は口頭試験には行くまいと考えていました。そうしているとき、私はある女性に会って、彼女はシオランの友達で、何かの医者の仕事をしていましたが、その彼女が、もし試験に行きたくないのなら、診断書を書いてあげると言ってくれました。そのときシオランが話に割って入って、彼女に、診断書を出しては絶対ならないこと、そして私はいかなる犠牲を払ってでも試験に行かなければいけないと言い出したのです。結局私は行きましたが、合格の見込みがまったくないとわかっていたので、落ちるだろうと思いながら行きました。課題はテニスンの「イン・メモリアム」でした。私はこの詩を本当に退屈だったので、読み切らずに斜め読みで済ませていました。私はどうすればいいのかわかりませんでした。そのとき私は、前にシオランが私に語ったテニスンについてのアネクドートを思い出しました。シオランは伝記なら何でも読むたちだったので、作品の理解にどれほど役に立つのやらわからないそうしたエピソードを知っていたのです。それによれば、テニスンがあるパーティーに招かれたとき、主人の書棚を眺めて、そのなかに自分の本がないのを見ると、すぐに帰ってしまったということです。これにはもちろんシオラン自身の苦渋が投影されていました。そのあと、私はシオランに、彼から聞いたアネクドートを話したこと、そして――彼は非常に満足げでした――私が試験に受かったことを言いました。すると彼は、「毎月の終わりに教授資格があるときとないときの給料の差額を貰いたいもんだね」と言いました。もちろん(笑い)、私は何もあげませんでしたよ。

    L:本当に何も?

    B:いえまあ、大したものではありませんよ。私たちは本当に少ないお金で生活してきました。時々、私たちも旅行することができたのですが、でもその有様といったら信じられないものでした。私たちにはホテルに泊まるだけのお金を持たずに出かけたのです……。私はもう少しくらいならお金を使えると言ったのですが、シオランは嫌がりました。彼には、なんと言うか、とても「スパルタ的」なところがありましたね。

    L:そういうことになったのは、生活苦のせいでしょうか、それとも彼の「スパルタ主義」のせいでしょうか。

    B:当時の彼の収入は本当に少ないものでしたから……。

    L:収入ですか?彼にはなんの当てもなかったはずですが。

    B:奨学金ですよ。そしてその後には例のボーリンゲン財団の話がありました。このことについて彼は手紙のなかで語っていましたね。多分弟さん宛のものだと思います。ボーリンゲン財団が、ヴァレリーの著作集を出版する際に、シオランに序文を依頼したのです。結局財団はシオランが書いた序文を拒否しました。十分に称賛的ではないからという理由です。いずれにしても、ちょっとしたお金が入ってくることはときどきありました。

    L:しかし、本はどうなのですか。どれほど部数が少なかったとしても――2000部から3000部と聞いていますが――まったくお金にならなかったわけではないと思いますが。

    B:以前6月にお会いしたとき、たしか仰っていましたね。彼のデビュー作『絶望のきわみで』が、ルーマニアで1万5000部売れたとか……。

    L:15万部です。

    B:ほんとうに驚きです!

    L:それには理由があります。それは1990年の出来事なのです。シオランの著作がルーマニアで出版を禁止されてから45年後のことです。今はもう部数は「正常化」し、2000部にまで落ちこみました。

    B:私もガリマールから報告を受けました……これは『崩壊概論』の最新の版ですが、部数は3000部です。

    L:先ほどの質問に戻らせていただきたいと思います。あなたがシオランの傍で生きてきた50年間の人生を評価するとしたら、どう評価なさいますか。

    B:私には評価することができませんし、しようとも思いません。一つの人生を評価するなんて、どうしてそんなことができるでしょう?

    (1994年11月18日)

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その5(終)

    リーチェアヌとの対談の続きです。これで最後となります。
    今回の分には法政大学出版局『シオラン対談集』に抜粋のかたちで収録されていた部分も含まれています。この部分をどうするか迷いましたが、前後のつながりの関係上、翻訳することにしました。邦訳のほうも参照させていただきました。


    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2

    その3

    その4


    ***


    リーチェアヌ(Liiceanu):いつあなたはフランス文学界に浸透したのですか。戦時中でさえ文学カフェやサロンに通いつめていたのは存じ上げていますが……。

    シオラン(Cioran):ご存じのとおり、文化のシーンを支配していたのはサルトルでした。彼には一人の神とみなされるほど巨大な名声があって、彼の政治的意見がどれほど間違っているかが白日の下となったときでさえも、そうでした。戦争の最後の年、冬の間中ずっと、サルトルのそばで過ごしたことを思い出します……。とても寒かったので、私はサン=ジェルマン=デ=プレに行って、一日中カフェで過ごしていました。それで何の因果かわかりませんが、ほとんど毎日私はサルトルのとなりに居合わせたのですね。でも一言も交わそうという気にはなりませんでした。

    L:しかし、あなたはカミュと会話を交わされましたよね。

    C:彼とは一回だけ会いました。あまりよくない出会いでしたね。私は彼の本を読んでいたし、彼にはちょっとした尊敬の念を抱いていたんです。なにより彼は誠実な人間だと思っていました。それ以外では彼は凡庸で、二流だと考えていました。彼はガリマールから渡された『崩壊概論』の原稿を読み、私にこう言ったんです。「今やあなたも思想の領域に入るべきですよ」――くそくらえだ!彼は自分の教師としての教養でもって私にレッスンを与えようとしたんです。彼は何人かの作家は読んでいたけれど哲学的教養の欠片も持っていなかった、なのに私に「今や…」と言うわけですよ。生徒に教えるようにね。私は出て行きました。彼の言葉は私にとってまったく屈辱的でした。私を地方から出てきた新入生のように扱ったんですからね。そして高圧的に「今や…」と言う。私は偉大な哲学者たちを読んでいたのに。そのとき私は復讐を決意しました。

    L:あなたは復讐なさったのですか。何をなされたのでしょうか。

    C:復讐しました。しかしそれは直接的ではなかった。実際私は特別なことは何もしなかったのです。私は書きました。当初、私はカミュの追随者とみなされ、彼としばしば比較されました。彼はとても有名で、20万部もの売り上げがありました……。けっこう、でも数年後に、私は自分をカミュとはまったく異なった存在だと認識させることに成功しました。これはカミュの名声を考えると決して簡単なことではなかった。
     これは申し上げておきたいのですが、私にとって喜ばしいことがあるとすれば、それは私は誰の意見も考慮しなかったということです。これがすべての作家たちに言っておきたい助言ですね。自分を信じない者、自分が作るものに対してある種の神秘的信仰を持っていない者は、作品にとりかかるべきではありません。何者も信じてはならない、ただ自分だけを信じるべきです。それ以外のことは必要ない。誰かに助言を求めてはならない、誰にも相談するべきではない――細部については別ですがね。「私は何をすればいいのでしょう……、何をすれば……」、こんなものは何の意味もありませんよ。作家にとって、自らの人生と作品は自分自身が引き受けるべき冒険です。膨大な人々が私に原稿を送りつけてきます。でも、こんなことをするべきではないんです。信じるか、信じないかですよ。もし信じないのなら、それでおしまいです。早く止めたほうがいいでしょう。


