スポンサーサイト

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その5(終)

    リーチェアヌとの対談の続きです。これで最後となります。
    今回の分には法政大学出版局『シオラン対談集』に抜粋のかたちで収録されていた部分も含まれています。この部分をどうするか迷いましたが、前後のつながりの関係上、翻訳することにしました。邦訳のほうも参照させていただきました。


    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2

    その3

    その4


    ***


    リーチェアヌ(Liiceanu):いつあなたはフランス文学界に浸透したのですか。戦時中でさえ文学カフェやサロンに通いつめていたのは存じ上げていますが……。

    シオラン(Cioran):ご存じのとおり、文化のシーンを支配していたのはサルトルでした。彼には一人の神とみなされるほど巨大な名声があって、彼の政治的意見がどれほど間違っているかが白日の下となったときでさえも、そうでした。戦争の最後の年、冬の間中ずっと、サルトルのそばで過ごしたことを思い出します……。とても寒かったので、私はサン=ジェルマン=デ=プレに行って、一日中カフェで過ごしていました。それで何の因果かわかりませんが、ほとんど毎日私はサルトルのとなりに居合わせたのですね。でも一言も交わそうという気にはなりませんでした。

    L:しかし、あなたはカミュと会話を交わされましたよね。

    C:彼とは一回だけ会いました。あまりよくない出会いでしたね。私は彼の本を読んでいたし、彼にはちょっとした尊敬の念を抱いていたんです。なにより彼は誠実な人間だと思っていました。それ以外では彼は凡庸で、二流だと考えていました。彼はガリマールから渡された『崩壊概論』の原稿を読み、私にこう言ったんです。「今やあなたも思想の領域に入るべきですよ」――くそくらえだ!彼は自分の教師としての教養でもって私にレッスンを与えようとしたんです。彼は何人かの作家は読んでいたけれど哲学的教養の欠片も持っていなかった、なのに私に「今や…」と言うわけですよ。生徒に教えるようにね。私は出て行きました。彼の言葉は私にとってまったく屈辱的でした。私を地方から出てきた新入生のように扱ったんですからね。そして高圧的に「今や…」と言う。私は偉大な哲学者たちを読んでいたのに。そのとき私は復讐を決意しました。

    L:あなたは復讐なさったのですか。何をなされたのでしょうか。

    C:復讐しました。しかしそれは直接的ではなかった。実際私は特別なことは何もしなかったのです。私は書きました。当初、私はカミュの追随者とみなされ、彼としばしば比較されました。彼はとても有名で、20万部もの売り上げがありました……。けっこう、でも数年後に、私は自分をカミュとはまったく異なった存在だと認識させることに成功しました。これはカミュの名声を考えると決して簡単なことではなかった。
     これは申し上げておきたいのですが、私にとって喜ばしいことがあるとすれば、それは私は誰の意見も考慮しなかったということです。これがすべての作家たちに言っておきたい助言ですね。自分を信じない者、自分が作るものに対してある種の神秘的信仰を持っていない者は、作品にとりかかるべきではありません。何者も信じてはならない、ただ自分だけを信じるべきです。それ以外のことは必要ない。誰かに助言を求めてはならない、誰にも相談するべきではない――細部については別ですがね。「私は何をすればいいのでしょう……、何をすれば……」、こんなものは何の意味もありませんよ。作家にとって、自らの人生と作品は自分自身が引き受けるべき冒険です。膨大な人々が私に原稿を送りつけてきます。でも、こんなことをするべきではないんです。信じるか、信じないかですよ。もし信じないのなら、それでおしまいです。早く止めたほうがいいでしょう。


    (訳注:以下は法政大学出版局『シオラン対談集』に抜粋のかたちで収録されています)


    L:サルトルとは知り合う気にならなかったし、カミュとの出会いは失敗だったと仰っていましたね。では仲良くなった有名な作家はだれだったのでしょうか。

    C:有名な作家に知り合いはいませんでした。

    L:しかしベケットやミショーはどうなのですか。

    C:そうですね、彼らは友人でした。

    L:どういう経緯でベケットと知り合ったのですか。偶然からですか、それともお互いを賞賛し合っていたからですか。

    C:ええ、彼は私のものを読んでいました。われわれはある夜会で知り合い、その後友人になりました。ある時期には彼は私に金銭的援助をしてくれました。ご存じでしょうが、ベケットをこういう人間であると定義するのは難しい。多くの人々、とくにフランス人は彼のことを誤解しています。あらゆる人が彼の前では才気があるところを見せなければと思っている。でも彼はきわめて単純な人間で、逆説が披露されるのを期待してなどいないんです。気取らないで、ざっくばらんに振る舞えばいいんですよ。私がベケットの何が非常に気に入っているかと言うと、彼は25年もフランスにいるのに、昨日パリに来た人間のように見えるところです。彼にはパリジャンらしいところがまったくない。良い意味でも悪い意味でもフランス人に影響されていません。彼は月からやって来たんじゃないかと思わせるものがありますね。彼は自分では少しフランス化されたと考えているようですが、実際はそうじゃない。この影響されていないというのは驚くべきことです。彼は骨の髄までアングロサクソン、まさしく典型的なイギリス人のままで、これは私にとってものすごいことだと思えました。彼はサロンに行かず、社交が嫌いで、「会話」なんていうものは持ちあわせていません。彼が好きなのは一対一で話すことで、そのときの彼は信じられないくらい魅力的でした。私は彼が本当に好きでしたね。

    L:ではミショーは?

    C:ミショーはまた違った人間で、あけっぴろげできわめて率直です。私と彼はとても仲が良かった。彼は私に自分の相続人になってほしいと言ってきたけれど、私は断りました。彼は実に才気があって、エスプリに溢れていて……そして意地悪だった。

    L:そこが気に入っていたのではないですか。

    C:そう、そう、そこが気に入っていましたね。彼に処刑されなかった人はいませんでしたね。おそらく彼は、私が知り合ったなかでもっとも知的な作家です。でも奇妙なのは、あれだけ知的な人間でも、ナイーブな傾向を持っているということですね。例えば彼は、ドラッグとかそういうものについてほとんど科学的な本を数冊書くことに熱中していました。馬鹿げてますよ。私は彼に言いました。「君は作家で詩人なんだから、科学的な本を書かなくてもいいじゃないか。誰も読まないよ」。彼は止めようとはしなかった。彼はそういった本を書き続けたけど、誰も読んでいません。まったく馬鹿げたことでしたね。彼にはある種の科学的偏見がありました。私は言いました。「世間は君から理論じゃなく、経験を期待しているんだよ」。

    L:まさに世間の人が作家に期待していることについてお訊きします。それはルーマニアの、そしておそらく全世界のあなたの読者がもっとも関心を持っていること、つまりあなたと神の出会いという問題です。父親が司祭であり、母親が司祭の娘にしてシビウの婦人正教会の会長だったというほど宗教的な家から、涜神的な趣きを持つ抗議の人が出てきたということを、どのように説明されますか。あなたは若い頃、『涙と聖者』のなかで書かれているところによると、聖女に口づけすることを夢見、売春婦の腕のなかで神のことを思い浮かべたとのことですが……。あなたの涜神的な側面に憤っている人に対してどのように返答されますか。

    C:それはとてもデリケートな問題です。というのも、私は信じようと試みたし、作家としてもその内容によっても賞賛している偉大な神秘家をたくさん読んできました。ある時私は、自分は信仰するようにはならないということ、それは幻想であるということに気付きました。それは運命です。私は自分の意に反して救済されることができなかった。単純にうまくいかなかったんです。

    L:そのとき、なぜこの領域から離れず、この問題に囚われたままでいたのですか。どうしてあなたは否定し続け、神と格闘し続けたのですか。

    C:それは、私が信仰することの無力という危機に見舞われ続けたからです。私は信仰しようとするたびに、この試みは失敗に終わりました。もっとも深刻だったのはブラショフにいたころ、『涙と聖者』を書いていたときです。私がこの中傷に溢れた本を、宗教の歴史、神秘主義の本やその他もろもろ、膨大な読書のあとに書き上げました。本はブカレストで出版されるはずだったのですが、ある日出版社から電話がかかってきて、こう言うんです。「あなたのご本は出版されません」。―「どうして出版されないんです。もう校正も済ませたのに」。―「私は本を読んでいません。けど植字工にある段落を見せられたんです。申し訳ないが、私は神のご加護でここまでやって来られたんです。ご本は出版できません」。「いいですか、これは深く宗教的な本なんですよ。どうしても出版できないんですか」。―「どうしてもです」。おそらく、ルーマニア以外ではこんなことはありえないでしょうね。私はとても悲しかった。もうすぐにフランスへ出発しなければならなかったものですから……。

    L:本当に深く宗教的な本だったのですか?

    C:ある意味ではそうです。否定を通して、ではありますけどね。その後私はブカレストに行きました。私はとても落ち込んだまま、今でも思い出せますが、カフェ・コルソに入りました。そのとき、昔ロシアで植字工をしていたという、比較的仲が良かった人物に会いました。私が落ち込んでいるのを見て、「どうしたんだい」と言ってきたので、彼に説明すると、彼はこう言いました。「いいだろう、俺は印刷所を持っているんだ。本を出してやるよ。ゲラを持って来な」。私はタクシーを拾って全部持って来ました。本は私がフランスにいる間に出たのですが、ほとんど出回りませんでした。パリで私は母から手紙を受け取りました。「私たちがあなたの本を読んでどんなに悲しんでいるか、あなたにはわからないでしょう。あなたは本を書いているとき、自分の父のことを考えるべきだったのです」。私は返事のなかで、これはバルカンで書かれた唯一の神秘的な本だ、と書きましたが、両親を含め、だれ一人納得させることができなかった。ある婦人が、街の婦人正教会の会長である母に、「神様についてこんなことを書いている息子がいるのだから、あなたは私たちに説教する資格なんてありませんよ」と言ったそうです。

    L:友人や書評の反応はどのようなものでしたか。アルシャヴィール・アクテリアンが『ヴレメア』紙に厳しい書評を書いたことは存じ上げていますが。

    C:もっとも厳しかったのはエリアーデのものでした。でも当時私は知らなかった。その記事を読んだのはやっとこの年になってからなんですよ。どの雑誌に載ったのか知らなかったのです。私が読んだのはパリで刊行された本のなかにあったテクストです。ひどく暴力的でしたね。このような本の後で友人であり続けるられるかどうか、と彼は自問しているんですよ。同じようにひどく憤慨した手紙を貰いました。

    L:あなたの苦闘を理解し、この本を見事なものだと考えた唯一の人は、アルシャヴィール・アクテリアンの妹さん、ジェニー・アクテリアンでしたね。

    C:その通りです。彼女は私にとても素晴らしい手紙を送ってきてくれました。われわれはお互いをとてもよく理解し会っていましたよ。すべての友人のなかで、彼女はただひとり、本当にただひとりの、そんな反応をしてくれた人でした。他からは反感しか受けませんでした。それで私は、以前のこういったことを憶えていたので、『涙と聖者』がフランス語に訳されたとき、傲慢な箇所をすべて削除するという、馬鹿なことをしてしまったんですよ。そのせいで私はこの本を破壊してしまったのです。

