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    第二章 ルーマニアのアダムの状態 その4(51-55頁)

     私には明らかであると思われるのは、平凡で、大人しい、あきらめた、知恵のあるルーマニアを私は受け入れられないということだ。道徳的・経済的再生が有効な前進であると考えるのでは十分ではない。誠実で整然としたルーマニアなどというものは、道徳的・経済的快適さを超えて、秘められた力――その存在をわれわれは疑ってはならない――を拡大する、ということなくしては、まったく何の意味も持たない。私には反発しか感じられないのだが、われわれのナショナリズムは、未来のルーマニアを、スイスのようなものとして構想した。整然として、誠実で、道徳的、それだけだ。もしルーマニアが、支配の感覚を、世界どころかバルカンにおいてすら見いだせないのであれば、またもし、ルーマニアの使命とは国内の秩序と国境警備であると、ルーマニアの歴史的理念とは、われわれの歴史以下の状態の恒常的反応であった忍耐という、いわば民族の特性を養うことでしかない、ということで満足してしまうのであれば、引き延ばされた断末魔のなかで喜びの声をあげながら溶解してしまうほうがずっといいだろう。

     ルーマニアとは地理であって歴史ではない。誰がこの悲劇を理解していよう? 国民(国家)というものは、それが他者にとって問題となるときのみ、その名前が反応を引き起こすときにはじめて価値がある。われわれは全員、フランス・イギリス・イタリア・ロシア・ドイツとは何か知っている。しかし誰もルーマニアとはなんであるか知らない。だがなんでないかは完全に知っている。ルーマニアの欠如について精通することによって私は、ルーマニアが何ものかになるために必要なものは無限にあるということを知った。

     昼夜を問わず、ルーマニア人はルーマニアについて話している。しかし認めなければなるまいが、ルーマニアがその人にとって深刻な問題や信仰や運命であるような人を、見つけることはほとんどなかった。そのかわり、ルーマニアについての陳腐な見解には頻繁にお目にかかる。国民的予言の欠如こそ、われわれのナショナリズムの弱点の一つであるように見える。

     これからもわれわれは他人の道を繰り返し、生物学的意義に満足するという呪いをかけられたままでいるのだろうか、われわれはただの民族(popor)にとどまるのだろうか? しかし歴史にとっては、ルーマニア国民(națiune)などというものは存在しないのだ。というのも、千年間われわれは世界の静けさをかき乱すようなことは何もせず、今日においても、われわれが世界の不安を増大させるどころか、かえってわれわれが世界の不安に脅えている始末なのだから。われわれは「知恵のある」民族であり続けるのだろうか? それならば崩壊したほうがましというものだ。われわれが自らの不毛な恒常性をどれほど否定するのか、未来が示してくれるだろう。

     民族それ自体は精神的現象ではない。民族は国家(国民、națiune)を通して精神を分有するのであり、それによって、その本質においては精神的でない国家も歴史的に精神的価値を体現するのである。どの民族も、その世界への執着によって特徴づけられ、多くの前文化的要素をその存在に包含している。民族の存在の長所と短所の全ては、原初的な状態からの近さに由来する。より大きな生命的鼓動を行うことで、精神的意味からは遠ざかってしまう。民族が理念を持つようになるのは、国民になるか、あるいはすでに国民であるときに限る。民族としては、われわれはごく早くから存在している。トランシルヴァニア人、ムンテニア(ワラキア)人、モルドヴァ人等々。何百年もの抑圧のなかで、ルーマニアの団結のための運動がなかったと言うことはできない。しかしまさにこれら民族のヴィジョンは――私には驚くようなことではないが――民族的な存在に特徴的な要素を超えることはなかった。国民(națiune)は民族(popor)の水準よりも高い水準にある。この水準においてのみ民族は、個性の明確なしるしである豊かな攻撃的推進力(エラン)を獲得するのである。

     バイエルン人、ザクセン人、プロイセン人や他のドイツ系の人々は、孤立した半ば自律的な生活において、根源的な要素、原初的な力強さというドイツ民族の特徴を示すことができた。しかしただの民族としては、諸々のドイツ人は、周辺的な役割に運命づけられていたかもしれない。国民(国家)は、民族の歴史的能力とメシア的傾向を、明らかにするとともに引き出す。民族的存在の基礎は本能によって政治的に方向づけられる。ただ国民(国家)のみが政治を芸術の域にまで高めたのである。政治的本能を持たない民族は、国民に続く道の途上で挫折する。政治的本能とは何か。それは成功への非反省的な傾向、すなわち価値判断を無視しうるような傾向である。それは倫理への配慮を持たない、目的としての力と栄光である。優位と唯一性への欲求である。客観的な形態と、組織化の崇拝である。芸術となることで、政治的本能は最大限の勝利の獲得を目的として、エネルギーの全てを方向づける。強大な政治的精神を持つ国民はつねに警戒している。その国民の偉大さをなしているのは、攻撃性と明晰性のよくとれた均衡である。各々の国民が、その歴史的水準の上昇(力・使命・帝国主義)を目指すのは、時宜にかなって自らの力を生かすためである。そして権力は、他の「権力」の損害において以外には生かされることはできない。国家間の紛争は時とともに激しい対立になる。国家が存在するかぎり戦争もまたなくならないだろう。そして国家が消滅したならば対立は人種間で増大するだろう。そして人種の後は…惑星の間だろうか?