    (訳注:以下は法政大学出版局『シオラン対談集』に抜粋のかたちで収録されています)


    L:サルトルとは知り合う気にならなかったし、カミュとの出会いは失敗だったと仰っていましたね。では仲良くなった有名な作家はだれだったのでしょうか。

    C:有名な作家に知り合いはいませんでした。

    L:しかしベケットやミショーはどうなのですか。

    C:そうですね、彼らは友人でした。

    L:どういう経緯でベケットと知り合ったのですか。偶然からですか、それともお互いを賞賛し合っていたからですか。

    C:ええ、彼は私のものを読んでいました。われわれはある夜会で知り合い、その後友人になりました。ある時期には彼は私に金銭的援助をしてくれました。ご存じでしょうが、ベケットをこういう人間であると定義するのは難しい。多くの人々、とくにフランス人は彼のことを誤解しています。あらゆる人が彼の前では才気があるところを見せなければと思っている。でも彼はきわめて単純な人間で、逆説が披露されるのを期待してなどいないんです。気取らないで、ざっくばらんに振る舞えばいいんですよ。私がベケットの何が非常に気に入っているかと言うと、彼は25年もフランスにいるのに、昨日パリに来た人間のように見えるところです。彼にはパリジャンらしいところがまったくない。良い意味でも悪い意味でもフランス人に影響されていません。彼は月からやって来たんじゃないかと思わせるものがありますね。彼は自分では少しフランス化されたと考えているようですが、実際はそうじゃない。この影響されていないというのは驚くべきことです。彼は骨の髄までアングロサクソン、まさしく典型的なイギリス人のままで、これは私にとってものすごいことだと思えました。彼はサロンに行かず、社交が嫌いで、「会話」なんていうものは持ちあわせていません。彼が好きなのは一対一で話すことで、そのときの彼は信じられないくらい魅力的でした。私は彼が本当に好きでしたね。

    L:ではミショーは?

    C:ミショーはまた違った人間で、あけっぴろげできわめて率直です。私と彼はとても仲が良かった。彼は私に自分の相続人になってほしいと言ってきたけれど、私は断りました。彼は実に才気があって、エスプリに溢れていて……そして意地悪だった。

    L:そこが気に入っていたのではないですか。

    C:そう、そう、そこが気に入っていましたね。彼に処刑されなかった人はいませんでしたね。おそらく彼は、私が知り合ったなかでもっとも知的な作家です。でも奇妙なのは、あれだけ知的な人間でも、ナイーブな傾向を持っているということですね。例えば彼は、ドラッグとかそういうものについてほとんど科学的な本を数冊書くことに熱中していました。馬鹿げてますよ。私は彼に言いました。「君は作家で詩人なんだから、科学的な本を書かなくてもいいじゃないか。誰も読まないよ」。彼は止めようとはしなかった。彼はそういった本を書き続けたけど、誰も読んでいません。まったく馬鹿げたことでしたね。彼にはある種の科学的偏見がありました。私は言いました。「世間は君から理論じゃなく、経験を期待しているんだよ」。

    L:まさに世間の人が作家に期待していることについてお訊きします。それはルーマニアの、そしておそらく全世界のあなたの読者がもっとも関心を持っていること、つまりあなたと神の出会いという問題です。父親が司祭であり、母親が司祭の娘にしてシビウの婦人正教会の会長だったというほど宗教的な家から、涜神的な趣きを持つ抗議の人が出てきたということを、どのように説明されますか。あなたは若い頃、『涙と聖者』のなかで書かれているところによると、聖女に口づけすることを夢見、売春婦の腕のなかで神のことを思い浮かべたとのことですが……。あなたの涜神的な側面に憤っている人に対してどのように返答されますか。

    C:それはとてもデリケートな問題です。というのも、私は信じようと試みたし、作家としてもその内容によっても賞賛している偉大な神秘家をたくさん読んできました。ある時私は、自分は信仰するようにはならないということ、それは幻想であるということに気付きました。それは運命です。私は自分の意に反して救済されることができなかった。単純にうまくいかなかったんです。

    L:そのとき、なぜこの領域から離れず、この問題に囚われたままでいたのですか。どうしてあなたは否定し続け、神と格闘し続けたのですか。

    C:それは、私が信仰することの無力という危機に見舞われ続けたからです。私は信仰しようとするたびに、この試みは失敗に終わりました。もっとも深刻だったのはブラショフにいたころ、『涙と聖者』を書いていたときです。私がこの中傷に溢れた本を、宗教の歴史、神秘主義の本やその他もろもろ、膨大な読書のあとに書き上げました。本はブカレストで出版されるはずだったのですが、ある日出版社から電話がかかってきて、こう言うんです。「あなたのご本は出版されません」。―「どうして出版されないんです。もう校正も済ませたのに」。―「私は本を読んでいません。けど植字工にある段落を見せられたんです。申し訳ないが、私は神のご加護でここまでやって来られたんです。ご本は出版できません」。「いいですか、これは深く宗教的な本なんですよ。どうしても出版できないんですか」。―「どうしてもです」。おそらく、ルーマニア以外ではこんなことはありえないでしょうね。私はとても悲しかった。もうすぐにフランスへ出発しなければならなかったものですから……。

    L:本当に深く宗教的な本だったのですか?

