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    シオラン読書案内

     訳文を載せるだけでは寂しいかなと思い、これからシオランを読もうと考えている方のために、読書案内などを作ってみることにしました。
     
     まず、シオランは若い頃ルーマニア語で、第二次大戦後はフランス語で書きました。それゆえ彼の著作は、ルーマニア語時代とフランス語時代と区分できます。この二つの時代の間には、トーンなどのかなりの違いがあります。

     彼の著作は、最近出された遺稿などを除いて、ほとんど全て邦訳されています。ルーマニア語時代の著作の邦訳はフランス語からの重訳です。 

     これから著作を書かれた順に紹介していきたいと思いますが、まず最初に個人的に私がお勧めする本を理由つきで挙げてからにしたいと思います。

     なおご紹介のためアマゾンのリンクを張っていますが、これはアマゾンでのご購入を推奨しているものではありません。特に古書の場合マーケットプレイスは高いのが多いので、まずは古本屋で探されるのがよいと思います。



    +初めて読むという方向け+


    『生誕の災厄』 出口裕弘訳(紀伊國屋書店、1976年)
    生誕の災厄生誕の災厄
    (1976/02)
    E.M.シオラン

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    理由:アフォリズム集なので、好きなところから好きなだけ読める。思考のエッセンスや雰囲気を知るには最適。ただ当然のことながら論証されないため、どうしてそういう考えが出てくるのか、というわかりにくさはある。入手しやすい。


    『告白と呪詛』 出口裕弘訳(紀伊國屋書店、1994年)
    告白と呪詛告白と呪詛
    (1994/12)
    シオラン、Cioran 他

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    理由:同上。これもアフォリズム集。どちらかはお好みで。『生誕の災厄』よりは入手しにくい。


    『歴史とユートピア』 出口裕弘訳(紀伊國屋書店、1967年)
    歴史とユートピア歴史とユートピア
    (1967/05)
    E.M.シオラン

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    理由:エッセイ集。アフォリズムのように断言で済まさず、わりと論じてくれるため思考の過程を把握しやすい。論じている事柄も比較的接近しやすい。訳がノリノリで引き込まれる度合いが高い。入手しやすく古書でも安い。


    『シオラン対談集』 金井裕訳(法政大学出版局、1998年)
    シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)
    (1998/07)
    シオラン

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    理由:対談集なので読みやすく、エッセンスとユーモア溢れる彼の人柄に近づける。絶版でないため、値段はそれなりにするが入手しやすい。



    +ちょっと読んだことがあるよという方向け+



    『時間への失墜』 金井裕訳(国文社、改訂版2004年)
    時間への失墜 (E.M.シオラン選集)時間への失墜 (E.M.シオラン選集)
    (2004/07)
    E.M. シオラン

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    理由:エッセイ集。「創世記」、「懐疑論者」、「知恵」、「時間」等、扱われる事柄は彼に親しんでないとわかりにくいが、彼の断言の源泉に遡るには貴重な著作。2004年の改訳版は明快な訳文で比較的理解しやすい。絶版でないので入手が容易。


    『絶望のきわみで』 金井裕訳(紀伊國屋書店、1991年)
    絶望のきわみで絶望のきわみで
    (1991/05)
    E.M. シオラン

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    理由:処女作。エッセイ集。ルーマニア時代のシオランならこれか下の『涙と聖者』がおすすめ。上記のフランスのシオランとは違ったシオランに出会える。ルーマニア時代のシオランは概して叙情性が非常に強いが、この著作は抽象的であり叙情的であるという性質をそなえつつも、第二作『欺瞞の書』以降ほど詩的散文が爆発していない。ちょっと入手しにくいが古書ならある。


    『涙と聖者』 金井裕訳(紀伊國屋書店、1990年)
    涙と聖者涙と聖者
    (1990/01)
    E.M. シオラン

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    理由:アフォリズム集。1937年に書かれたルーマニア時代の著作だが、この邦訳の基になっている仏訳版(1986年)は、50年近く後のフランスのシオラン自身の手によって徹底的に削除され手を加えられた末に出版されたものなので、ほとんどフランスのシオランの著作と言っても過言ではない。そのため、ルーマニア時代のシオランにこれから触れる人にも向いている。これも古書。


    全著作紹介はもう少しお待ちください。

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    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その1