     人間において、苦悩への集団的探求が存在するというのは明らかである。戦争は人間の定期的な呼吸であり、もちろん堕落として考えれば、人間の運命の究極的野蛮さの表現である。

     民族が国民になろうとする傾向を持つように、国民も大国になろうとする。前者の変化が、本能の能力と自発性によって成立するのに対して、大国への変移は、意識の闘争の劇的な形態をとる。この大国によって提示されるスペクタクルは、誰にとっても失望的である。それは歴史に倫理的目的を求める者にとってだけではない。大国は支配によって以外には実現されえない。もしある国民(国家)が、充分なエネルギーを持ち、その結果、自分自身によって大国になったとしても、大国は支配と侵略と征服による以外、現実的に存在することはない。これら侵略と征服は、たとえ国民自身が自分の持つものに満足していたとしても、不可避である。積み上げられた力は、国民を横溢と噴出へ導く。自分の意志からではなく、あれほど多くの国民が力の純粋な飽和から戦争を起こした。帝国主義の潜在力というものがあり、それは諸国民の間に不平等に分配されている。どのようにしても、諸国民は同じ水準に居合わせることができない。不平等は力のヒエラルキーを作ることで、必然的に対立を強化し、戦争を解決できない運命として固定する。帝国主義は、ある民族の空間的限界や人工の超過だけで説明されえない。帝国主義に病む国は、必要とする領域の全てを征服しても、帝国主義者をやめることはない。それは、どの真正の帝国主義も、国民の意味と生成に密接に結合されているからである。古代ローマは自分が望んだすべてのものを支配することができたが、これはローマが帝国主義的であり続けるのを妨げるものではなかった。そしてローマが帝国主義的であったのは、その歴史の固有の方向によってそうであったのである。一時的な帝国主義というのはあまり意味があるものではないし、大きな国民を表すものでもない。巨大な征服はまったくの無償のものであり、無用な運命である。必要のゆえだけで征服した者は、その行為によって歴史的重要性に達することはない。歴史において壮大で持続するものすべては、人間の通常の必要と共通なものは何もないような必要性のもとで成立する。歴史のすべては無償の悲劇以外のものではないかもしれない……。

     突然姿を現したような民族、同じ水準ではないとしても、少なくとも同じ目的を持つ民族だけが世界にあって幸福である。水準の大まかな不平等性は、同じ目的への熱狂的な追求によって緩和されるのである。諸国民は互いに悲劇を準備する。しかし悲劇は、国民になろうとする民族にとって、すでに民族から国民へというプロセスを終えた他の国が大国として優位を争っているとき、いっそう甚だしいものとなる。大国に飲み込まれないためには、歴史への飛躍がそのような民族にとって唯一の救済である。すべての対立の源泉である歴史的水準の不平等、これを克服する他の道は存在しない。この飛躍は、他の民族が没落するときに世界へと突進する民族にとっては、望ましいものであるだろう。精神的には、その民族はデカダンスの悲劇も耐えることができる。しかしその民族には、大国の弱点を利用することによってその上昇を速めることができたのだ、という政治的汚点も残されるだろう。大国がその黄昏を祝っているときに自己を確立する、このことに大きな価値などない。他の国民が意義に満ちた生を送ったあとで、重要性を持たない生命力を喧伝するというのは、準蛮族のやることである。真の蛮族とは、純粋に生物学的意味においてそうなのであって、それとは知らず、不当に蛮族の聖痕を持ち合わせている。というのも、なんの理念にも仕えない帝国主義でなければ、蛮族とはなんなのか? 精神的意味を持たない生命力、政治的感覚を持たない征服、使命なしの打倒が、蛮族をあいまいで実り豊かな現象にする。もし蛮族が、歴史的空虚――民族の黎明はそのなかで現れる――を準備し、したがって蛮族を飛び越えて、生成が歴史的空虚に意味を与えてしまうならば、蛮族それ自体にはなんの深さもないということになるだろう。歴史的に若い民族の確立は、蛮族の形態をとるに違いないが、しかしその溢れるエネルギーの爆発は、理念の誕生への崇拝を、精神的意味による個性化への情熱を秘めているのでなければならない。そうでないならば、その黎明は他者の没落に値するものではない。(第二章・了)
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    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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