    C:ある意味ではそうです。否定を通して、ではありますけどね。その後私はブカレストに行きました。私はとても落ち込んだまま、今でも思い出せますが、カフェ・コルソに入りました。そのとき、昔ロシアで植字工をしていたという、比較的仲が良かった人物に会いました。私が落ち込んでいるのを見て、「どうしたんだい」と言ってきたので、彼に説明すると、彼はこう言いました。「いいだろう、俺は印刷所を持っているんだ。本を出してやるよ。ゲラを持って来な」。私はタクシーを拾って全部持って来ました。本は私がフランスにいる間に出たのですが、ほとんど出回りませんでした。パリで私は母から手紙を受け取りました。「私たちがあなたの本を読んでどんなに悲しんでいるか、あなたにはわからないでしょう。あなたは本を書いているとき、自分の父のことを考えるべきだったのです」。私は返事のなかで、これはバルカンで書かれた唯一の神秘的な本だ、と書きましたが、両親を含め、だれ一人納得させることができなかった。ある婦人が、街の婦人正教会の会長である母に、「神様についてこんなことを書いている息子がいるのだから、あなたは私たちに説教する資格なんてありませんよ」と言ったそうです。

    L:友人や書評の反応はどのようなものでしたか。アルシャヴィール・アクテリアンが『ヴレメア』紙に厳しい書評を書いたことは存じ上げていますが。

    C:もっとも厳しかったのはエリアーデのものでした。でも当時私は知らなかった。その記事を読んだのはやっとこの年になってからなんですよ。どの雑誌に載ったのか知らなかったのです。私が読んだのはパリで刊行された本のなかにあったテクストです。ひどく暴力的でしたね。このような本の後で友人であり続けるられるかどうか、と彼は自問しているんですよ。同じようにひどく憤慨した手紙を貰いました。

    L:あなたの苦闘を理解し、この本を見事なものだと考えた唯一の人は、アルシャヴィール・アクテリアンの妹さん、ジェニー・アクテリアンでしたね。

    C:その通りです。彼女は私にとても素晴らしい手紙を送ってきてくれました。われわれはお互いをとてもよく理解し会っていましたよ。すべての友人のなかで、彼女はただひとり、本当にただひとりの、そんな反応をしてくれた人でした。他からは反感しか受けませんでした。それで私は、以前のこういったことを憶えていたので、『涙と聖者』がフランス語に訳されたとき、傲慢な箇所をすべて削除するという、馬鹿なことをしてしまったんですよ。そのせいで私はこの本を破壊してしまったのです。

    L:『涙と聖者』であなたの信仰への努力は失敗に終わりましたが、しかし誘惑は残り続けました。なぜでしょうか。

    C:その誘惑はずっと残りました。でも私はあまりにも懐疑主義に毒されていたんですよ。思想的にも、気質の面でもね。どうしようもない。誘惑は存在し続けましたが、誘惑だけ。私のなかにはずっと宗教的な呼びかけがありましたが、実のところそれは神秘主義的なものであって、宗教的なものではなかった。私には信仰は不可能だった。でも同時に信仰について考えないことも不可能だったのです。私のなかにはずっと信仰への深い誘惑が存在し続けましたが、否定のほうがそのどれよりも強かった。私は拒絶することで、ある種の否定的で倒錯した喜びを覚えましたよ。私はずっと信仰の必要性と信じることの不可能性との間で揺れ動いてきました。そのおかげで、私はあれほど宗教的人物、とりわけこの誘惑を究極にまで突き詰めた人たち、つまり聖者たちに関心を抱いたのです。私は諦めなければならなかった、なぜなら私は信じることができるようには作られていなかったからです。肯定よりも否定のほうがつねに強いというのが私の気質でした。私の悪魔的な面と言ってもいいでしょうね。だから私は何かを深く信じることはできなかったのですよ。信じようとは思いましたよ。でも無理だった。しかし……。
     さきほどエリアーデの『涙と聖者』を読んだ後の反応についてお話ししましたね。私はその記事を読んだことはずっとなかったけれども、でも憤慨した論調だろうなとはわかっていました。それでも、宗教的にいって、私はエリアーデよりもはるかに先を行っていると思うのをやめたことは一度もありません。ずっとそう思ってきましたよ。なぜなら彼にとって宗教とはひとつの対象であって、言うなれば、神との闘いではないからです。私の考えでは、エリアーデは宗教的な人間ではなかった。もしそうなら、あらゆる神について調べるというようなことはしなかったでしょう。宗教的感覚を持っている者は、神々の数を数えたり、その目録を作ったりはしませんよ。祈る学者なんて想像もできませんよ。私にとっては、宗教史はつねに宗教の否定です。これは私の確信です。

    L:今も宗教的な領域で対話を続けていらっしゃるのですか。

    C:今では少なくなりました。

    L:どのような結果に終わったと振り返られますか。さきほど話題になった、あなたの若い頃の友人であるペートレ・ツツェアによれば、あなたは今では絶対者と聖パウロと和解されたとのことですが。

    C:それは違います。聖パウロを私は力の限り攻撃し告発してきたし、今になって彼についての考えを変えたとは思っていません。私が譲歩するとしたら、それはツツェアのためですね。私がパウロのなかで嫌っているのは、彼の政治的性格です。この性格はキリスト教に深く刻み込まれ、キリスト教を神秘主義的現象でなく、歴史的現象に変容させてしまいました。私はこれまでずっと彼を攻撃してきたし、これからも変わらないでしょう。むしろもっと有効に攻撃できなかったかと後悔してるんですよ。

    L:しかし、司祭の家に生まれたあなたのなかに、そのような頑なな信念がどうやって生まれたのでしょう。

    C:それはプライドの問題だったと思います。

    L:プライド?お父上との関係に関連しているのですか。

    C:いえ……もちろん、父が司祭であることを快く思っていなかったことは確かですがね。プライドの問題というのは、神を信じるということは、自ら膝を屈することを意味すると私には思われたのです。ここにはひどく悪魔的な面がありますね、わかってはいますが……。

    L:ですが、いつあなたは自分にそのような面があることを自覚し、今話されたようなことを話すようになったのですか。

    C:神秘主義の問題に関心を抱くようになってからすぐです。これはナエ・イオネスクの影響もあったと思いますね。彼は神秘主義について講義をしていましたから。そのとき私は、自分が惹かれているのが神秘主義であって宗教ではないと気付きました。宗教の過剰な側面、宗教の奇怪な側面としての神秘主義です。宗教にはそれ自体としては決して興味を覚えなかったし、同時に自分が宗教のほうに向かうことも出来ないというのも知っていました。私の場合、挫折は保証されていたんですよ。その代わり、私は弟をこの道から引き戻したことをひどく後悔しています。修道院に行かせてやるほうが、7年間刑務所で過ごすよりもよほどよかった*1。私が何について話しているかお分かりですか。

    L:ある程度は。レル*2が教えてくれました……。

    C:それはシャンタという、パルティニシュに近い、山の頂上で起こりました。叔父の一人がそこに家を持っていたんです。家族全員が集まっているなかで、レルが修道士になりたいと言い出しました。母は少し狼狽していましたね。家族全員で夕食を食べたあと、私とレルだけで森のなかに歩きに行きました。朝の6時まで話し合いましたが、私はその計画を放棄しなければならないと彼に示そうとしたのです。私はシニックな議論、哲学的、倫理的議論など、自分が持っているものすべて引きだして、とほうもない反宗教的理論をでっちあげました。本当に美しい夜でしたよ。朝の6時まで話し合ったのです。宗教に反する、信仰に反すると思われたものすべてを、あの愚かなニーチェ主義のすべてを――お分かりになるでしょう――宗教という幻想に反するものすべてを並べて立てました。そして私はこう言って締めくくりました。「僕の話のあとでも修道士になる気を変えないなら、もうお前とは金輪際口を利かない」。