    L:『涙と聖者』であなたの信仰への努力は失敗に終わりましたが、しかし誘惑は残り続けました。なぜでしょうか。

    C:その誘惑はずっと残りました。でも私はあまりにも懐疑主義に毒されていたんですよ。思想的にも、気質の面でもね。どうしようもない。誘惑は存在し続けましたが、誘惑だけ。私のなかにはずっと宗教的な呼びかけがありましたが、実のところそれは神秘主義的なものであって、宗教的なものではなかった。私には信仰は不可能だった。でも同時に信仰について考えないことも不可能だったのです。私のなかにはずっと信仰への深い誘惑が存在し続けましたが、否定のほうがそのどれよりも強かった。私は拒絶することで、ある種の否定的で倒錯した喜びを覚えましたよ。私はずっと信仰の必要性と信じることの不可能性との間で揺れ動いてきました。そのおかげで、私はあれほど宗教的人物、とりわけこの誘惑を究極にまで突き詰めた人たち、つまり聖者たちに関心を抱いたのです。私は諦めなければならなかった、なぜなら私は信じることができるようには作られていなかったからです。肯定よりも否定のほうがつねに強いというのが私の気質でした。私の悪魔的な面と言ってもいいでしょうね。だから私は何かを深く信じることはできなかったのですよ。信じようとは思いましたよ。でも無理だった。しかし……。
     さきほどエリアーデの『涙と聖者』を読んだ後の反応についてお話ししましたね。私はその記事を読んだことはずっとなかったけれども、でも憤慨した論調だろうなとはわかっていました。それでも、宗教的にいって、私はエリアーデよりもはるかに先を行っていると思うのをやめたことは一度もありません。ずっとそう思ってきましたよ。なぜなら彼にとって宗教とはひとつの対象であって、言うなれば、神との闘いではないからです。私の考えでは、エリアーデは宗教的な人間ではなかった。もしそうなら、あらゆる神について調べるというようなことはしなかったでしょう。宗教的感覚を持っている者は、神々の数を数えたり、その目録を作ったりはしませんよ。祈る学者なんて想像もできませんよ。私にとっては、宗教史はつねに宗教の否定です。これは私の確信です。

    L:今も宗教的な領域で対話を続けていらっしゃるのですか。

    C:今では少なくなりました。

    L:どのような結果に終わったと振り返られますか。さきほど話題になった、あなたの若い頃の友人であるペートレ・ツツェアによれば、あなたは今では絶対者と聖パウロと和解されたとのことですが。

    C:それは違います。聖パウロを私は力の限り攻撃し告発してきたし、今になって彼についての考えを変えたとは思っていません。私が譲歩するとしたら、それはツツェアのためですね。私がパウロのなかで嫌っているのは、彼の政治的性格です。この性格はキリスト教に深く刻み込まれ、キリスト教を神秘主義的現象でなく、歴史的現象に変容させてしまいました。私はこれまでずっと彼を攻撃してきたし、これからも変わらないでしょう。むしろもっと有効に攻撃できなかったかと後悔してるんですよ。

    L:しかし、司祭の家に生まれたあなたのなかに、そのような頑なな信念がどうやって生まれたのでしょう。

    C:それはプライドの問題だったと思います。

    L:プライド?お父上との関係に関連しているのですか。

    C:いえ……もちろん、父が司祭であることを快く思っていなかったことは確かですがね。プライドの問題というのは、神を信じるということは、自ら膝を屈することを意味すると私には思われたのです。ここにはひどく悪魔的な面がありますね、わかってはいますが……。

    L:ですが、いつあなたは自分にそのような面があることを自覚し、今話されたようなことを話すようになったのですか。

    C:神秘主義の問題に関心を抱くようになってからすぐです。これはナエ・イオネスクの影響もあったと思いますね。彼は神秘主義について講義をしていましたから。そのとき私は、自分が惹かれているのが神秘主義であって宗教ではないと気付きました。宗教の過剰な側面、宗教の奇怪な側面としての神秘主義です。宗教にはそれ自体としては決して興味を覚えなかったし、同時に自分が宗教のほうに向かうことも出来ないというのも知っていました。私の場合、挫折は保証されていたんですよ。その代わり、私は弟をこの道から引き戻したことをひどく後悔しています。修道院に行かせてやるほうが、7年間刑務所で過ごすよりもよほどよかった*1。私が何について話しているかお分かりですか。

    L:ある程度は。レル*2が教えてくれました……。

    C:それはシャンタという、パルティニシュに近い、山の頂上で起こりました。叔父の一人がそこに家を持っていたんです。家族全員が集まっているなかで、レルが修道士になりたいと言い出しました。母は少し狼狽していましたね。家族全員で夕食を食べたあと、私とレルだけで森のなかに歩きに行きました。朝の6時まで話し合いましたが、私はその計画を放棄しなければならないと彼に示そうとしたのです。私はシニックな議論、哲学的、倫理的議論など、自分が持っているものすべて引きだして、とほうもない反宗教的理論をでっちあげました。本当に美しい夜でしたよ。朝の6時まで話し合ったのです。宗教に反する、信仰に反すると思われたものすべてを、あの愚かなニーチェ主義のすべてを――お分かりになるでしょう――宗教という幻想に反するものすべてを並べて立てました。そして私はこう言って締めくくりました。「僕の話のあとでも修道士になる気を変えないなら、もうお前とは金輪際口を利かない」。

    L:しかし、どうしてそこまで頑なに攻撃されたのですか。

    C:プライドの問題だったんですよ。神秘主義に精通し、「理解」していた私が、説得できないことなどあるものか、という具合にね。「もし僕の話を聞いてもお前が考えを変えないなら、僕たちの間に共通のものは何もないということだ」と言いましたよ。結局のところ、あの時に私の不純なものすべてが表に現れましたね。

    L:本当に悪魔のような人だったのですね。弟さんをそんな風に強制する権利があったのですか。

    C:いいえ、もちろんありはしませんよ。そんなことに意味はない、と言うことにとどめることもできたでしょうが……。でも私が弟を説得しようとした執拗さは本当に悪魔的でしたね。あの素晴らしい夜に、私は今ここに現れているのは、自分と神との間の闘いだという気がしました。もちろん私は弟に言いましたよ、ルーマニアで修道士なんて紛い物でしかない、修道生活は実際には存在しない、ただのペテンでしかない……などとね。しかし私の話は基本的に哲学的で、真剣なものでした。後になって、あの時私のしたことがひどく残酷なものに思えて来ましてね。私の弟の悲劇的な運命は自分に責任があると感じました。あんなことが起こるよりも、修道院に行っていたほうがよほどよかった。

    L:残酷、と仰いました。実際、誠実さの残酷さという問題があなたのなかに存在します。あなたはあまりにも誠実すぎるのです。いったいどれほどの人が、他人にショックを与えるほどの誠実さを持つことが出来るのでしょうか。あなたのような誠実さを世間の人みなが持つようになったら、どうなってしまうのでしょう。

    C:正確に言うのは難しいですが、社会は崩壊するでしょうね。おそらくデカダンスのうちにいる社会は、過剰なまでの誠実さを実践していると思いますよ。

    L:ですがあなたはどうして、みなが知っていること、恥ずかしくて表現するのを拒むことを言おうとなさるのですか。王様が裸であることはみんな知っています。われわれ人間が死ぬということ、恐怖、病、道徳的悲惨が存在するということなどを知らない人などいません。しかしなぜあなたは否定的で、不気味な強迫観念を、誠実さのはけ口として開陳されるのですか。

    C:それは不気味ではなく、日常性そのものです。それに、大事なのはどのように言い、どこを強調するかです。生の悲劇的側面は、その喜劇的側面に特に注意しようとすれば、同時に喜劇的でもあります。酔っぱらいをごらんなさい、彼らはまったく誠実です。彼らはまさにこの問題にコメントしているんですよ。私は生に対して酒の入ってない酔っぱらいとして反応しているんです。私を救ったもの、それは俗な言い方をすれば、生への渇きでした。この渇きのゆえに私は生き長らえ、憂鬱を克服することができたんです……

    L:倦怠ですね。

    C:そう、倦怠です。倦怠は私の人生のなかでもっとも馴染み深い経験です。私の病的な側面ですね。倦怠はずっと私につきまとってきて、ほとんどロマン主義的な経験でした。私は旅行をたくさんして、ヨーロッパ中を周りましたけれども、どこに行っても私は最初は非常に情熱をかき立てられるのですが、次の日にはもう退屈するのです。どこに行っても最初はここに住みたいものだと思うんですよ。それが翌日になると……。この私のなかの病が私につきまとって離れませんでした。


    (訳注:以上が『シオラン対談集』収録分です。)


    L:ええ、しかし反対に、あなたは情熱や生の肯定的な面もご存じですし、時折何かを信じようとなさったこともありますよね。あなたが恋に落ちたとき、ノイカに向けて葉書に次ぎのように書いていらっしゃいます。「寝室のなかの栄光は帝国の栄光に打ち勝つ」。

    C:もちろん愛は必要不可欠な経験です。自分が愛を経験したとき、私は大いに驚嘆したものです。しかし愛は何の解決にもならないのです。

    L:実のところ私はあなたに申し上げたいのです。生は、その肯定的面にも否定的面にも等しく論拠を提供するゆえに、初めからこうだと決めつける肯定・否定どちらの選択も、必要でもないし、根拠のあるものでもないのだ、と。

    C:こう申し上げましょうかね。私が物心ついたとき、すでに否定が根付いていたのだと。

    L:しかしあなたを言動不一致であると非難することもできるでしょう。あなたは生をひどく告発するのに、ご自身の健康には過剰なまでに気を配っており、またあなたは自殺をたえず称賛するのに、ずっと生き続けていると。

    C:私は自殺するべきだとは一度も言ったことはありませんよ。私が言ったのは、自殺の観念こそが唯一、この生を耐えていくための確実な方法だということです。自分の人生を握っているのは自分なのだという考え、したければいつでも自殺できるという観念が、人を大いに助けるのです。少なくとも私は助けられましたし、自分は自殺するつもりだと言ってきたあらゆる人にも当てはまります。ご存じでしょうが、パリでは自殺の試みは日常茶飯事ですからね。思い出しますが、何年か前に、エンジニアだという比較的若い男が私のところにやってきました。彼は自殺について書いた私の文章を読み、自殺したいと言ってきたのです。われわれは三時間リュクサンブール公園の周りを歩きました。そして私は彼に、自殺は、自殺の「観念」はポジティブな観念だ、なぜならそれは生を耐えられるものにするから、と言いました。