    試みにシオランとガブリエル・リーチェアヌとの対談を訳してみました。拙いところはご勘弁下さい。




    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):あなたはいくつかの「賞賛訓練」(Exercices d'admiration 邦訳『オマージュの試み』)を書かれましたが、運命の問題はあなたをいつも魅了してきました。完成か挫折かという個人の運命、そして栄光とデカダンスという民族の運命の両方がです。しかしあなたはいつも他人の運命について語ってこられました。もう80歳になろうというところで、あなた自身の運命については、どのようなまなざしを向けられますか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):私は自分が望んだ運命を持ったと言いたいですね。自由であるということ、独立しているということが私の脳裏から離れませんでした。それで私はそれを獲得したわけです。でも、もう今となっては私の運命は終わったと考えています。一年前、おそらくもっと前から、私はもう書くまいと決めました。

    L:それは初めてのことではありませんね。この10年か20年の間、あなたはそのような決心をずっと取り続けてきたように思います。

    C:今回は真面目ですよ。

    L:あなたの本が出る度に、今回が最後の本だと言ってこられましたが、その度にまた次の本が続いて出されました。

    C:それはそうだった。でも今度のは本当です。もう書かないというこの決心には、言ってみれば、ほとんど生理学的な理由があるんですよ。私には何かが変わってしまったという感じがあります。

    L:どういう意味でしょうか?

    C:何かが衰えた、そう……私の中で壊れたんです。一般的に言って、作家というものは死ぬまで書き続けます。特にフランスではね。そんなのは何の意味もありませんよ。本の数を増やして何になるんです? 私の考えでは、全ての作家たちは書き過ぎですね。

    L:それはあなたの場合にもあてはまりますか?

    C:ええ、その通り。でも大作家たちはまったく書き過ぎました。シェイクスピアもやり過ぎですね。私について言うと……ただ単に、宇宙に唾するのはもう十分ということです。私はもうしたくない。

    L:しかし、あなたは無用性と死のテーマについての、15冊以上の本をお持ちですね。

    C:それはオブセッションの問題ですよ。私の作品は――この言葉には吐き気がする――医学的、治療的な理由から生まれました。私が同じオブセッションの他は書かれていない同じような本を書いたのは、それが私をいわば自由にする、ということを確認するためです。まさしく私は必要があって書いたのです。文学とか哲学その他は私にとってはきっかけに過ぎない。書くことのセラピーのような効能、本質的なのはそれです。

    L:すると今ではあなたは治られたわけですね?

    C:いえ、治っていません、治ったのではなく、ただ単に疲れただけで。

    L:ですが、無用性や無意味を弁護した作品が、どうやって助けてくれるのですか。

    C:表現する手段を持たなかった他の人たちが感じていることを述べるからです。読者を自分が感じていたことについて突然意識させることによって、助けるのです。要するに、自己を取り戻すというように、助けるのです。

    L:しかし絶望に集中することは、それをより深めてしまうのではないのですか。

    C:既に表明してしまったこと全ては、より受け入れやすいものになります。表現、それは薬ですよ。司祭に告白しに行くことに何の意味があると思いますか? それはわれわれを自由にするんです。表明されてしまうことで、その強さは減らされることになります。それこそが治療的であるという理由であり、書くことによって治療する意義です。もし私が書いていなかったならば、私はもっと憂鬱の状態にあったろうし、その場合疑いなく憂鬱は私を狂気にし、私がやることを全て失敗に導いていったことでしょうね。既に表明したという事実が特別な効果を現すのだ、と言わなければなりません。私が書かなかったならば、まず間違いなく病気になってしまったでしょうね。そんな風に私は5冊くらいの本をルーマニア語で、そして……8冊か9冊の本をフランス語で書いたわけです。

    L:では、今は?

    C:今は…もう終わりましたよ! もう沢山だ! 私は書くのをやめた、というのは私の中に何か減退を感じたからです。激しさの低下です。大事なことは、気持ちの高ぶり、感動の強さです。ところで消えてしまったものというのはそれなんですよ。私は私の中に、一種の疲れを、表現に対する嫌悪を見出し始めました。私はもう言葉を信じてはいない。パリの文学的スペクタクルにはもっとね! 皆が朝から夜まで間断なく書いています……私はといえば、長い間否定しつづけました。でもこの攻撃的否定、これを私はもう今や必要だと感じないんですよ。実際、これは衰弱の現象ですね。

    L:その疲れはあなたを世界と和解させたのでしょうか?