    L:しかし、どうしてそこまで頑なに攻撃されたのですか。

    C:プライドの問題だったんですよ。神秘主義に精通し、「理解」していた私が、説得できないことなどあるものか、という具合にね。「もし僕の話を聞いてもお前が考えを変えないなら、僕たちの間に共通のものは何もないということだ」と言いましたよ。結局のところ、あの時に私の不純なものすべてが表に現れましたね。

    L:本当に悪魔のような人だったのですね。弟さんをそんな風に強制する権利があったのですか。

    C:いいえ、もちろんありはしませんよ。そんなことに意味はない、と言うことにとどめることもできたでしょうが……。でも私が弟を説得しようとした執拗さは本当に悪魔的でしたね。あの素晴らしい夜に、私は今ここに現れているのは、自分と神との間の闘いだという気がしました。もちろん私は弟に言いましたよ、ルーマニアで修道士なんて紛い物でしかない、修道生活は実際には存在しない、ただのペテンでしかない……などとね。しかし私の話は基本的に哲学的で、真剣なものでした。後になって、あの時私のしたことがひどく残酷なものに思えて来ましてね。私の弟の悲劇的な運命は自分に責任があると感じました。あんなことが起こるよりも、修道院に行っていたほうがよほどよかった。

    L:残酷、と仰いました。実際、誠実さの残酷さという問題があなたのなかに存在します。あなたはあまりにも誠実すぎるのです。いったいどれほどの人が、他人にショックを与えるほどの誠実さを持つことが出来るのでしょうか。あなたのような誠実さを世間の人みなが持つようになったら、どうなってしまうのでしょう。

    C:正確に言うのは難しいですが、社会は崩壊するでしょうね。おそらくデカダンスのうちにいる社会は、過剰なまでの誠実さを実践していると思いますよ。

    L:ですがあなたはどうして、みなが知っていること、恥ずかしくて表現するのを拒むことを言おうとなさるのですか。王様が裸であることはみんな知っています。われわれ人間が死ぬということ、恐怖、病、道徳的悲惨が存在するということなどを知らない人などいません。しかしなぜあなたは否定的で、不気味な強迫観念を、誠実さのはけ口として開陳されるのですか。

    C:それは不気味ではなく、日常性そのものです。それに、大事なのはどのように言い、どこを強調するかです。生の悲劇的側面は、その喜劇的側面に特に注意しようとすれば、同時に喜劇的でもあります。酔っぱらいをごらんなさい、彼らはまったく誠実です。彼らはまさにこの問題にコメントしているんですよ。私は生に対して酒の入ってない酔っぱらいとして反応しているんです。私を救ったもの、それは俗な言い方をすれば、生への渇きでした。この渇きのゆえに私は生き長らえ、憂鬱を克服することができたんです……

    L:倦怠ですね。

    C:そう、倦怠です。倦怠は私の人生のなかでもっとも馴染み深い経験です。私の病的な側面ですね。倦怠はずっと私につきまとってきて、ほとんどロマン主義的な経験でした。私は旅行をたくさんして、ヨーロッパ中を周りましたけれども、どこに行っても私は最初は非常に情熱をかき立てられるのですが、次の日にはもう退屈するのです。どこに行っても最初はここに住みたいものだと思うんですよ。それが翌日になると……。この私のなかの病が私につきまとって離れませんでした。


    (訳注:以上が『シオラン対談集』収録分です。)


    L:ええ、しかし反対に、あなたは情熱や生の肯定的な面もご存じですし、時折何かを信じようとなさったこともありますよね。あなたが恋に落ちたとき、ノイカに向けて葉書に次ぎのように書いていらっしゃいます。「寝室のなかの栄光は帝国の栄光に打ち勝つ」。

    C:もちろん愛は必要不可欠な経験です。自分が愛を経験したとき、私は大いに驚嘆したものです。しかし愛は何の解決にもならないのです。

    L:実のところ私はあなたに申し上げたいのです。生は、その肯定的面にも否定的面にも等しく論拠を提供するゆえに、初めからこうだと決めつける肯定・否定どちらの選択も、必要でもないし、根拠のあるものでもないのだ、と。

    C:こう申し上げましょうかね。私が物心ついたとき、すでに否定が根付いていたのだと。

    L:しかしあなたを言動不一致であると非難することもできるでしょう。あなたは生をひどく告発するのに、ご自身の健康には過剰なまでに気を配っており、またあなたは自殺をたえず称賛するのに、ずっと生き続けていると。

    C:私は自殺するべきだとは一度も言ったことはありませんよ。私が言ったのは、自殺の観念こそが唯一、この生を耐えていくための確実な方法だということです。自分の人生を握っているのは自分なのだという考え、したければいつでも自殺できるという観念が、人を大いに助けるのです。少なくとも私は助けられましたし、自分は自殺するつもりだと言ってきたあらゆる人にも当てはまります。ご存じでしょうが、パリでは自殺の試みは日常茶飯事ですからね。思い出しますが、何年か前に、エンジニアだという比較的若い男が私のところにやってきました。彼は自殺について書いた私の文章を読み、自殺したいと言ってきたのです。われわれは三時間リュクサンブール公園の周りを歩きました。そして私は彼に、自殺は、自殺の「観念」はポジティブな観念だ、なぜならそれは生を耐えられるものにするから、と言いました。