    L:最後の避難所という意識を与えるわけですね。

    C:自分はただの犠牲者ではない、自分で自分を自由にできるのだ、自分の人生を支配しているのは自分なのだ、と思うようになるんですよ。だから私は彼に言いました。「君は26歳で、かなり稼いでいるし、そのうえ有能な人間だ。まだ耐えるだけの時間は残っているよ。耐えられるだけ耐えてみたらどうかね。もう自殺の観念も自分を助けてくれないと思ったら、そのときに自殺すればいい!」。三年後再会したとき彼はこう言いました。「あなたの助言に従ってみたんです。するとほら、まだ生きているんですよ」―「けっこう、続けることだね!」。
     お分かりになりますかね。こういう理屈なんです。私は誰かを自殺するようそそのかしたことはない。一度だけひどく馬鹿なことをしたことがあります。もっとも、お話する価値があるかどうかわかりませんが……。それは戦争中のことで、私はあるとても金持ちで美しい女性と知り合いました。あるとき私は彼女に自殺についての考えを披露しました。生きる意味なんてない……等々ね。すると彼女が言うんです。「私といっしょに来てくれませんか。自殺したいと言っている友達がいるんです。彼女と話をしてくれないかと思って……」。女性を喜ばせたいと思って――実のところ好意を持っていたもんですから――私は承諾して、その自殺したいと言っている友達の女性のところに行きました。私は言いました。あなたが自殺したいと思っているのはとてもいい、それは素晴らしい解決策だ、これ以上のものはない、実際生きる意味なんて欠片もないんだし……等々。その後まったく面白いことが起こりましてね。問題の、自殺したいと言っている女性が、友達のほうに向いてこう言うんです。「この男の人は誰?私に自殺をそそのかして……あなたは私の友達なのにこんな人を連れてきて……もういい、私は自殺しない!それにあなたとはもう友達じゃない!」。
    まあ、これはとても複雑な話で、錯覚の上に成り立ってはいます。しかし、自殺の観念なしで生きることはできないという私の考えは本当に正しいと思っています。ウェルテルを除けば、この考えを持ちながら自殺した人は誰もいません。もう一つお話ししましょう。頻繁に私に会いに来る知人がいましてね。彼は郵便局に勤めていて、かなり高い地位に就いているのですが、ほとんど狂人なんです。自殺の強迫観念があって、私に会いに来るんですが、ある日私にこう言うんです。「一昨日、自殺しようとしたんだけど、足が汚れているのに気付いたんだ」。「それがどうかしたのかい」と私は答えました。「わかるだろ。足が汚いままでは自殺できないよ」「でも自殺しようって時に、足が汚いかどうかなんてどうでもいいんじゃない?」「いいや、絶対に足が汚いままで自殺するもんか」。この後も長い議論が続いたというわけ……。彼は結局自殺しました。そのときの足が汚かったのかどうかはわからないけれど、でも私は凄いことだと思いますよ。彼は自殺する理由を山ほど持っていたんです。彼が自分の人生について私に語ってくれたところによるとね。でも彼はずっとこう言っていたんです。「今こそその時だと思ったんだ……でも自分の足を見ると……」。グロテスクな、あるいは喜劇的な物事が自殺の観念と結びつくこともできるんですね。

    L:シオランさん、あなたは人生を通して死というテーマについて書かれてきました。このことは死と出会うにあたって、あなたを楽にさせましたか。

    C:私にとって、死の強迫観念は死の恐怖と何の関係もありませんでした。死が私を惹きつけたのは、ある狂気の物語の結末という限りでのことです。私が言いたいのは、死の強迫観念は正当なものであり、沢山ある問題のなかの一つではなく、まさしく「問題」、問題そのものだということです。理由を挙げましょう。第一に、死は解決したり等級付けしたりできる問題ではない。第二に、死は他の問題と同じ位置にはなく、他のあらゆる問題を破壊する問題です。「さあ、死について考えてみよう。その後他の問題について考えよう」などと言うことは不可能ですよ。死については、たえず考えるか、あるいはまったく考えないか、この二つしかありえません。

    L:人生を通してずっと死について書き続けてきた人は、他の人よりも死に対して準備できていると思われますか。

    C:いいえ、まったくそうは思いませんね。なぜなら、死は解決不可能な問題であり、各人は死に対して各人に出来るかぎりの反応しか示さないからです。死ぬという事実は、死が生の観点からは利益として現れるということを鑑みるならば、二次的なものになります。非常に重要なのは、死の観念はあらゆる態度を正当化するということです。死はどこにでも引き合いに出せるし、どんなことにでも役に立ちます。死は有効性と無効性両方を正当化します。次のように言うことができるでしょう。「ねえ、どうしてこんなことをする必要があるんですか。どうして苦労しなきゃいけないんですか。どうせ死んでしまうのに……」。あるいは反対にこうも言えます。「いずれ私は死ぬのだから、私に残された時間は限られているのだから、私は急いでこれをやらなければいけない……」。まさしく解決がない問題であるがゆえに、死はいかなる態度をも正当化し、生の重要な局面において、あなたを助けてくれるんですよ。先ほどお話しした、2年間朝から晩まで飲んでいたラシナリの酔っぱらい、彼も死について語っており、そして彼は「彼の流儀で」正しかったのです。死はすべてを正当化する終わりのない問題です。

    L:それでは、あなたも自分の名において何かを正当化なされたのでしょうか。

    C:申し上げましたでしょう、自由ですよ。義務を持たないこと、責任を持たないこと、やりたいことだけをやること、計画を持たないこと、自分に関心のあることだけを書くこと。これ以外に人生で目的を持たないこと。

    L:それがあなたが同意し成功した唯一のものなのですか。あなたは望んだことを達成されたのでしょうか。

    C:十分です。悪くはないですよ!

    L:ラシナリをもう一度見たいとは思われないのですか。あなたがあそこに帰る日は来るのでしょうか。

    C:わかりません、お答えすることはできませんね。私の人生のなかであまりにも重要過ぎた場所、そんな場所をもう一度見るのが怖いのです。私はあの村で幸せ過ぎました。私は楽園に帰るのが怖いのです。



    *1シオランの弟アウレル・シオラン(Aurel Cioran)は弁護士となった後、ルーマニア・ファシスト組織「鉄衛団」に関わり、第二次大戦後懲役7年の刑を受けた。
    *2 レル(Relu)はアウレル(Aurel)の愛称形。


    ***



    これでこの対談の翻訳は終了となります。思いがけず2年とちょっとかかってしまいましたが、お付き合いいただいて大変ありがとうございました。

    以下は余談です。

    底本は以下のものになります。

    Gabriel Liiceanu, Itinerariile unei vieți: E.M.Cioran, Bucharest, Humanitas, 2011.

    原著はもともと1995年に出版されたのですが、2011年のこの版は写真などが豊富で装丁も美麗なものになっています。
    またこの対談は映像として記録もされましたので、対談の模様はYoutubeなどで視聴も可能です。

    今後ですが、上記の本に収録されているシオランの伴侶であるシモーヌ・ブエさんとリーチェアヌとの対談を翻訳しようかと思っています。そちらのほうもご覧いただけると幸いです。
    スポンサーサイト

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その4

    リーチェアヌとの対談の続きです。

    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2

    その3


    ***


    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):シオランさん、あなたはどうして亡命国にフランスを選ぶことになったのでしょう。あなたが最初に学んだ外国語はドイツ語であって、フランス語ではありませんでした。なぜドイツを選ばなかったのですか。それにあなたが青年時代を過ごしたシビウはザクセン人の街でした。あなたがフランス語に対してコンプレックスを持っていたことは存じ上げています。大学に入学し、ブカレストに来てすぐ、ブカレストのあなたの仲間と友人はとても流暢にフランス語を話していました。この「トランシルヴァニア・コンプレックス」に、あなたは大学時代ずっとつきまとわれていましたね。結局、あなたが最初に長期滞在することになった外国はドイツでした。1933年から35年の間、フンボルト財団の奨学生として。あらためてお訊きしますが、どうしてドイツではなく、フランスだったのですか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):そうですね、たしかに私はドイツ語をシビウに来てすぐに学びました。ドイツ人の婦人二人の家に下宿していましてね。シビウは私にとってあらゆる面で重要な街です。私はずっとある感じが……なんと言えばいいのか、自分の国にいるのに、外国にいるような感じがしていたのです。考えてもみてください。私はラシナリという、原始的な村、閉ざされた太古の世界からやって来たのですよ。そして突然外国に来てしまったという感じをもったわけです。私が体験したこのコントラストは途方もないものでした……。外国にいたいという思いが強くなったのは、おそらくシビウのおかげだと思います。ずっと私は奨学金を得て外国に行きたいと思っていました。哲学の本を読み始めたのはシビウにいたころですね。私はドイツ人図書館に通っていましたが、その司書がすばらしい人でね。ドイツ人の哲学者で、何十冊かの本を書いているんです。彼は第一次大戦前はオーストリア軍の将校で、そしてシビウにとどまっていたのです。名前はライスナーといって、われわれはとてもよい友人になりました*1。私はドイツ人図書館に通っている唯一のルーマニア人でしたね。私はシビウで二つの文明の間を生きたのです。それだから、私がフンボルト奨学金をもらってベルリンに着いたとき、まったく新しい世界に来たという感じはしなかった。

    L:なぜあなたはそのときドイツで「永遠の学生」にならなかったのですか。どうしてフランスに?

    C:なぜだか申し上げましょう。こんなことが起きたんですよ。ドイツに留学していたとき、一ヶ月間パリに滞在しましてね。それは私にとって啓示でした。パリを見たときから、私にとってベルリンはゼロになり、もはやなんの興味も湧かなくなったのです。ルーマニアに帰ったあとも、パリはオブセッションとなりました。私は自分に言い聞かせたものです、パリに必ず行かねばならないとね。それには奨学金を得る必要がありました。私はブカレストのフランス学院の院長に働きかけはじめて、ついには彼と友人になったのです。

    L:デュプロン氏*2ですね。

    C:デュプロン……彼はまだ存命していますね。それで彼が私をフランスに送ってくれました。実際、彼は私を残りの人生ずっとフランスに送ってくれたことになったのですね。彼はとてもいい人間でした。彼が私に三年間の奨学金をくれたのです。博士論文を書くつもりだと計画書のなかで私が書いたことが嘘だとわかったときでさえ、彼は私に奨学金を継続してくれました。私はフランスを完璧に知っている唯一の奨学生で――私は自転車でフランス中を回ったのです――、これは論文よりも価値があると言ってね。事実私は自転車でフランスを踏破しました。ホテルに泊まる金がなかったから、ユースホステルに泊まりました。カトリック系と共産党系のユースホステルがありました。そこには学生と労働者が泊まっていましたね。そうやって私はフランスの世論を、とくにカトリック信者と共産党支持者の考えをよく知ることができました。私はすぐにフランス人に戦意がないことに気づき、今までにないような、即座の降伏が起こるだろうなと思いました。私は左翼と右翼の反応を知る特権を持っていたわけです。だれも戦う気がなかった。でも私は無理のないことだと思いましたよ。フランスは第一次世界大戦で荒廃し、先頭を切って戦争に行こうとする者はだれもいなかった。イギリス人だけがこのことを知らなかったのですね。イギリスはなにがしとかいう貴族を何回もパリに送って、フランス人の精神状態を調べさせました。彼はたくさんの政治家と最高級のレストランで会って、最後に母国に帰ってこう報告したのです。「フランスはいつでも戦争の準備ができている」。正確な引用ではないかもしれませんが、まあこの類のことです。その話を聞いたとき、私は政治家や外交官というのはなんと無能なものかと思いました。レストランやサロンに行ってある国の状態を知ることができるわけがない。私がフランス中を隅から隅まで通り回って下した診断は正しいことが明らかになりました。フランスは開戦の三日目にはもう降伏する気になっていた。

    L:ドイツ軍がパリに入ってくるところを目撃されましたか。

    C:ええ、最初の日、サン・ミシェル大通りでね。抵抗がなかったものだから、ドイツ軍はここに散歩しにきたかのように入って行きました。彼らはセーヌの方から南に進んできました。サン・ミシェル大通りには人だかりがありましたが、大勢ではなかった。一人の老婦人が歩道の縁に立っていましてね、彼女がどんな反応をするのか見たかったので、私は近づいて彼女が立ち去るまでそこにいました。彼女は私のほうを見てこう一言言ったきりでした。「ねえあなた、ありえないことですよ!(C'est du joli)」。C'est du joliというのはとても陳腐な言葉で、何か普通でないものに対する驚きを表すものです。彼女はフランスの失墜という劇的な瞬間にまったく平凡な言葉を使ったのです。これが私にはひどく印象的でした。彼女はその後こう付け加えました。「これがフランスの終わりです」(C'est la fin de la France)。しかしこのC'est du joliは「ありえない!」とか、そのような類の、少し下品な当惑の表現ですが、あのような場面で口に出されるのは想像しがたいものです。この言葉をどうルーマニア語に翻訳すればいいのかわかりません。

    L:やらかしてしまった(am încurcat-o)、でしょうか。

    C:わかりません。ともあれ、先ほど言ったようにドイツ人たちは一方の方角からやってきましたが、なぜだかわかりませんが、正反対の方向からフランス人捕虜の集団がやってきました。私はそのうちの最初のグループ――二十五人くらいのフランス兵と一人の乗馬したドイツ人――を見ましたが、これは私に強烈な印象を残しました。私は私のすぐ後ろにあったタバコ屋に駆け込んで、タバコを二十箱買い、あまり近づかないようにして、兵士たちに買ったタバコを投げてやりました。兵士たちがみんなタバコを取ろうと屈み込んだそのとき、ドイツ人が私のほうに銃口を向けました。私を救ったのは私のドイツ語です。「私は外国人だ!」(Ich bin Ausländer!)とかそのようなことを叫び、その後ドイツ語で「人道的理由!」(raison d'humanité!)と叫びました。これが私を救いました。逃げ出したりドイツ語が喋れなかったりしたら、私は銃殺されていたでしょうね。パリに住みついたルーマニア人の私が、パリで最初の犠牲者になったかもしれないなんて、これはまったく馬鹿げた逆説です!

