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    第一章 小さな文化の悲劇 その2(18頁-22頁)

     もしルーマニアが歴史への道を本当に切り開いて行きたいと望むのなら、もっとも学ぶことができる国はロシアである。19世紀全体を通してロシア人は、強迫観念にいたるまでに自らの運命の問題にのたうち回った。この理論的な苦悶のおかげで、革命によって自らを歴史の中心に据えるために、ロシアは確かな足取りで歴史の中を歩んでいった。ロシアの宗教思想、汎スラヴ主義と西欧主義、ニヒリズム・ナロードニキ主義等々、全てがロシアの使命というものをめぐっていた。コミャーコフ、チャアダーエフ、ゲルツェン、ドストエフスキー、アクサーコフ、ダニレフスキー、あるいはニヒリストたち、ピサレフ、ドブロリューボフ、チェルヌイシェフスキーらは、解答は異なっていても、同じ問題を解決しようとした。ソロヴィヨフの神秘主義さえも、具体的な現実のロシアの神学的置換であるようにみえる。

     ロシアが記念碑的使命に運命づけられていることは十二分に明らかである。しかし、なぜこの自明さはロシアにとって悩ましいものであったのだろうか?19世紀ロシアの全体は、興奮した予言的な意識を、真のメシア的ヒステリーを示している。他の民族が成熟期にあるときに歴史に参入したどの国民も、歴史の水準の不等によって引き起こされる不均衡によって苦しむものだ。ルーマニアのように、何世紀にも渡って眠った後に、ロシアは誕生する。歴史の諸段階を燃やす以外にやるべきことはない。ロシアはルネサンスを知らなかったし、その中世は暗く、非精神的であった。文学においてさえも、19世紀初頭にいたるまでただ民話と道徳的・宗教的作品によって目立つだけだった。ロシアの巨大な災厄とは――それはわれわれのものでもある――ビザンツ的伝統であり、ビザンツの精神の息吹であって、それらは抽象的な図式主義を、また政治的・文化的次元における組織された反動主義を、外国の文化の中に接ぎ木するのだ。19世紀のロシアの反動思想の全ては、ビザンツの流れを受け継いでいた。ポベドノスツェフ、この聖シノドの検事、文盲の国における大衆の無教養の預言者は、ビザンティン・イコンに歴史的意義を読み取った。しかしそれは、西洋諸国が行ったような、太陽の運行ではなく、ビザンティン・イコンに、死と涸渇と影を読み取ったのだった。暗い天空の芸術、聖者の単調さ、エロスの反対者、すなわちビザンティン芸術から発するものより生気に欠けたヴィジョンは存在しない。そしてこのビザンツの精神の呪いの下でルーマニアが数世紀を過ごしたとは、何と恐ろしいことであろうか!

     ロシア・メシアニズムは究極的には黙示録主義に根差している。この民族が感じ思考する全てのものは、文化のカテゴリーを突き破るか、あるいはその水準の下に落ちるかである。法の形式も、国家の現実も、客観的精神(ヘーゲルあるいはディルタイの意味で)がつくるものもまったく理解することができずに、ロシア・メシアニズムは、ヨーロッパ人―彼らにとって文化のシンボリズムは自然に受け入れられ、自明な人工物である―の意識には呼吸不可能な空気の中で活動する。たとえボルシェヴィズムがロシアに理論的には限られた展望を与えていても、魂の呼吸は同じ規模を保った。何人かのスラヴ主義者たちが、率直に言ってグロテスクに考え出した世界支配の夢―ツァーリと教皇による統治、世界の新しい中心としてのコンスタンティノープルの復活―それはイデオロギーこそ違えど、より幻想的ではないかたちで、ボルシェヴィズムにおいても続いている。この考えを全面的に廃棄し、自らの使命を捨てるくらいならむしろ、地球から消えてしまうことをロシア人は選ぶだろう。それは宇宙的・非人間的規模をとるほどロシア人に根付いている。ロシア人とともに、絶対が政治において、そして歴史において現れた。彼らはそのために戦った全ての政治的・社会的・宗教的形態を、最後のものと考えた。ここから情熱、不条理、犯罪、野獣性という、歴史に固有のものが生まれる。西欧にとって、歴史とはそれ自体における合目的性であり、生成の内在面において円熟した人間の価値とドラマの全体性である。終末論は、少なくとも現代の人間にとっては疎遠なものである。ヘーゲル――近代世界の(オフィシャルな)哲学者の中でも終末論的傾向をもった人物――は、終末論を、超越の次元における最終的解決というキリスト教的意味としてではなく、内在の次元において考えた。自己自身への復帰と絶対精神の内面化は歴史を終わらせるのだが、それは黙示録的ヴィジョンにおいて終末が展開されるようなドラマではない。結局のところ弁証法は、プロセスを絶対化し、宇宙を歴史化することで、理論的に言えば、終末論を拒否するのである。様式と終末論の間で、ヘーゲルの体系は均衡を保ち、対立の均整化という点で一貫している。それがどの弁証法も示している意図なのである。