    L:最後の避難所という意識を与えるわけですね。

    C:自分はただの犠牲者ではない、自分で自分を自由にできるのだ、自分の人生を支配しているのは自分なのだ、と思うようになるんですよ。だから私は彼に言いました。「君は26歳で、かなり稼いでいるし、そのうえ有能な人間だ。まだ耐えるだけの時間は残っているよ。耐えられるだけ耐えてみたらどうかね。もう自殺の観念も自分を助けてくれないと思ったら、そのときに自殺すればいい!」。三年後再会したとき彼はこう言いました。「あなたの助言に従ってみたんです。するとほら、まだ生きているんですよ」―「けっこう、続けることだね!」。
     お分かりになりますかね。こういう理屈なんです。私は誰かを自殺するようそそのかしたことはない。一度だけひどく馬鹿なことをしたことがあります。もっとも、お話する価値があるかどうかわかりませんが……。それは戦争中のことで、私はあるとても金持ちで美しい女性と知り合いました。あるとき私は彼女に自殺についての考えを披露しました。生きる意味なんてない……等々ね。すると彼女が言うんです。「私といっしょに来てくれませんか。自殺したいと言っている友達がいるんです。彼女と話をしてくれないかと思って……」。女性を喜ばせたいと思って――実のところ好意を持っていたもんですから――私は承諾して、その自殺したいと言っている友達の女性のところに行きました。私は言いました。あなたが自殺したいと思っているのはとてもいい、それは素晴らしい解決策だ、これ以上のものはない、実際生きる意味なんて欠片もないんだし……等々。その後まったく面白いことが起こりましてね。問題の、自殺したいと言っている女性が、友達のほうに向いてこう言うんです。「この男の人は誰?私に自殺をそそのかして……あなたは私の友達なのにこんな人を連れてきて……もういい、私は自殺しない!それにあなたとはもう友達じゃない!」。
    まあ、これはとても複雑な話で、錯覚の上に成り立ってはいます。しかし、自殺の観念なしで生きることはできないという私の考えは本当に正しいと思っています。ウェルテルを除けば、この考えを持ちながら自殺した人は誰もいません。もう一つお話ししましょう。頻繁に私に会いに来る知人がいましてね。彼は郵便局に勤めていて、かなり高い地位に就いているのですが、ほとんど狂人なんです。自殺の強迫観念があって、私に会いに来るんですが、ある日私にこう言うんです。「一昨日、自殺しようとしたんだけど、足が汚れているのに気付いたんだ」。「それがどうかしたのかい」と私は答えました。「わかるだろ。足が汚いままでは自殺できないよ」「でも自殺しようって時に、足が汚いかどうかなんてどうでもいいんじゃない?」「いいや、絶対に足が汚いままで自殺するもんか」。この後も長い議論が続いたというわけ……。彼は結局自殺しました。そのときの足が汚かったのかどうかはわからないけれど、でも私は凄いことだと思いますよ。彼は自殺する理由を山ほど持っていたんです。彼が自分の人生について私に語ってくれたところによるとね。でも彼はずっとこう言っていたんです。「今こそその時だと思ったんだ……でも自分の足を見ると……」。グロテスクな、あるいは喜劇的な物事が自殺の観念と結びつくこともできるんですね。

    L:シオランさん、あなたは人生を通して死というテーマについて書かれてきました。このことは死と出会うにあたって、あなたを楽にさせましたか。

    C:私にとって、死の強迫観念は死の恐怖と何の関係もありませんでした。死が私を惹きつけたのは、ある狂気の物語の結末という限りでのことです。私が言いたいのは、死の強迫観念は正当なものであり、沢山ある問題のなかの一つではなく、まさしく「問題」、問題そのものだということです。理由を挙げましょう。第一に、死は解決したり等級付けしたりできる問題ではない。第二に、死は他の問題と同じ位置にはなく、他のあらゆる問題を破壊する問題です。「さあ、死について考えてみよう。その後他の問題について考えよう」などと言うことは不可能ですよ。死については、たえず考えるか、あるいはまったく考えないか、この二つしかありえません。

    L:人生を通してずっと死について書き続けてきた人は、他の人よりも死に対して準備できていると思われますか。

    C:いいえ、まったくそうは思いませんね。なぜなら、死は解決不可能な問題であり、各人は死に対して各人に出来るかぎりの反応しか示さないからです。死ぬという事実は、死が生の観点からは利益として現れるということを鑑みるならば、二次的なものになります。非常に重要なのは、死の観念はあらゆる態度を正当化するということです。死はどこにでも引き合いに出せるし、どんなことにでも役に立ちます。死は有効性と無効性両方を正当化します。次のように言うことができるでしょう。「ねえ、どうしてこんなことをする必要があるんですか。どうして苦労しなきゃいけないんですか。どうせ死んでしまうのに……」。あるいは反対にこうも言えます。「いずれ私は死ぬのだから、私に残された時間は限られているのだから、私は急いでこれをやらなければいけない……」。まさしく解決がない問題であるがゆえに、死はいかなる態度をも正当化し、生の重要な局面において、あなたを助けてくれるんですよ。先ほどお話しした、2年間朝から晩まで飲んでいたラシナリの酔っぱらい、彼も死について語っており、そして彼は「彼の流儀で」正しかったのです。死はすべてを正当化する終わりのない問題です。

    L:それでは、あなたも自分の名において何かを正当化なされたのでしょうか。

    C:申し上げましたでしょう、自由ですよ。義務を持たないこと、責任を持たないこと、やりたいことだけをやること、計画を持たないこと、自分に関心のあることだけを書くこと。これ以外に人生で目的を持たないこと。

    L:それがあなたが同意し成功した唯一のものなのですか。あなたは望んだことを達成されたのでしょうか。

    C:十分です。悪くはないですよ!

    L:ラシナリをもう一度見たいとは思われないのですか。あなたがあそこに帰る日は来るのでしょうか。

    C:わかりません、お答えすることはできませんね。私の人生のなかであまりにも重要過ぎた場所、そんな場所をもう一度見るのが怖いのです。私はあの村で幸せ過ぎました。私は楽園に帰るのが怖いのです。



    *1シオランの弟アウレル・シオラン(Aurel Cioran)は弁護士となった後、ルーマニア・ファシスト組織「鉄衛団」に関わり、第二次大戦後懲役7年の刑を受けた。
    *2 レル(Relu)はアウレル(Aurel)の愛称形。


    ***



    これでこの対談の翻訳は終了となります。思いがけず2年とちょっとかかってしまいましたが、お付き合いいただいて大変ありがとうございました。

    以下は余談です。

    底本は以下のものになります。

    Gabriel Liiceanu, Itinerariile unei vieți: E.M.Cioran, Bucharest, Humanitas, 2011.

    原著はもともと1995年に出版されたのですが、2011年のこの版は写真などが豊富で装丁も美麗なものになっています。
    またこの対談は映像として記録もされましたので、対談の模様はYoutubeなどで視聴も可能です。

    今後ですが、上記の本に収録されているシオランの伴侶であるシモーヌ・ブエさんとリーチェアヌとの対談を翻訳しようかと思っています。そちらのほうもご覧いただけると幸いです。