    L:戦争の時期はパリでなにをなさっていたのですか。まだフランス語で書くのを始めてはいらっしゃらなかったと思いますが。

    C:ええ、ルーマニア語で書いていました。それどころかルーマニア語を深めてさえいましたよ。というのは、私はルーマニア語の本を持っていなかったので、ルーマニア正教の教会に行って、そこにある本、特に古い本しか読んでいなかったからです。私はルーマニア語の専門家になりましたよ。戦争の終わりごろに、自分がいかに馬鹿げたことをしていたのかに気付き、決定的にルーマニア語と縁を切る決心をしました。私は海に、ディエップにいて、そのとき……

    L:マラルメをルーマニア語に訳そうとなされていた。

    C:その通りです。そして私は唐突にこの仕事にはなんの意味もないこと、もはやルーマニアに戻ることはないこと、ルーマニア語は私にとってなんの役にも立たないことに気付きました。たったの一時間の間にすべてが終わりました。それは激烈な反動でした。私は突然すべてと断絶したのです。私は言語と断絶し、過去と断絶し、すべてと断絶しました。

    L:あなたはすぐにフランス語で書き始めたのですか。

    C:はい。それから私は『崩壊概論』を書き始めましたが、すぐにこれは非常に難しい経験だということがわかりました。二十歳でなら言語を変えることはできるでしょう、しかし三十五歳や三十六歳となると……。それは私にとって恐ろしい経験でした。私はフランス語が完璧にできると思っていましたが、実際はまったくそうでないことに気付いたのです。それでも私は止めたくなかった。私はもはやルーマニアに帰ることはないとわかっていました。もし本当に言語を変えたいのなら、母語と縁を切らなければならないと悟りました。これこそ本質的なことです。他の方法ではうまくいきません。ルーマニア語を喋り続けながらフランス語で書くことはできません。両立不可能なのです。異なる言語への移行は、自らの言語の放棄によって以外では成功しません。この犠牲を受け入れなければならないのです。

    L:どのようにして、最初の本を三回も書き直していながら、意気喪失しないでいられたのですか。

    C:さっき申し上げましたが、私に退路はなかったのです。いずれにせよ、三度本を書き直して、フランス語はまさしくルーマニア語の正反対の存在であることがわかりました。ルーマニア語にはフランス語が持っているような厳格さがなく、融通が利く文法を持ち、自由な言語であって、より私の気質に近い言語です。フランス語で書き、また書き直しながら、絶望的な気持ちになって私は自分に言ったものです。「これは私のための言語ではない」とね。

    L:ルーマニア語で書いているとき、あなたは爆発せんばかりで、抑圧などまるでありませんでしたね。

    C:ええ、それが問題なのです。抑圧がないという点で、ルーマニア語は私の気質に合っていました。しかし同時に、フランス語は人に限界を課し、人を文明化させます。フランス語で狂人になるのは不可能ですよ。つまり、過剰というのはフランス語では不可能なのです。それは単にグロテスクになるだけです。

    L:あなたはフランス語は自分にとって拘束具だと何度も繰り返しておられますね。

    C:それがまさしく私に起こったことですよ。フランス語は狂人をなだめるのです。この言葉は私にとって強制された規律でしたが、最終的には私に対してポジティブな効果をもたらしました。私を限定することによって、フランス語は私を救い、いたるところで誇張するのを私に禁じたのです。この言語的規律を受け入れたことが、私の熱狂を和らげました。フランス語が私のための言語ではなかったのは本当です。でも繰り返しますが、心理的には私の助けになりました。結局のところ、フランス語は私にとって治療的役割を果たす言語になりました。実際、私は自分が適切にフランス語で書けるようになったのを見てひどく驚いたものです。あれほどの厳格さを受け入れることができるとは思っていませんでしたから。フランス語は誠実な言語であると誰かが言っていましたが、フランス語では不正を犯すことが不可能なのです。ここでは知的詐欺というのは簡単ではないのですよ。


    ***


    L:教えていただきたいのですが、あなたはいつ「フランス語の作家」というご自身の立場に慣れるようになったのでしょうか。あなたはこの立場の確立をどのように感じられましたか。サン=ジョン・ペルスをして、「第一級の作家」、「ヴァレリーの死以後、フランス語が誇るもっとも偉大な作家の一人」と言わしめたとき、どのような感じを受けましたか。コアスタ・ボアーチ*3からこの言葉まで、あなたが駆け抜けた軌跡は、あなたを呆然とさせなかったのでしょうか。

    C:何と言えばいいのでしょう?コアスタ・ボアーチからそういったことまで……。まったくのところ、ひどい努力でしたよ。自分の気質に逆らいながら書く、これは容易なことではまったくありません。奇妙なことに、私はドイツ語がよくできたけれども、ドイツ語で書こうという気になったことは一度もなかった。フランス語によって私は自分自身を支配することができるようになりましたが、それは私にとって重大なことでした。いつも私は思うのです。こうやって自分の気質の外に出ることによって、私は一種の裏切りをしでかしたのだと。ある意味で私は私であることを止めた。本当の私であることをやめたのです。

    L:しかし、あなたは思いがけない成功を収められましたよね。この成功に目眩を感じられたことはなかったのですか。

    C:まったく。私はずっと不幸のうちにありながら本を書いて来ました。その代償はとても大きいものでした。私の書いたどの本もひとつの試煉、ひとつの苦難です。たしかに私のデビューは悪いものではなかった。三冊か四冊の本を書いた後、わずかな読者を持つことができましたが、実際のところ私は見向きもされず、孤立していました。私は作家としては長い間孤立した読まれない作家だったと言わねばなりませんね。ポケット・ブックになってようやく、私は若者や学生から発見されたというわけです。まだあります。いまやフランス人はとてもぞんざいに物を書くので、彼らはもはや自分たちの言葉を信じていないのです。しかし外国人の私は、フランス語にきわめて真剣に取り組みました。私が書いたすべての本は少なくとも二回は書き直されています。なんとも奇妙なパラドックスです。バルカン人の私がここに来て文体の訓練をしているのですから……。

    L:ルーマニア語が恋しくなったことはありませんか。

    C:ありませんね。でもルーマニア語のよいところを忘れたことは一度もありません。英語と同じように、ルーマニア語は詩的な言語、つまり詩が力を持っている言語です。その理由はどちらの言語も二重の起源を持っているというところにあります。英語はラテンとゲルマン、ルーマニア語はラテンとスラヴという、両立不可能な二つの言語によって成り立っています。この二重の起源は詩にとって理想的なもので、まさしくこの理由によって英語とルーマニア語は詩に適しているのです。途方もない豊かさを持っているだけでなく、この二つの言語には神秘的な側面がありますが、それはひとつの出会い、それぞれ異なった方向からやって来た言葉と言葉の劇的な出会いに由来しています。反対にフランス語は同質的な言語であって、このことがフランス語の詩を限定的なものにしているのです。フランス語では聖書は読めません。私は言語の詩的価値を評価する際には三つの基準を持っていましてね。聖書――特に旧約聖書――、ホメロス、シェイクスピアが読むにたえうるか、というものです。ホメロスもシェイクスピアもフランス語ではうまくいきません。それはフランス語が乾いた言語、法律の言語であるからです。それだからフランス語の詩人になるというのはまさしく英雄的な行為なのですよ。実を言いますと、フランス語で書き始める前、私は英語を専門にしていましたが、結局放棄してしまいました。もちろんね。

    L:英語を「専門にしていた」とはどういう意味でしょうか。英語の講座に通われていたのですか。

    C:そうです、そうです。まずここ、パリで会話の練習をしました。先生は1905年にブカレストで家政婦をしていたという、とても年配で、ちょっと頭のおかしいご婦人でした。次に体系的に勉強しようとソルボンヌの講座に通いました。そのあと、奇妙なことに戦争の間じゅうずっと開いていた英語の図書館の常連になりました。そこに私は週一回自転車で行って、五冊か六冊の本を抱えて部屋に帰ってきたといわけです。私は文学に専念しましたが、特に詩が私を魅惑しました。

    L:間違いでなければ、あなたは特にシェリーとキーツを読んでいたということですね。

    C:いえいえ、私は全部、もう全部読みましたよ。一種の熱狂でしたね。英詩は私にとって啓示でした。英詩はヨーロッパ詩のなかでももっとも偉大だと思っています。いずれにしても、私は膨大な量の英詩を真剣に読んでいました。これは私の人生のなかで、明確な計画を立てて進めていった数少ない例のうちのひとつです。当時の私の関心はすべてアングロ・サクソン世界のほうに向かっていました。

    L:そのおかげであなたはシモーヌ・ブエ*4さんとの出会いという特権を手にすることができたのでしょうか。

    C:ええ、彼女は英語専攻の学生でした。初めて会ったのは学生食堂でしたね。その後私は彼女と英会話の練習をよくしていました。私の英語への情熱は五年ほど続きましたね。途方もない経験でしたよ。

    L:しかしこの言語的冒険の後、あなたはフランス語を、すなわちあなたの言葉によれば、自分にもっとも合っていない言語を選びます。『実存の誘惑』のなかで、あなたはフランス語についてあまり好意的でないことを書いていらっしゃいますね。

    C:ちょっとしたことを申し上げますと、私はずっとスペインとスペイン語が好きでした。スペインに行きたいという気持ちを隠したことはありません。内戦が始まる前、スペインでの奨学金を申請したこともありました。

    L:なんですって!スペインにもですか。

    C:ええ、ええ。そう驚くようなことでもないでしょう。当時私はアビラの聖テレサの崇拝者でした。この点では今も変わっていません。それはほとんど病的な情熱でした。私は彼女を作家としても愛好していましたが、なにより彼女の「過剰」が私を魅惑したのです。まがうことなき、スペイン特有の狂気から来る過剰です。スペイン内戦が勃発する二ヶ月前、大使館で奨学金の申請を行いました。もちろん返答は何も帰って来ませんでしたよ。実を言うと私はパリではなくスペインに行きたかった……私はほんとうに魅了されていました。私はウナムーノのすべての著作を読みました……そして大戦の後私が覚えた唯一の満足は、フランコが死去した後すぐにスペインを見られたことです。この旅行は私の人生のなかでもっとも印象的でもっとも美しい旅でした。スペインが観光地化する前だったのですよ。三週間の旅程でしたが、私はずっと三等で過ごして、一番安いところに泊まったけれども、本当に魅力的でした。そして私の人生のなかで唯一の、あまりにも素晴らしい旅行だったので、私はスペインにもう来まいと決心しました。実際は七回も行っていますけれどね。これは失敗でしたよ。こんなに行くべきではなかった。ものごとは心のなかにあるときのほうが真実の姿をしているものです。再訪することによって、現実は単調になっていきました。最初の出会いの素晴らしい印象に比べるとね。

    L:それだから、あなたはラシナリに戻らないのですか。

    C:わかりません。私は引き裂かれ、迷っています。なんと言えばいいのか……おそらく私は、再会することによって失ってしまうのが怖いのでしょう。ルーマニアにいる間、たえず私は自分がスペイン人ではないということを悔やんでいました。スペインが挫折のもっとも非凡な例であるということ、このことが私を魅了したのです。世界でもっとも偉大な国が、あのような衰退に至ったのですよ!