     ロシア人はドイツ人よりも文化的様式をはるかに欠いている。様式は、一時的に形式を作るという生の傾向を表しており、規定され限定された構造の中で実現するという、内的ダイナミズムを方向づけるという、生の内的実体の不合理性を理解可能な次元にまで高めるという生の傾向を表現している。生が表す多様な方向から、生の様式は新しい内容を作り、固有性を規定し、優先されるべき価値を定める。生のさまざまな様相が、ある一つの方向、あるいは他の方向の優勢にしたがって秩序づけられる。実体の中心は全ての対象に同質で相対的な内容を与える。というのも、様式の意味とは次のようなものであるからだ。すなわち、特殊な特徴の刻印によって異質なものを超えること、生命のダイナミズムにおいて明確にされる個性化を確保する限界を定めること。存在の内容の位階化は、この個性化に、ある方向かあるいは他の方向かを決める優先されるべき価値に、生命の多様性において作用する特殊なものに、形式の安定化に由来する。しかし、形式は存在において実現した調和の一定の値を、たとえそれが外的な値であっても前提しているので、この領域においては、全体の実現、というものは不可能である。様式、形式と調和は互いに互いを前提しあっている。生の限定された様式を生きる者は、様式の構造にともなう(形式、調和といった)全ての相関的なものを個人的に経験する。このような条件において、人間にとって様式がつねに均衡を表してはいないとしても、様式は均衡の可能性の表現であるというのは事実である、ということが説明されうる。様式にとっては、生は意味を持つ。なぜなら、行われるもの全ては、価値の特殊な領域の中で、そして限定された形式の中で全体化され、したがって生に内在する生産性の非合理的理念を排除しつつ、包括化と全体化の現象それ自体において、存在するものがその目的を明らかにするからである。ロシア人は文化における様式を持っていない、というのもロシア人は、生の直接的なもの、ましてや価値の直接的なものの中で生きてはいないからだ。他方でロシア人は合理的宇宙を必死になって作り上げることもなかった。したがって、世界における彼らの使命は転倒のように、冷酷な嵐のようにわれわれには映る。ロシアはあまりにも世界に浸透してしまったので、これから先、全ての道がモスクワに通じていなくとも、モスクワはいかなる道の上であっても我々の前に現れてくるだろう。ロシアの精神は乗りうつりやすいのだ。ロシア文学は大陸全体をヒステリーにしなかっただろうか?諸民族から自らを守る態度によって、民族の健康の度合いを測ることができるだろう。若い民族は「ロシア病」を利用し豊かにすることを知っている。老いた民族は感染してしまい、自らのデカダンスの中で生命力の最後の残りをも喪失する危機に陥るだろう。ボルシェヴィキのロシアのみならず、ロシア一般について、人間的現象と歴史的運命として私は語っているのである。一種のロシア・コンプレックスが存在する。それからの解放が将来の問題になるだろう。なぜなら、この何十年間というもの、ロシア・コンプレックスはどの回想録の中でも一章をなしていたのだから。
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    目次

    まえがき


    第一章 小さな文化の悲劇(Tragedia culturilor mici)
    1-1(7頁-18頁)
    1-2(18-22頁)
    1-3(22-29頁)
    1-4(29-36頁)
    第二章 ルーマニアのアダムの状態(Adamismul românesc)
    2-1(37-41頁)
    2-2(41-47頁)
    2-3(47-51頁)
    2-4(51-55頁)
    第三章 ルーマニアの心理的・歴史的空虚 (Golurile pshihologice și istorice ale României)
    I(56-79頁)
    3-1-1(56-60頁)

    II(80-99頁)


    III(100-122頁)


    第四章 国民集団主義 (Colectivismul național)


    第五章 戦争と革命 (Război și revoluție)


    第六章 政治の世界 (Lumea politicului)


    第七章 ルーマニアの歴史的螺旋 (Spirala istorică a României)

    まえがき

    第一章の前に置かれている、新版につけたされた文章を訳すのを忘れていましたのでここにあげます。序文というには短すぎるので、著者からの注意といったところでしょうか。この文章は仏訳には収録されていませんので、訳す価値もあるかと思います。
    (現状報告――実は翻訳作業自体は本を通してほとんど終わっているのですが、公開できる(と思われる)最低ラインまでリファインする作業が厄介で遅れています。もう少しお待ち下さい。)


    以下本文

     
     私はこの譫言を1935年から1936年の間、24歳の時に、情熱と傲慢をもって書いた。ルーマニア語とフランス語で私が発表したもののなかで、このテクストはもっとも情熱的なものであり、また同時にもっとも私に疎遠なものである。この中に私を見出すことはできない、当時の私のヒステリーを明らかに示すものであるとみえるにもかかわらず。いくつかのうぬぼれに溢れた馬鹿げたページを削除することは私の義務だと思った。この版が決定版である。いかなる者にもこの版を修正する権利はない。
                                                            E.M.シオラン
                                                        1990年2月22日 パリ
    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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