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その4

    リーチェアヌとの対談の続きです。

    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2

    その3


    ***


    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):シオランさん、あなたはどうして亡命国にフランスを選ぶことになったのでしょう。あなたが最初に学んだ外国語はドイツ語であって、フランス語ではありませんでした。なぜドイツを選ばなかったのですか。それにあなたが青年時代を過ごしたシビウはザクセン人の街でした。あなたがフランス語に対してコンプレックスを持っていたことは存じ上げています。大学に入学し、ブカレストに来てすぐ、ブカレストのあなたの仲間と友人はとても流暢にフランス語を話していました。この「トランシルヴァニア・コンプレックス」に、あなたは大学時代ずっとつきまとわれていましたね。結局、あなたが最初に長期滞在することになった外国はドイツでした。1933年から35年の間、フンボルト財団の奨学生として。あらためてお訊きしますが、どうしてドイツではなく、フランスだったのですか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):そうですね、たしかに私はドイツ語をシビウに来てすぐに学びました。ドイツ人の婦人二人の家に下宿していましてね。シビウは私にとってあらゆる面で重要な街です。私はずっとある感じが……なんと言えばいいのか、自分の国にいるのに、外国にいるような感じがしていたのです。考えてもみてください。私はラシナリという、原始的な村、閉ざされた太古の世界からやって来たのですよ。そして突然外国に来てしまったという感じをもったわけです。私が体験したこのコントラストは途方もないものでした……。外国にいたいという思いが強くなったのは、おそらくシビウのおかげだと思います。ずっと私は奨学金を得て外国に行きたいと思っていました。哲学の本を読み始めたのはシビウにいたころですね。私はドイツ人図書館に通っていましたが、その司書がすばらしい人でね。ドイツ人の哲学者で、何十冊かの本を書いているんです。彼は第一次大戦前はオーストリア軍の将校で、そしてシビウにとどまっていたのです。名前はライスナーといって、われわれはとてもよい友人になりました*1。私はドイツ人図書館に通っている唯一のルーマニア人でしたね。私はシビウで二つの文明の間を生きたのです。それだから、私がフンボルト奨学金をもらってベルリンに着いたとき、まったく新しい世界に来たという感じはしなかった。

    L:なぜあなたはそのときドイツで「永遠の学生」にならなかったのですか。どうしてフランスに?

    C:なぜだか申し上げましょう。こんなことが起きたんですよ。ドイツに留学していたとき、一ヶ月間パリに滞在しましてね。それは私にとって啓示でした。パリを見たときから、私にとってベルリンはゼロになり、もはやなんの興味も湧かなくなったのです。ルーマニアに帰ったあとも、パリはオブセッションとなりました。私は自分に言い聞かせたものです、パリに必ず行かねばならないとね。それには奨学金を得る必要がありました。私はブカレストのフランス学院の院長に働きかけはじめて、ついには彼と友人になったのです。

    L:デュプロン氏*2ですね。

    C:デュプロン……彼はまだ存命していますね。それで彼が私をフランスに送ってくれました。実際、彼は私を残りの人生ずっとフランスに送ってくれたことになったのですね。彼はとてもいい人間でした。彼が私に三年間の奨学金をくれたのです。博士論文を書くつもりだと計画書のなかで私が書いたことが嘘だとわかったときでさえ、彼は私に奨学金を継続してくれました。私はフランスを完璧に知っている唯一の奨学生で――私は自転車でフランス中を回ったのです――、これは論文よりも価値があると言ってね。事実私は自転車でフランスを踏破しました。ホテルに泊まる金がなかったから、ユースホステルに泊まりました。カトリック系と共産党系のユースホステルがありました。そこには学生と労働者が泊まっていましたね。そうやって私はフランスの世論を、とくにカトリック信者と共産党支持者の考えをよく知ることができました。私はすぐにフランス人に戦意がないことに気づき、今までにないような、即座の降伏が起こるだろうなと思いました。私は左翼と右翼の反応を知る特権を持っていたわけです。だれも戦う気がなかった。でも私は無理のないことだと思いましたよ。フランスは第一次世界大戦で荒廃し、先頭を切って戦争に行こうとする者はだれもいなかった。イギリス人だけがこのことを知らなかったのですね。イギリスはなにがしとかいう貴族を何回もパリに送って、フランス人の精神状態を調べさせました。彼はたくさんの政治家と最高級のレストランで会って、最後に母国に帰ってこう報告したのです。「フランスはいつでも戦争の準備ができている」。正確な引用ではないかもしれませんが、まあこの類のことです。その話を聞いたとき、私は政治家や外交官というのはなんと無能なものかと思いました。レストランやサロンに行ってある国の状態を知ることができるわけがない。私がフランス中を隅から隅まで通り回って下した診断は正しいことが明らかになりました。フランスは開戦の三日目にはもう降伏する気になっていた。

    L:ドイツ軍がパリに入ってくるところを目撃されましたか。

    C:ええ、最初の日、サン・ミシェル大通りでね。抵抗がなかったものだから、ドイツ軍はここに散歩しにきたかのように入って行きました。彼らはセーヌの方から南に進んできました。サン・ミシェル大通りには人だかりがありましたが、大勢ではなかった。一人の老婦人が歩道の縁に立っていましてね、彼女がどんな反応をするのか見たかったので、私は近づいて彼女が立ち去るまでそこにいました。彼女は私のほうを見てこう一言言ったきりでした。「ねえあなた、ありえないことですよ!(C'est du joli)」。C'est du joliというのはとても陳腐な言葉で、何か普通でないものに対する驚きを表すものです。彼女はフランスの失墜という劇的な瞬間にまったく平凡な言葉を使ったのです。これが私にはひどく印象的でした。彼女はその後こう付け加えました。「これがフランスの終わりです」(C'est la fin de la France)。しかしこのC'est du joliは「ありえない!」とか、そのような類の、少し下品な当惑の表現ですが、あのような場面で口に出されるのは想像しがたいものです。この言葉をどうルーマニア語に翻訳すればいいのかわかりません。

    L:やらかしてしまった(am încurcat-o)、でしょうか。

    C:わかりません。ともあれ、先ほど言ったようにドイツ人たちは一方の方角からやってきましたが、なぜだかわかりませんが、正反対の方向からフランス人捕虜の集団がやってきました。私はそのうちの最初のグループ――二十五人くらいのフランス兵と一人の乗馬したドイツ人――を見ましたが、これは私に強烈な印象を残しました。私は私のすぐ後ろにあったタバコ屋に駆け込んで、タバコを二十箱買い、あまり近づかないようにして、兵士たちに買ったタバコを投げてやりました。兵士たちがみんなタバコを取ろうと屈み込んだそのとき、ドイツ人が私のほうに銃口を向けました。私を救ったのは私のドイツ語です。「私は外国人だ!」(Ich bin Ausländer!)とかそのようなことを叫び、その後ドイツ語で「人道的理由!」(raison d'humanité!)と叫びました。これが私を救いました。逃げ出したりドイツ語が喋れなかったりしたら、私は銃殺されていたでしょうね。パリに住みついたルーマニア人の私が、パリで最初の犠牲者になったかもしれないなんて、これはまったく馬鹿げた逆説です!