    L:あなたが失敗と敗者に惹きつけられるのはなぜでしょうか。どうしてあなたは挫折に讃辞を送られるのですか。

    C:それは私の悪徳と言っていいでしょうね。けれども私は本当に考えているんですよ。ものごとの姿は、自らの終わりと対峙するという危険、つまり没落によって、はじめて自らにも他人の目にも明らかになるとね。挫折において、破滅の壮絶さにおいて、ようやく人は誰かを知ることになるのです。ものごとはその拡大と栄光のときには明らかになりません……

    L:……そうではなく、その黄昏において、夕暮れにおいて。

    C:……黄昏、つまりすべてが壊れていくときに、すべてが徐々に消滅していくときに。文明が興味深いものになるのは、文明が自らのデカダンスを意識しはじめたとき、自らの消滅を体験するようになったときです。

    L:そのような考えの下で、おそらくあなたはルーマニア語で書いた最後の本、『敗者の祈祷書』を戦争中にお書きになったのですね。占領されたパリは、黄昏の街、没落の象徴になった。

    C:そう、そうです。もはや存在することを止めはじめたときにしか、その文明がなんであったのかを知ることはできないというのは真実です。

    その5へ



    *1 エルウィン・ライスナー(Erwin Reisner, 1890-1966)はオーストリアの哲学者、神学者。著書『堕罪と審判への道としての歴史。キリスト教的歴史哲学の基礎付け』(Die Geschichte als Sündenfall und Weg zum Gericht. Grundlegung einer christlichen Metaphysik der Geschichte)の書評を若きシオランが1931年に書いている(『孤独と運命』所収、未訳)。

    *2 アルフォンス・デュプロン(Alphonse Dupront, 1905-1990)はフランスの歴史家。ちなみにこの対談はちょうど1990年の6月に行われた。

    *3 コアスタ・ボアーチ(Coasta Boaci)はシオランの生まれたラシナリにある丘。対談その1参照。

    *4 シモーヌ・ブエ(Simone Boué, 1919-1997)はシオランの長年の伴侶。結婚はしていない。

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その3

    リーチェアヌとの対談の続きです。

    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2



    ***


    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):ラシナリからシビウへの移転はあなたにとってトラウマでした。ではブカレストとの出会いはどうだったのでしょうか。あなたが哲学と文学を専攻する学生だったときの、1930年代のブカレストはどのようなものでしたか。 ブカレストとはあなたにとってそもそもどういうものでしたか。 大学図書館でしょうか、カフェ・コルソでしょうか。そこであなたはツツェアと、ノイカと、エリアーデと知り合ったのですか? ブカレストでのあなたの学生生活はどのようなものでしたか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):1989年12月に大学図書館が破壊されたと聞いたとき、私はとてつもないショックを受けました。私は四年か五年ブカレストにいて、ある部屋に住んでいましたが、そこには暖房がなかった。だから私はずっと大学図書館で過ごしていたのです。一日中ね。私にとってブカレストとは大学図書館のことです。そこで私は膨大な読書をし、特にドイツ哲学のテクストを読んでいました。図書館では時々コンスタンティン・ノイカを目にしましたが、そう頻繁ではなかった。彼は金持ちで、図書館に行く必要がなかったから。もちろん私はコルソにも行きましたよ。私はブカレストで沢山の人々に会いましたが、そのなかでも特に興味深かったのは挫折した人々ですね。いつもカフェにいて、長々とおしゃべりをし、ほかに何もしない人たちです。正直に言って、私がブカレストで会ったもっとも興味深い人たちはこのような人たちでした。無為の生活を送っているけれども、非常に頭の良い人たちばかりだった。それで、当然のことですけれども、私はカフェでツツェアと出会いました。


    T
    ペートレ・ツツェア(Petre Țuțea)



    L:彼は当時すでに、現在目されているように「神秘的思想家」だったのでしょうか。

    C:私の脳裏にどんな彼の姿が焼き付いているか申し上げましょう。彼は宮殿のそう遠くないところで『プラウダ』を買って、十字を切ったあとその新聞にキスしたのです。彼はロシア語は一言も知りませんでした。そうやって彼は路上で『プラウダ』にキスをした。彼は当時マルクス主義者でした。情熱的で神秘的なマルクス主義者。

    L:ツツェアの魅力はなんだったのでしょうか。どうしてあなたは彼を、過去未来を通じて知り合ったなかでもっとも天才的な人物とみなすのでしょうか。

    C:ツツェアは人間ではなく、一つの宇宙です。彼には熱狂と霊感の瞬間があって、彼を評価することができない者にとっては、狂気に陥っていると取り違えられることもありえた。事実彼はなんでも話すことができました。なぜなら彼には実際的精神というものが全面的に欠けていたから。ある一つのデータから出発して即座に体系を創り上げるのです。彼は――なんと言ったらいいのか――まさに思考の中心であって、自分が理論化したものが実現可能なのかと問うことは一度もなかった。一つの思考を展開させるとき、彼はほかの物事や人々を考慮しないのです。思い出しますが、経済省が当時の戦争省にルーマニアの工業力について報告書を提出したときに、経済省の官僚であったツツェアは、膨大な頁数の報告書を作りました。それは哲学のスタイルで、ドイツ哲学の術語を使ってできていて、そこで彼は一種の防衛の哲学を展開しているのです。とても興味深いものでした。この報告書は、誰だか知らないが大佐だか将軍だかに回されて、もちろんまったく理解されず、結局全部廃棄されてしまいました。これほど実践的精神が欠けていながら歴史のなかに入っていったことが、ツツェアの魅力をなしているんですね。彼は日常生活ではきわめて親切な人間ですが、その男がまるで個人的仇敵について話すかのようにその時の政治指導者について話すんですよ。同時代の政治的人物すべてについてです。彼は「自分と奴ら」というたちでしたね。彼は最後まで、歴史について話しているとき自分がその歴史の中心にいるということを確信していました。彼の幻想の体系に、その誇大妄想に入っていけない者は、彼のことを何も理解できません。彼と話していると、彼の自我がある種の絶対的なものであって、彼はあたかも国家か世界の支配者かのように話していることを受け入れざるをえなくなります。

    L:それは気取っていたのでしょうが、それとも真剣だったのでしょうか。

    C:彼はとても誠実でした。ツツェアは嘘を言う人間ではありません。話しているときも彼はずっと彼自身でした。純粋な人間で、思想の上でも生活の上でもシニカルになることができないのです。


    nae_ionescu1.jpg
    ナエ・イオネスク(Nae Ionescu)


    L:あなたの世代全体に影響を及ぼしたもう一人の人物についてお話いただきたいと思います。その人物とはナエ・イオネスク――戦間期ルーマニアにおけるもっとも論争を呼ぶ人物です。彼はどのような人間でしたか。あなたは彼に指導を仰いでいたのですか。それはどれくらいだったのでしょうか。

    C:長期間にわたってです。私は彼と個人的に知り合ったのです。私はすぐに彼が本当に教養がある人物ではないと気づきました。彼の知的形成は完璧な、あるいは広範囲のものではなかった。彼は若い頃ドイツでよく本を読んだけれども、彼の講義はその若い頃に蓄積したものに基づいていました。しかしこの男の魅力は考えられないようなものだった。彼は征服者でした。面白いのは、彼が講義の準備に使った時間はたったの30分だけだったということです。彼はずっとジャーナリストでもあったので時間がなかった。そのせいで彼は何度も即興で講義をし、まさに当の講義の最中に大きな努力を行って思考していたのです。そのために彼は学生を巻き込んで講義を進めました。彼が多大な努力を払っていることはわれわれにも分からなかった。このような感じで、相互に緊張感があったわけですね。あるひとつの問題に彼とともに入り、彼とともに進む。このような教授と出会うことはざらにはないでしょう。彼は、われわれにとって日常的で親密なものとともに思考するすべをもたらしました。新聞から出発して――彼は非常に多くの記事を書いていました――、一気に形而上学的・宗教的問題を立てる。彼は何度もわれわれに次の講義では何を話せばいいのかと訊いてきましたよ。ある時、私がアイディアを出したのですが、彼は天使について語りました。講義が終わったあと、私をそばに呼んでこう言ったのです。「われわれが天使について話していたとき、私がずっと何を考えていたかわかるかい? 警察のトップになることを受け入れるべきかどうか考えていたんだよ」。ナエ・イオネスクは、カロル二世の復位に賛成するキャンペーンを展開することによって、亡命していたカロル二世の復位に際して決定的な役割を果たしました。そしてカロル二世は再び戴冠すると、即座にナオ・イオネスクを内務省に推薦したわけです。

    L:ナエ・イオネスクにとって、哲学と政治の結びつきは直接的なものだったのでしょうか、それとも二つは完璧に分かれていたのでしょうか。

    C:分かれていたと言うほうが近いと思います。彼には冒険家の側面があって、困難な問題に立ち向かうことを楽しんでいた。彼はバルカン的矛盾のすべてを体現していました。当時私は彼についての記事を『ヴレメア』紙に一つ書きましたが、それは彼をあまり喜ばせなかった。私はその記事のなかで、彼の知性と明晰性の度合いは、何かと同一化し、何かを信じることが不可能なレベルにある、と言いました。これほど鋭敏な人物にとっては、生はあまりにも複雑な遊びなので、一つの理念に単純化することができないのだ、と。

    L:彼はあなたや当時の若者たちに、政治的選択の面で直接的な影響を及ぼしたのでしょうか。

    C:もちろんです。特にエリアーデに対してね。どうしてそうなったのか申し上げましょう。国王にとってナエ・イオネスクはもっとも重要な人物で、多大な影響力を持っていました。しかしあるとき、何が理由なのか正確にはわかりませんが、彼は国王と――あるいは国王が彼と――決裂しました。そのときから彼には復讐しか念頭になかった。そうして彼は鉄衛団を支持するようになったのです。この行動はなによりまず私怨からなされたもので、政治的理由は二次的なものでした。われわれは彼の個人的冒険に引きずり込まれたというのは確かだと思います。彼の政治的選択への原動力は、結局のところ復讐にあったわけですからね。和解するという考えは彼にはなかった。王座を掘り崩すというのがいまや彼の唯一の関心事になり、これが最終的には彼を破滅させました。
    私が惹かれたのは彼の冒険家的な側面です。彼は一方では哲学者であり、もう一方では征服者だった。魅力に満ち溢れ、社交の人で、女性と派手な交際をし……。彼は莫大に金を浪費し、まったく躊躇せずに誰からにでも金を借りていました。あるとき彼は私にこう言ったことがあります。「金が欲しいなと思ったところに金があるんだよ」。また別のときには、「奴らだって聖人ではない。人のことは言えないさ」。彼にはギリシア人風の側面がありました。結局のところ、彼は何も信じていなかった。彼は没落する文明の代表者で、原始的野蛮が荒れ狂う国で鋭利さを実践する魅力ある人物でした。疑いなく彼はひとかどの「人物」でしたよ。彼をとなりにすると、他の大学教授たちは純朴な農民のように映りましたね。いずれにせよ、エリアーデは「精神的に(道徳的に)」彼と関わり合って完璧に間違いを犯しました。なぜならナエ・イオネスクという男は、目標や基準や権威にするべき人物ではなく、単なる冒険家であったからです。私の考えではエリアーデはこのことがわからなかった。エリアーデは一日中彼の側にいる生徒のようでした。「先生、先生……」という風に。

    L:ですがエリアーデは彼の助手であったのですから、それは当然のことではないですか。

    C:ナエ・イオネスクには助手を持つ権利がありませんでした。博士号を持っていなかったからです。彼は博士ではなかった……。

    L:ラドゥレスク=モトルとの騒動のことですね。彼はナエ・イオネスクにドイツでの博士号学位証書を見せるよう求めた……。

    C:彼が博士号を持っていたのか、それとも持っていなかったのかはわかりません。彼は持っていると断言したけれど、それを見た者は誰もいなかった。

    L:しかし、あなたや他の彼に近しい人たちにも見せなかったのでしょうか?「ほら、私の同僚たちは私が博士号を持っていないとか言うんだが、彼らの言いなりになって彼らに見せるのは嫌だけれど、君たちには見せるよ」、とでも言いながら。このようなことはなかったのですか?

    C:わかりません、私は見たことがない。でも私にとってこの問題は重要ではなかった。彼が博士号を持っているかどうかなんてどうでもよかったのです。ドイツではコンシェルジュさえも博士号を持っているんですよ。結局のところ、ナエ・イオネスクは全教授陣から嫌われていた。

    L:彼が学生たちから人気があったからでしょうか?

    C:おそらくそうでしょう。いずれにしても彼は大学でうまくやっていける人物ではなかった。彼は大学人ではありませんでした。

    L:彼の講義には多くの学生が聴講しに来たのでしょうか?

    C:ええ、たくさん来ましたよ。でも彼は講義にいつもやって来るというわけではなかった。それどころか講義に来るのは非常にまれでした。ある日、彼はわれわれにこう言いました。「おそらく君たちは、私がなぜ規則的に講義に来ないのかと訊くかもしれない。理由はきわめて単純です。君たちに言うべきことが何もないときには私は来ません」。

    L:彼は雄弁家でしたか?

    C:雄弁ではありませんでした。反対に、彼は直接的に話した。それが彼の魅力だったのです。彼はサロンで講義をすることもできたと思いますよ。彼はデカダンスの文明に属する人物でした。

    L:お訊きしたいのですが、あなたはエリアーデと違って、彼に対して距離をとっていたのですか。

    C:ええ、大いにね。私は自分がナエ・イオネスクの素朴な賛美者ではないということに気づいていました。『ヴレメア』紙で彼について書いた記事は背信的な称賛でした。

    L:ではノイカは?ノイカとナエ・イオネスクはどのような関係にあったのですか。彼はあなたがとった慎重な態度とエリアーデが行った信仰との間の中間にいたのでしょうか。

    C:ナエ・イオネスクはノイカを受け入れられなかった。ときおり彼はノイカが特別な演習に来るのを拒否しました。「いや、君は明日来てはならない」と言ってね。

    L:しかしなぜです?理解できません。

    C:彼らはギリシア人の生まれだったんです!

    L:ナエ・イオネスクはギリシア人だったのですか?

    C:言ってみれば彼はバルカン人でした。彼は私に自分はトルコ人だと言いましたが、本当のことはわからない。いずれにしても、ノイカは彼らとまったくうまくいかなかった。ナエ・イオネスクはノイカに我慢できなかったのです。

    L:ですがノイカはナエ・イオネスクを称賛していないでしょうか? ナエ・イオネスクの講義の編集に参加したのは彼だけです。ナエ・イオネスクの死に際して、彼はすでにパリにいたあなたに手紙を書いています。そのなかで彼はナエ・イオネスクとの別れがもたらした衝撃を嘆きながら表明しています。そしてこう手紙を締めくくっているのです――「なぜなら君も自分がどれほど苦しんでいるのか理解しないだろう」、と。

    C:たぶん、ノイカはナエ・イオネスクが自分を好んでいなかったことに気づかなかったのでしょう。

    L:シオランさん、哲学の文章を書く上でのあなたやエリアーデ、ノイカのトーンは、ルーマニア哲学に非アカデミックに記述する様式をもたらしました。直接的に、内臓から書くという、この個人的なトーンは、ナエ・イオネスクの影響なのでしょうか?

    C:ある程度はそうです。おそらく。

    L:何十年か経ちましたが、現在、彼の影響をどのように評価していらっしゃいますか。有益だったでしょうか、有害だったでしょうか。

    C:有益でした。というのも彼は大学に新しいトーンをもたらしたからです。彼なしの大学というのを私は想像できません。彼がいなかったなら、大学で私には馬鹿げた記憶しか残らなかったでしょうね。彼の存在は無二のものでした。



    ccccccc2.jpg
    1940年代、『崩壊概論』の頃のシオラン


    L:あなたが大学を卒業なさったときには、もう人生の計画を建てていたのですか? あなたご自身で自らの道を切り開いたのでしょうか。

    C:私の人生での唯一の信仰は、自由であること、独立していること、まずもって職業に依存しないことでした。自分の望むことを行うのに成功しなければ人生に意味はない。私はこのことを最初から理解していたんですよ。私にとってすべてであった問題は、どのようにすれば自らの自由を守ることができるのか、というものでした。もし私がどこかの職場で働くことを受け入れていたとしたら、金を稼いで生き続けることはできたでしょうが、すべておしまいになっていたでしょうね。パリで私はたくさんの挫折した人たちに出会いました。彼らはとても才能があって素晴らしい人間だったけれども、職場が彼らを破壊してしまった。戦前のパリは、人生に挫折した人間にとって理想の街でした。特にルーマニア人は華々しいものでしたよ。それで私は、職業を得るという屈辱を避けるために全力を尽くしたのです。いかなる犠牲を払っても回避しようとしました。私は働いて自分を破壊するよりも、パラサイトの生活を送りたかった。それは私にとってドグマのようなものでした。自分の自由を守るためにはどんな貧困も受け入れました。パラサイトの人生とは、つまり楽園のような素晴らしい人生ということですが、これだけが私には唯一耐えられるものだと思えたのです。

    L:おかしなことに、あなたはつねに敗者を称賛されますが、あなたは挫折しないためにはいかなることをもやってのけたようです。あなたが受け入れた屈辱とはどのようなものでしょうか?

    C:私は永遠の学生の人生を受け入れました。私は学生食堂で食べていましたが、学食にいる学生のなかでももっとも年をとっていました。私の夢は一生奨学金で暮らすというものでした。これだけが私の気に入るものでした。永遠に学生であり続け、学生の地位を利用し続ける……。奨学金は職を得ないための唯一の方法でした。この考えを私が抱いたのは、1936年、ブラショフでのことです。この年は私が働いて給料を得た唯一の年です。私は哲学の教師でした。この時私はもう働きたくないものだと思った。

    L:あなたが教室のなかで哲学を教えている光景を想像するのは難しいです。当時のあなたの生徒の一人で、今はホノルル大学の教授となっている人がいますが……

    C:シュテファン・バチウですね……

    L:あなたが高校でどのような先生だったのか、彼が教えてくれました。

    C:私は教科書をまったく無視して授業を行っていました。ただうわごとだけをべらべら喋っていた。私がブラショフを離れるとき、高校の校長は私から逃れられた喜びに舞い上がっていましたよ。でも申し上げますが、その時私は自分がもう働きたくないと思っていることに気づいた。五分たりともね。

    L:働かないでパリでどうやって生きていくことができたのですか?

    C:申し上げたでしょう、奨学金ですよ。戦前、パリに来たとき、ここでの生活は楽園のようなものでした。ホテルは非常に安くて、人生を半分挫折しかけている知的な外国人学生だけで埋め尽くされていた。戦前のパリが持っていた魅力を想像するのは不可能でしょう。私はここで自分の理想、パラサイトとして生きるという自分の理想を実現できると思った。「パラサイト」というのは適切な言葉ではないかもしれない。周辺的なアウトサイダー、マージナルな人間として、と言えばいいでしょうか。言葉の通常の意味で働かない人間として、です。

    L:よくわからないのですが、あなたは何歳まで奨学金を受給していらっしゃったのですか?

    C:ちょっとお待ちください、正確なところを申し上げましょう。……私は戦前フランスに来てから40歳まで学食で食事をしていました。ある晴れた日、私は呼び出されて、私は実際には学食に通う権利がないこと、27歳かそのあたりまでという年齢制限があることを聞かされました。その時私は40歳だったんですよ。私は年齢制限があるなんて知らなかった。私はソルボンヌに登録していて、学生の特権を大いに持っていると考えていたのですが、「あなたはもう資格がないですよ」、と言われたわけです。本当に私は知らなかった。私は死ぬまで大学の学食で食べようと計画していたんですからね。これが私にとっていかに大きな失望だったか。突然計画がおじゃんになってしまった。私はすでに『崩壊概論』を出版していたけれども学食で食べていて、学生たちが新聞に載っている私についての記事を見ながら言い合うんです。「こいつはなんなんだろう?本を出していながら学食で食べているぞ……」。まあとにかく、私は40歳まで学生として生活することができて、学生生活の恩恵を被っていたわけです。これはルーマニアではおそらく不可能だったでしょう。フランスで私は、外国籍の学生という地位を可能な限り利用しました。それだけの話しですが、同時にそれだけで私は自由だった。私には大した野望もなかったし、偽りのプライドも捨てていた。そして屈辱をさして感じることもなく、永遠の学生の状態を受け入れたのです。

    L:当時あなたはどこにお住まいでしたか?

    C:カルチェ・ラタンのホテルの、小さい一室ですよ。全部で五つのホテルに住みましたが、どれもここ(オデオン街のシオラン宅)からとても近いホテルです。私の理想はカルチェ・ラタンのどこかのホテルで死ぬというものでしたね。

    L:死ぬまで学食で食べると決めていらっしゃったのですから、筋が通っていますね。

    C:その通りです。私が滞在した最後のホテルでは、小部屋を二つ持っていました。屋根裏でしたけどね。鍵を下にやって、他人がやってきても部屋にいないように見せかけて、引きこもって本を読んでいました。そのうちホテルの土地が売られることになってしまって、退居しなければならなくなった。そのとき、もうこんな風な生活を続けていくことはできないだろうと思い、問題を起こさない住居をどうやったら見つけることができるか考え始めました。どうやって見つけたかお教えしましょう。今から30年ほど前、私は『歴史とユートピア』を書きました……。

    L:1960年に出版されましたね。

    C:そして不動産を扱っているある婦人と知り合いまして、彼女は文学に理解があると自負していました。本が出版されたとき、私はシモーヌ(シオランの伴侶)に言いました。「あの婦人に見本を贈ったらどうだろう」。「見本を一つ処分したいのなら、贈ればいいでしょう」と彼女は答えました。三日後にその婦人が来て、このアパルトマンを提案してくれたというわけです!その時からここに住んでいますが、その賃料というのが……

    L:アイスクリームの値段。

    C:その通りです!このことは私にとって大いなる成功です。

    L:1974年にあなたはここを失うかもしれない地点に追い込まれましたね。所有者がこのアパルトマンを要求したのでした。あなたは弟さんへの手紙のなかで、自分に法律の知識がないことに後悔し、法律の教科書を読み始めた、と書いていらっしゃいます……。結果としてあなたは諦められたようです。「結局、この年になってみると、もう生きている人間ではなく、ただ生き延びている人間だよ。一番ふさわしいのは暫定的状態で生きることだ……」。とすると、70年代にあなたは、60歳でフランスの路上生活者になる危険にさらされていたということでしょうか。

    C:よくわかりませんね。たしかなのは、私がここの地区の水準の賃料を払うことはできなかったということです。しかし、私が譲歩しなかったのは大いに好運でしたね。シモーヌは出ていきたがった。私は拒否しました。私をここから出したければ警察を呼んで逮捕させるんだな、と言いましたよ。所有者は出ていかない私を見て、どうすることもできないと思ったのでしょう、最終的に私を放置して、平穏が戻りました。もし彼らがあくまで私を追い出そうとしていたのなら、文学の世界でも騒動が起こったでしょうね……。いずれにせよ、こうやって私は物質的問題を解決したのでした。

    その4へ

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その2

    リーチェアヌとの対談の続きです。この翻訳では、主にルーマニア語版に基づいていますが、仏訳を参照しています。

    その1はこちらです

    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):しかし、実際あなたは何に苦しんでいたのですか?