    L:戦争の時期はパリでなにをなさっていたのですか。まだフランス語で書くのを始めてはいらっしゃらなかったと思いますが。

    C:ええ、ルーマニア語で書いていました。それどころかルーマニア語を深めてさえいましたよ。というのは、私はルーマニア語の本を持っていなかったので、ルーマニア正教の教会に行って、そこにある本、特に古い本しか読んでいなかったからです。私はルーマニア語の専門家になりましたよ。戦争の終わりごろに、自分がいかに馬鹿げたことをしていたのかに気付き、決定的にルーマニア語と縁を切る決心をしました。私は海に、ディエップにいて、そのとき……

    L:マラルメをルーマニア語に訳そうとなされていた。

    C:その通りです。そして私は唐突にこの仕事にはなんの意味もないこと、もはやルーマニアに戻ることはないこと、ルーマニア語は私にとってなんの役にも立たないことに気付きました。たったの一時間の間にすべてが終わりました。それは激烈な反動でした。私は突然すべてと断絶したのです。私は言語と断絶し、過去と断絶し、すべてと断絶しました。

    L:あなたはすぐにフランス語で書き始めたのですか。

    C:はい。それから私は『崩壊概論』を書き始めましたが、すぐにこれは非常に難しい経験だということがわかりました。二十歳でなら言語を変えることはできるでしょう、しかし三十五歳や三十六歳となると……。それは私にとって恐ろしい経験でした。私はフランス語が完璧にできると思っていましたが、実際はまったくそうでないことに気付いたのです。それでも私は止めたくなかった。私はもはやルーマニアに帰ることはないとわかっていました。もし本当に言語を変えたいのなら、母語と縁を切らなければならないと悟りました。これこそ本質的なことです。他の方法ではうまくいきません。ルーマニア語を喋り続けながらフランス語で書くことはできません。両立不可能なのです。異なる言語への移行は、自らの言語の放棄によって以外では成功しません。この犠牲を受け入れなければならないのです。

    L:どのようにして、最初の本を三回も書き直していながら、意気喪失しないでいられたのですか。

    C:さっき申し上げましたが、私に退路はなかったのです。いずれにせよ、三度本を書き直して、フランス語はまさしくルーマニア語の正反対の存在であることがわかりました。ルーマニア語にはフランス語が持っているような厳格さがなく、融通が利く文法を持ち、自由な言語であって、より私の気質に近い言語です。フランス語で書き、また書き直しながら、絶望的な気持ちになって私は自分に言ったものです。「これは私のための言語ではない」とね。

    L:ルーマニア語で書いているとき、あなたは爆発せんばかりで、抑圧などまるでありませんでしたね。

    C:ええ、それが問題なのです。抑圧がないという点で、ルーマニア語は私の気質に合っていました。しかし同時に、フランス語は人に限界を課し、人を文明化させます。フランス語で狂人になるのは不可能ですよ。つまり、過剰というのはフランス語では不可能なのです。それは単にグロテスクになるだけです。

    L:あなたはフランス語は自分にとって拘束具だと何度も繰り返しておられますね。

    C:それがまさしく私に起こったことですよ。フランス語は狂人をなだめるのです。この言葉は私にとって強制された規律でしたが、最終的には私に対してポジティブな効果をもたらしました。私を限定することによって、フランス語は私を救い、いたるところで誇張するのを私に禁じたのです。この言語的規律を受け入れたことが、私の熱狂を和らげました。フランス語が私のための言語ではなかったのは本当です。でも繰り返しますが、心理的には私の助けになりました。結局のところ、フランス語は私にとって治療的役割を果たす言語になりました。実際、私は自分が適切にフランス語で書けるようになったのを見てひどく驚いたものです。あれほどの厳格さを受け入れることができるとは思っていませんでしたから。フランス語は誠実な言語であると誰かが言っていましたが、フランス語では不正を犯すことが不可能なのです。ここでは知的詐欺というのは簡単ではないのですよ。


    ***


    L:教えていただきたいのですが、あなたはいつ「フランス語の作家」というご自身の立場に慣れるようになったのでしょうか。あなたはこの立場の確立をどのように感じられましたか。サン=ジョン・ペルスをして、「第一級の作家」、「ヴァレリーの死以後、フランス語が誇るもっとも偉大な作家の一人」と言わしめたとき、どのような感じを受けましたか。コアスタ・ボアーチ*3からこの言葉まで、あなたが駆け抜けた軌跡は、あなたを呆然とさせなかったのでしょうか。

    C:何と言えばいいのでしょう?コアスタ・ボアーチからそういったことまで……。まったくのところ、ひどい努力でしたよ。自分の気質に逆らいながら書く、これは容易なことではまったくありません。奇妙なことに、私はドイツ語がよくできたけれども、ドイツ語で書こうという気になったことは一度もなかった。フランス語によって私は自分自身を支配することができるようになりましたが、それは私にとって重大なことでした。いつも私は思うのです。こうやって自分の気質の外に出ることによって、私は一種の裏切りをしでかしたのだと。ある意味で私は私であることを止めた。本当の私であることをやめたのです。

    L:しかし、あなたは思いがけない成功を収められましたよね。この成功に目眩を感じられたことはなかったのですか。

    C:まったく。私はずっと不幸のうちにありながら本を書いて来ました。その代償はとても大きいものでした。私の書いたどの本もひとつの試煉、ひとつの苦難です。たしかに私のデビューは悪いものではなかった。三冊か四冊の本を書いた後、わずかな読者を持つことができましたが、実際のところ私は見向きもされず、孤立していました。私は作家としては長い間孤立した読まれない作家だったと言わねばなりませんね。ポケット・ブックになってようやく、私は若者や学生から発見されたというわけです。まだあります。いまやフランス人はとてもぞんざいに物を書くので、彼らはもはや自分たちの言葉を信じていないのです。しかし外国人の私は、フランス語にきわめて真剣に取り組みました。私が書いたすべての本は少なくとも二回は書き直されています。なんとも奇妙なパラドックスです。バルカン人の私がここに来て文体の訓練をしているのですから……。