    エミール・シオラン(Emil Cioran):不眠による極度の神経の緊張です。不眠を知る前、私はほとんど普通の人間でした。眠りの喪失は私にとって啓示でした。その時私は、生は睡眠のおかげによってのみ耐えられるものだと気づいたのです。毎朝、新しい冒険、あるいは同じ冒険が始まります。しかしそれは中断を伴ってのものです。反対に不眠は無意識を排除し、こんなことに耐えるには人間はあまりにも弱すぎるということを、1日24時間ずっと鮮明に意識しなければならなくなります。不眠は一種の英雄的行為であり、毎日が始めるから負けることが分かっている闘争です。というのも、生きることは忘却によってしか可能とならないから。次の朝には新しい人生が始まるという幻想を持つためには、毎日人は忘れなければならない。逆に不眠は人に不断の意識という経験を強います。その時、全世界との、眠ることができる全人類との闘争に入るのです。もはや自分が他人と同じ人間であると考えることはできない。他の人間は無意識になることができるのですからね。こうした後の最初の反応として持つもの、それは馬鹿げた誇りです。自分は他人と同じような人間ではない、自分は他の者が意識を持っていないときに、終わりのない夜を徹した経験があるという。この誇り、この破滅の誇りこそが唯一勇気を与えてくれるのです――俺は他人とは違う運命を持っていると。自分による自分への「お世辞」、この常軌を逸した感情は、もはや自分は人類に属していないというものです。自分で自分を美化すると同時に自分を罰する。おそらくこの極度の不眠の時期に、自分は明晰であるという誇りが生まれたのでしょう。これは一生ついてまわりました。私が言いたいのは、人々は知的で、独創的で、天才的でありうるでしょうが、明晰であることはできないということです。対して私は、明晰性をわがものとし、それを独占しているとみなしていました。今では私はもはや同じように考えてはいません。結局のところ、不幸な人間はすべて明晰なのです。しかし当時、不眠が私の明晰性は特別な明晰性だという確信をかき立てていました。確かなのは、不眠の時期は私の残りの人生にとって決定的な影響をもたらした、ということです。それは恐るべき経験でした。私は20歳で、毎晩、夜が明けるまでシビウを一人で歩き回っていました……

    L:すると、あなたの哲学は青年期のもののままであり、あなたの観点はその時代に決定的になった、ということでしょうか。

    C:いいえ。生に関する私のヴィジョン、それは仏教のなかに見出すことができます。私の考えでは、仏教はもっとも深い宗教です。私はあまりにも一貫していないので、なんらかの一つの宗教を追い求めるということができないのですが、私の世界に対する眼ざしは、仏教と非常に近いものです。たとえ別な風に言い表されていてもね。あの2年か3年続いた、恐ろしい不眠の時代に、私は否定に取りつかれ、先ほど話した誇りが私のなかに生まれました。明晰性へのうぬぼれ、ものごとの無常性の確信、他の人間の人生を支配している幻想に対する意識、これらすべては、不眠という根本的経験に由来します。私が哲学へと、言うなれば突き進んだとき、私にとってもっとも関心を惹いたのは、意識の問題でした。意識とは宿命である、宿命としての意識(Bewusstsein als Verhängnis)という観念が私のオブセッションとなりました。私の哲学への関心はこの問いとともに始まり、この問いとともに終わりました。根本的にいえば、人間は覚醒する存在です。そして不眠はこの哲学的本能を罰するのです。

    L:覚醒させ続けるという罰ですか。

    C:そうです。私にとって、意識のドラマを経験していない者は素朴な人間です。たとえその人が天才だとしてもね。ある意味で、意識の過剰、つまり忘却なしの生は、私に対して病的な側面がありました。私が不眠に苦しんでいたとき、私は全人類を絶対的に軽蔑していました。すべての者が私には動物に見えました。

    L:なぜなら彼らは一時、意識を持たないでいることが許されていたからでしょうか…

    C:その通りです。それは妬みでもありましたし、軽蔑でもありました。覚醒していること、間断なく意識を持つことは、人間を限界にまで導くものです。

    L:そうですね。しかし他方で、意識はあなたにとって呪いでもありました。意識のドラマはあなたの著作のなかで頻出する主題です。動物は人間よりも幸福であり、植物は動物よりも幸福であり、鉱物が最高の幸福を享受していると、あなたは何度も繰り返されて来ましたね。

    C:私は意識一般について話しているのではなく、意識の過剰について話しているのです。この過剰だけが、誇りと敗北という矛盾した感情を引き起こし、この過剰だけが、意識を同時に呪いと予感として感じさせます。そして不眠とは、過剰としての意識を人に啓示させるものです。普通、われわれは意識を、定期的で継続的な中断を挟んで経験しています。この場合、意識は重荷ではない。不眠がもはや始まりというものは存在しないと気づかせたとき、人はつねにそれまでとは異なった生を生き始めます。不眠が人を中断のない意識という現象の前に立たせることではじめて、人間とは意識を持つことができる唯一の存在であると理解し、そして同時に、人間はそのありのままではこの現象を耐えるにはあまりにも弱い存在であると理解するのです。

    L:シオランさん、あなたについて少し過酷なことをお訊きするのを許していただきたいと思います。意地の悪い読者がいるとして、次のようにあなたに言うとしましょう。「もし、あなたが定式化して論じるということにおいて卓越していないというのなら、あなたの思想の根本というのは要するに少々の陳腐な言葉に尽きてしまうのではないか。人間は悪だ、死は災厄だ、生きることは無意味だ、自殺は別だが、等々と」。

    C:それらすべては、理論上では陳腐でしょうが、経験するときはそうではない。死は災厄だということは、経験としては決して陳腐ではありません。もっとも深い宗教の一つである仏教も、生の無の認識という「陳腐」に尽きます。

    L:実際に、次のようにあなたを批判することもできるでしょう。あなたは世界と同じくらい古いテーマを再び取り上げ、「コヘレトの言葉」以来言われてきたことすべてを、並外れた才能でもって繰り返しただけだと。あなたの新しいところはなんであると思われますか。

    C:それはまったく経験の強度の問題ですね。生に関する見解の素材に新しいところなどない。死より陳腐な現象が他に存在するでしょうか。しかし同時に、死は究極的な問題であり、すべての宗教の関心の中心であったのは偶然ではありません。「独創的な哲学」などというものは、学問から出発して作り上げるほかない。学問の世界では新しいことが可能です。そのような哲学は、もちろん独創的でしょうが、しかしそれは同時になんの関心も示すことはない。ハイデガーのことを考えてください。彼が死について、そして他のすべてのことについて書いたものは、日常の言葉に移されると、なんの独創性も持たないものになります。彼の値打ちは、彼が他の者とは違った風に定式化したということに由来します。新しいもの、それは結局のところ響き、トーン、調子など、各人の経験の強度から発してくるものです。私が受け取った手紙、特に若い人たちからの手紙は、私の定式化の仕方と経験から、人々がなんらかの認識を持つことができるということを示しています。それがたとえどれほど愚か者であってもね。独自の表現を越えて思想が単純化されると、いかなる思想も陳腐になります。

    その3へ

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その1

    試みにシオランとガブリエル・リーチェアヌとの対談を訳してみました。拙いところはご勘弁下さい。




    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):あなたはいくつかの「賞賛訓練」(Exercices d'admiration 邦訳『オマージュの試み』)を書かれましたが、運命の問題はあなたをいつも魅了してきました。完成か挫折かという個人の運命、そして栄光とデカダンスという民族の運命の両方がです。しかしあなたはいつも他人の運命について語ってこられました。もう80歳になろうというところで、あなた自身の運命については、どのようなまなざしを向けられますか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):私は自分が望んだ運命を持ったと言いたいですね。自由であるということ、独立しているということが私の脳裏から離れませんでした。それで私はそれを獲得したわけです。でも、もう今となっては私の運命は終わったと考えています。一年前、おそらくもっと前から、私はもう書くまいと決めました。

    L:それは初めてのことではありませんね。この10年か20年の間、あなたはそのような決心をずっと取り続けてきたように思います。

    C:今回は真面目ですよ。

    L:あなたの本が出る度に、今回が最後の本だと言ってこられましたが、その度にまた次の本が続いて出されました。

    C:それはそうだった。でも今度のは本当です。もう書かないというこの決心には、言ってみれば、ほとんど生理学的な理由があるんですよ。私には何かが変わってしまったという感じがあります。

    L:どういう意味でしょうか?

    C:何かが衰えた、そう……私の中で壊れたんです。一般的に言って、作家というものは死ぬまで書き続けます。特にフランスではね。そんなのは何の意味もありませんよ。本の数を増やして何になるんです? 私の考えでは、全ての作家たちは書き過ぎですね。

    L:それはあなたの場合にもあてはまりますか?

    C:ええ、その通り。でも大作家たちはまったく書き過ぎました。シェイクスピアもやり過ぎですね。私について言うと……ただ単に、宇宙に唾するのはもう十分ということです。私はもうしたくない。

    L:しかし、あなたは無用性と死のテーマについての、15冊以上の本をお持ちですね。

    C:それはオブセッションの問題ですよ。私の作品は――この言葉には吐き気がする――医学的、治療的な理由から生まれました。私が同じオブセッションの他は書かれていない同じような本を書いたのは、それが私をいわば自由にする、ということを確認するためです。まさしく私は必要があって書いたのです。文学とか哲学その他は私にとってはきっかけに過ぎない。書くことのセラピーのような効能、本質的なのはそれです。

    L:すると今ではあなたは治られたわけですね?

    C:いえ、治っていません、治ったのではなく、ただ単に疲れただけで。

    L:ですが、無用性や無意味を弁護した作品が、どうやって助けてくれるのですか。

    C:表現する手段を持たなかった他の人たちが感じていることを述べるからです。読者を自分が感じていたことについて突然意識させることによって、助けるのです。要するに、自己を取り戻すというように、助けるのです。

    L:しかし絶望に集中することは、それをより深めてしまうのではないのですか。

    C:既に表明してしまったこと全ては、より受け入れやすいものになります。表現、それは薬ですよ。司祭に告白しに行くことに何の意味があると思いますか? それはわれわれを自由にするんです。表明されてしまうことで、その強さは減らされることになります。それこそが治療的であるという理由であり、書くことによって治療する意義です。もし私が書いていなかったならば、私はもっと憂鬱の状態にあったろうし、その場合疑いなく憂鬱は私を狂気にし、私がやることを全て失敗に導いていったことでしょうね。既に表明したという事実が特別な効果を現すのだ、と言わなければなりません。私が書かなかったならば、まず間違いなく病気になってしまったでしょうね。そんな風に私は5冊くらいの本をルーマニア語で、そして……8冊か9冊の本をフランス語で書いたわけです。

    L:では、今は?

    C:今は…もう終わりましたよ! もう沢山だ! 私は書くのをやめた、というのは私の中に何か減退を感じたからです。激しさの低下です。大事なことは、気持ちの高ぶり、感動の強さです。ところで消えてしまったものというのはそれなんですよ。私は私の中に、一種の疲れを、表現に対する嫌悪を見出し始めました。私はもう言葉を信じてはいない。パリの文学的スペクタクルにはもっとね! 皆が朝から夜まで間断なく書いています……私はといえば、長い間否定しつづけました。でもこの攻撃的否定、これを私はもう今や必要だと感じないんですよ。実際、これは衰弱の現象ですね。

    L:その疲れはあなたを世界と和解させたのでしょうか?

    C:いいえ、それは単に私を衰弱させただけです。私はこれまでの人生の間、自分は自分がが知っているどの人よりも明晰な人間である、という途轍もないうぬぼれを抱いてきました。これは誇大妄想狂の明白な形態ですね。でも本当のところ、私はいつも人々は幻影の中で生きていると思っていたんですよ――私を除いてね。彼らは何も理解していない、と私は確信していました。それは軽蔑ということではなくて、ただ単に確認です。皆が騙されているし、人々は素朴である。しかし私は騙されないという幸運を――あるいは不幸と言ってもいいですが――我がものとしました。そしてそれは実際、何にも参加しないということ、他人の目的の喜劇にまったく関わらないで振る舞うということなんです。

    L:今となって、あなたのそのような振る舞いは、正しかったと思われますか?

    C:もちろんですよ!

    L:あなたは生涯で、リヴァロル賞、サント-ブーヴ賞、コンバ賞、ニミエ賞といった文学賞を授与されてきました。最初のリヴァロル賞を除いて、あなたは全て辞退されました。なぜでしょう?

    C:パリの文学的スペクタクルにはうんざりなんですよ。作家は皆一つの文学賞を手に入れるためにどんなことでもやってのけます。それはまさしく産業とも言うべきものです。私は選択の余地がないことを素早く理解しました。全てを受け入れるか、全てを拒否するかなのです。最初、私は受け入れました……

    L:リヴァロル賞、『崩壊概論』に対してですね。

    C:そうです。それは最初の本だったし、選定委員会のなかにはフランスでもっとも偉大な作家たちがいました*1。彼らは年を取っていたけど、私はまったくの無名だった。その賞を拒否するのは当時何の意味もなく、それはただの厚かましい行為にすぎなかった。1949年のことでした。しかしこのことの後、つまりフランスの文学生活についてよりよく知った後に、賞というものはとても不愉快なものだということ、そして私にとってほとんど危険なことだと気付いたわけです。

    L:あなたがニミエ賞を拒否されたとき、あなたは弟さんに向けてこう書かれています。「『生誕の災厄』のような本を書いた後に、文学賞を受けることなんてできないよ」。しかし、それにもかかわらず、この辞退の連続は反対に一つの宣伝の形態ではないでしょうか? あなたの辞退は噂になり、好奇心を呼び覚ましました。

    C:いや、私は最初から賞は拒否すると決心していました。

    L:あなたがインタヴューに応ずることが殆どなかったのも、徹底してフランスのテレビに出ることを拒否したのも同じ理由からでしょうか? あなたはパリの舞台からもっとも引っ込んだ著者であると考えられていました。

    C:パリに生きていて、文学賞のスペクタクルを見物する人は、決定せざるをえないのです。他人と同じように振る舞うか、それともそうしないかというね。

    L:あなたの作品が外的な性質を帯びているとは感じられないのですか?全ての作品は公衆に読まれます。公衆とは宣伝を意味します……

    C:ええ、でもそれを引き受けるのは編集者だけで、私ではない。私はそこに混ざりたいとは思わない。私が自分の商品を持って街に売りに行くことなんてこれっぽっちもありえませんよ! その上私は少しばかり運命論者でしてね。どの作家もその運命を持っています。賞を拒否すること、それはフランスの文学的風習に対する抵抗の一つの形態でもあるんですよ。


    ***


    L:フランスでは、あなたがラシナリというトランシルヴァニアの村に生まれたことは知られていますが、しかし大部分の人々は、この場所があなたにとっていかに重要であるかということを無視しています。あなたは何度もラシナリから出ることを楽園からの追放になぞられましたね。

    C:私の幼年時代はまったくの楽園そのものだった。

    L:いくつかの場所が、ルーマニアにいるあなたの弟さんや友人たちへの手紙の中で回帰するように現れます。隣の家の果樹園、お父上が勤める教会、コアスタ・ボアーチ――村に張り出た丘、永遠に遊び回っていた、半ば伝説的な土地です。コンスタンティン・ノイカに当てたあなたの手紙の中に、有名なフレーズがありますね――「コアスタ・ボアーチを去って何かいいことがあっただろうか?」

    C:風景は重要な問題です。山で生きた時、その他のものは言いようがない陳腐なものに思える。そこでは何か原始的なポエジーが行き渡っています。コアスタ・ボアーチが私にとって本質的な役割を担ったということ、これは認めなければなりません。私はそこに行って、村を支配していました……

    L:あなたの他の幼年時代過ごした場所も特別な意味を帯びているのですか?

    C:ええ、特に墓地がそうです。墓堀人に友人がいましてね。彼はとてもいい人間で、彼は私のもっとも楽しみにしていることが、髑髏を手に入れることだと知っていました。彼が誰かを埋めていると、私はすぐに駆けつけて、彼が私に一つくれるかどうか見守っていました。

    L:どうして髑髏に惹きつけられたのですか?

    C:私の楽しみ、それは…それでサッカーをすることでした。私は髑髏に目がなかった。私は墓堀人が髑髏を掘り出すのを見るのがとても好きでした。

    L:それは病的な嗜好なのでしょうか、あるいは無邪気な遊びなのでしょうか。

    C:その両方だと思います。結局のところ、私はサッカーをするのが好きだった。髑髏が空にくるくると回っているのを私の目が追っているときのことを憶えています。私はそれをつかまえようと突進しました……。それは何より素朴なスポーツだった。私は髑髏でサッカーをするのが許されないことを知っていたし、それが普通ではないことを十分に意識していた。それに、私は誰にもこのことを話しませんでした。それは病的な感情に属するものではなかった。しかし、死の世界との一種の親近感のようなものがありました。墓地はとても近かったし、埋葬にも慣れていましたから……。

    L:しかし今あなたが語られた親近感は、死の問題から切り離されなければならないのではないでしょうか。そのような親近感は、死から距離をとるものであっても、思考の中心的なテーマになることはなかった。そのような経験は、死という現象に対して明朗な視線を与えるか、あるいは無視させるようになるのではないかと思います。ところが、反対に、死はあなたにとってオブセッションとなりましたね。

    C:私の死についてのオブセッションを、7歳か8歳頃のこの経験に遡らせることができるとは思いません。死が私の人生の中で役割を果たすようになるのはもっと後のことです。実際死は、16か17歳の時に私にまとわりつくようになりました。それが絶頂に達するのは『絶望のきわみで』を書いた頃です。したがってこの現象は後々のものだけれども、でも墓地での交際が私に影響を与えたというのはありうることです。私が多少とも居合わせた埋葬、涙、嘆きに私は無関心ではいられなかった。しかし、正確にいつと言うことはできませんが、この感覚は、はっきりとした問題へと変わったのです。


    ***


    L:では楽園から去り、いかにしてあなたが追放された後の生への一歩を踏み出されたのかに移りましょう。

    C:私の人生のなかでもっとも悲しい日は、父が私をシビウの寄宿先に送った日です。その日を忘れることは決してありません。私の人生のなかで全てが壊れてしまい、死を宣告されているのだという感じを持った日です。忘れることはありませんよ!

    L:哲学の読書を14歳から15歳のときに始められましたね。あなたの読書ノートを見せていただきました。リヒテンベルク、ショーペンハウアー、ニーチェ……

    C:その後にキルケゴール。私がある日キルケゴールを読んでいた日のことを思い出します。庭師が現れて――人々は彼は狂人だと言っていました――私に訊くんです。「どうしてずっと本を読んでいるの?」。「楽しいからさ。本には……」「そこにはなにも答えは見つからないよ。ないね、ないね、本からは。本のなかには見つけられないよ」そして私は彼を見つめて言いました。「あなたは考える人、認識する人、理解した人ですね」。

    L:なるほど。しかしあなたがそのことを初めから理解していたならば、どうしてあなたは今世紀でもっともすさまじい読書家の一人になったのでしょう?

    C:私は膨大に読みました、それは本当です。私は一生の間膨大に、一種の脱走のように読んできました。私は哲学のなかに、他者のヴィジョンのなかに入りたかった。それは本への一種の逃走、自分自身から逃れることです。

    L:でもどうしてあなたは自分自身を忘れる他の方法を探さなかったのですか?例えばアルコールとか……

    C:いやいや、私は酔っぱらってばかりいましたよ!

    L:酔っぱらう? あなたが? いつのことです?

    C:若い頃、とても頻繁にです。私は酔っぱらいになることばかり考えていました。非意識の状態と、酔っぱらいの馬鹿げた誇りが気に入っていたのです。休暇のとき帰るラシナリでは、私は古典的な酔っぱらいを盛大に賞賛していました。彼らは毎日酔っていた。とくにそのうちの一人は、一日中バイオリンを持ちながらぶらぶらし、口笛を吹き、歌っていました。彼は村中で唯一面白い人間だ、唯一理解している人間だと私は考えたものです。みんな何か仕事に従事するというのに、彼だけは遊んでいました。彼はアメリカの叔父を持っていて、2年の間にすべてを使い果たし、無一文になりました。彼がそのあとすぐに死んだのは幸運だったと言えるでしょうね。

    L:あなたがそのような人々、堕落し失敗した人々を賞賛すると、それはただの若者の奇矯愛好(teribilism)、上品ぶった人々をあきれさせるだけのものだ、と非難されますね。

    C:まあそうです。それは見つけるのがもっとも容易な説明ですね。本当のところを言うと、奇妙なことでしょうけども、私のなかの何かと照応しているもの、それはあまりにも普通で平凡な両親を持ったことでずっと感じていた不幸です。言うなればね。私の不眠の時期を思い出します。母とともに家に独りでいたある日のこと、危機のあまり、私はベットに身を投げてこう言いました。「もうだめだ! もうだめだ!」。すると司祭の妻であった母が私に返しました。「もし知っていたならば、堕胎していたのに」。このことは突然私に巨大な喜びをもたらしました。私は自分に言ったものです。なら俺はただの偶然の産物なのだ、これ以上何が必要だというのか?

    その2へ


    *1 委員会のなかには、アンドレ・ジード、フランソワ・モーリヤック、ジャン・ポーランなどがいた。
    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

    最新記事
    最新コメント
    最新トラックバック
    月別アーカイブ
    カテゴリ
    検索フォーム
    RSSリンクの表示
    リンク
    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる

    QRコード
    QR
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。