    L:ルーマニア語が恋しくなったことはありませんか。

    C:ありませんね。でもルーマニア語のよいところを忘れたことは一度もありません。英語と同じように、ルーマニア語は詩的な言語、つまり詩が力を持っている言語です。その理由はどちらの言語も二重の起源を持っているというところにあります。英語はラテンとゲルマン、ルーマニア語はラテンとスラヴという、両立不可能な二つの言語によって成り立っています。この二重の起源は詩にとって理想的なもので、まさしくこの理由によって英語とルーマニア語は詩に適しているのです。途方もない豊かさを持っているだけでなく、この二つの言語には神秘的な側面がありますが、それはひとつの出会い、それぞれ異なった方向からやって来た言葉と言葉の劇的な出会いに由来しています。反対にフランス語は同質的な言語であって、このことがフランス語の詩を限定的なものにしているのです。フランス語では聖書は読めません。私は言語の詩的価値を評価する際には三つの基準を持っていましてね。聖書――特に旧約聖書――、ホメロス、シェイクスピアが読むにたえうるか、というものです。ホメロスもシェイクスピアもフランス語ではうまくいきません。それはフランス語が乾いた言語、法律の言語であるからです。それだからフランス語の詩人になるというのはまさしく英雄的な行為なのですよ。実を言いますと、フランス語で書き始める前、私は英語を専門にしていましたが、結局放棄してしまいました。もちろんね。

    L:英語を「専門にしていた」とはどういう意味でしょうか。英語の講座に通われていたのですか。

    C:そうです、そうです。まずここ、パリで会話の練習をしました。先生は1905年にブカレストで家政婦をしていたという、とても年配で、ちょっと頭のおかしいご婦人でした。次に体系的に勉強しようとソルボンヌの講座に通いました。そのあと、奇妙なことに戦争の間じゅうずっと開いていた英語の図書館の常連になりました。そこに私は週一回自転車で行って、五冊か六冊の本を抱えて部屋に帰ってきたといわけです。私は文学に専念しましたが、特に詩が私を魅惑しました。

    L:間違いでなければ、あなたは特にシェリーとキーツを読んでいたということですね。

    C:いえいえ、私は全部、もう全部読みましたよ。一種の熱狂でしたね。英詩は私にとって啓示でした。英詩はヨーロッパ詩のなかでももっとも偉大だと思っています。いずれにしても、私は膨大な量の英詩を真剣に読んでいました。これは私の人生のなかで、明確な計画を立てて進めていった数少ない例のうちのひとつです。当時の私の関心はすべてアングロ・サクソン世界のほうに向かっていました。

    L:そのおかげであなたはシモーヌ・ブエ*4さんとの出会いという特権を手にすることができたのでしょうか。

    C:ええ、彼女は英語専攻の学生でした。初めて会ったのは学生食堂でしたね。その後私は彼女と英会話の練習をよくしていました。私の英語への情熱は五年ほど続きましたね。途方もない経験でしたよ。

    L:しかしこの言語的冒険の後、あなたはフランス語を、すなわちあなたの言葉によれば、自分にもっとも合っていない言語を選びます。『実存の誘惑』のなかで、あなたはフランス語についてあまり好意的でないことを書いていらっしゃいますね。

    C:ちょっとしたことを申し上げますと、私はずっとスペインとスペイン語が好きでした。スペインに行きたいという気持ちを隠したことはありません。内戦が始まる前、スペインでの奨学金を申請したこともありました。

    L:なんですって!スペインにもですか。

    C:ええ、ええ。そう驚くようなことでもないでしょう。当時私はアビラの聖テレサの崇拝者でした。この点では今も変わっていません。それはほとんど病的な情熱でした。私は彼女を作家としても愛好していましたが、なにより彼女の「過剰」が私を魅惑したのです。まがうことなき、スペイン特有の狂気から来る過剰です。スペイン内戦が勃発する二ヶ月前、大使館で奨学金の申請を行いました。もちろん返答は何も帰って来ませんでしたよ。実を言うと私はパリではなくスペインに行きたかった……私はほんとうに魅了されていました。私はウナムーノのすべての著作を読みました……そして大戦の後私が覚えた唯一の満足は、フランコが死去した後すぐにスペインを見られたことです。この旅行は私の人生のなかでもっとも印象的でもっとも美しい旅でした。スペインが観光地化する前だったのですよ。三週間の旅程でしたが、私はずっと三等で過ごして、一番安いところに泊まったけれども、本当に魅力的でした。そして私の人生のなかで唯一の、あまりにも素晴らしい旅行だったので、私はスペインにもう来まいと決心しました。実際は七回も行っていますけれどね。これは失敗でしたよ。こんなに行くべきではなかった。ものごとは心のなかにあるときのほうが真実の姿をしているものです。再訪することによって、現実は単調になっていきました。最初の出会いの素晴らしい印象に比べるとね。

    L:それだから、あなたはラシナリに戻らないのですか。

    C:わかりません。私は引き裂かれ、迷っています。なんと言えばいいのか……おそらく私は、再会することによって失ってしまうのが怖いのでしょう。ルーマニアにいる間、たえず私は自分がスペイン人ではないということを悔やんでいました。スペインが挫折のもっとも非凡な例であるということ、このことが私を魅了したのです。世界でもっとも偉大な国が、あのような衰退に至ったのですよ!

    L:あなたが失敗と敗者に惹きつけられるのはなぜでしょうか。どうしてあなたは挫折に讃辞を送られるのですか。

    C:それは私の悪徳と言っていいでしょうね。けれども私は本当に考えているんですよ。ものごとの姿は、自らの終わりと対峙するという危険、つまり没落によって、はじめて自らにも他人の目にも明らかになるとね。挫折において、破滅の壮絶さにおいて、ようやく人は誰かを知ることになるのです。ものごとはその拡大と栄光のときには明らかになりません……

    L:……そうではなく、その黄昏において、夕暮れにおいて。

    C:……黄昏、つまりすべてが壊れていくときに、すべてが徐々に消滅していくときに。文明が興味深いものになるのは、文明が自らのデカダンスを意識しはじめたとき、自らの消滅を体験するようになったときです。

    L:そのような考えの下で、おそらくあなたはルーマニア語で書いた最後の本、『敗者の祈祷書』を戦争中にお書きになったのですね。占領されたパリは、黄昏の街、没落の象徴になった。

    C:そう、そうです。もはや存在することを止めはじめたときにしか、その文明がなんであったのかを知ることはできないというのは真実です。




    *1 エルウィン・ライスナー(Erwin Reisner, 1890-1966)はオーストリアの哲学者、神学者。著書『堕罪と審判への道としての歴史。キリスト教的歴史哲学の基礎付け』(Die Geschichte als Sündenfall und Weg zum Gericht. Grundlegung einer christlichen Metaphysik der Geschichte)の書評を若きシオランが1931年に書いている(『孤独と運命』所収、未訳)。

    *2 アルフォンス・デュプロン(Alphonse Dupront, 1905-1990)はフランスの歴史家。ちなみにこの対談はちょうど1990年の6月に行われた。

    *3 コアスタ・ボアーチ(Coasta Boaci)はシオランの生まれたラシナリにある丘。対談その1参照。

    *4 シモーヌ・ブエ(Simone Boué, 1919-1997)はシオランの長年の伴侶。結婚はしていない。
    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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