    C:いいえ、それは単に私を衰弱させただけです。私はこれまでの人生の間、自分は自分がが知っているどの人よりも明晰な人間である、という途轍もないうぬぼれを抱いてきました。これは誇大妄想狂の明白な形態ですね。でも本当のところ、私はいつも人々は幻影の中で生きていると思っていたんですよ――私を除いてね。彼らは何も理解していない、と私は確信していました。それは軽蔑ということではなくて、ただ単に確認です。皆が騙されているし、人々は素朴である。しかし私は騙されないという幸運を――あるいは不幸と言ってもいいですが――我がものとしました。そしてそれは実際、何にも参加しないということ、他人の目的の喜劇にまったく関わらないで振る舞うということなんです。

    L:今となって、あなたのそのような振る舞いは、正しかったと思われますか?

    C:もちろんですよ!

    L:あなたは生涯で、リヴァロル賞、サント-ブーヴ賞、コンバ賞、ニミエ賞といった文学賞を授与されてきました。最初のリヴァロル賞を除いて、あなたは全て辞退されました。なぜでしょう?

    C:パリの文学的スペクタクルにはうんざりなんですよ。作家は皆一つの文学賞を手に入れるためにどんなことでもやってのけます。それはまさしく産業とも言うべきものです。私は選択の余地がないことを素早く理解しました。全てを受け入れるか、全てを拒否するかなのです。最初、私は受け入れました……

    L:リヴァロル賞、『崩壊概論』に対してですね。

    C:そうです。それは最初の本だったし、選定委員会のなかにはフランスでもっとも偉大な作家たちがいました*1。彼らは年を取っていたけど、私はまったくの無名だった。その賞を拒否するのは当時何の意味もなく、それはただの厚かましい行為にすぎなかった。1949年のことでした。しかしこのことの後、つまりフランスの文学生活についてよりよく知った後に、賞というものはとても不愉快なものだということ、そして私にとってほとんど危険なことだと気付いたわけです。

    L:あなたがニミエ賞を拒否されたとき、あなたは弟さんに向けてこう書かれています。「『生誕の災厄』のような本を書いた後に、文学賞を受けることなんてできないよ」。しかし、それにもかかわらず、この辞退の連続は反対に一つの宣伝の形態ではないでしょうか? あなたの辞退は噂になり、好奇心を呼び覚ましました。

    C:いや、私は最初から賞は拒否すると決心していました。

    L:あなたがインタヴューに応ずることが殆どなかったのも、徹底してフランスのテレビに出ることを拒否したのも同じ理由からでしょうか? あなたはパリの舞台からもっとも引っ込んだ著者であると考えられていました。

    C:パリに生きていて、文学賞のスペクタクルを見物する人は、決定せざるをえないのです。他人と同じように振る舞うか、それともそうしないかというね。

    L:あなたの作品が外的な性質を帯びているとは感じられないのですか?全ての作品は公衆に読まれます。公衆とは宣伝を意味します……

    C:ええ、でもそれを引き受けるのは編集者だけで、私ではない。私はそこに混ざりたいとは思わない。私が自分の商品を持って街に売りに行くことなんてこれっぽっちもありえませんよ! その上私は少しばかり運命論者でしてね。どの作家もその運命を持っています。賞を拒否すること、それはフランスの文学的風習に対する抵抗の一つの形態でもあるんですよ。


    ***


    L:フランスでは、あなたがラシナリというトランシルヴァニアの村に生まれたことは知られていますが、しかし大部分の人々は、この場所があなたにとっていかに重要であるかということを無視しています。あなたは何度もラシナリから出ることを楽園からの追放になぞられましたね。

    C:私の幼年時代はまったくの楽園そのものだった。

    L:いくつかの場所が、ルーマニアにいるあなたの弟さんや友人たちへの手紙の中で回帰するように現れます。隣の家の果樹園、お父上が勤める教会、コアスタ・ボアーチ――村に張り出た丘、永遠に遊び回っていた、半ば伝説的な土地です。コンスタンティン・ノイカに当てたあなたの手紙の中に、有名なフレーズがありますね――「コアスタ・ボアーチを去って何かいいことがあっただろうか?」

    C:風景は重要な問題です。山で生きた時、その他のものは言いようがない陳腐なものに思える。そこでは何か原始的なポエジーが行き渡っています。コアスタ・ボアーチが私にとって本質的な役割を担ったということ、これは認めなければなりません。私はそこに行って、村を支配していました……

    L:あなたの他の幼年時代過ごした場所も特別な意味を帯びているのですか?

    C:ええ、特に墓地がそうです。墓堀人に友人がいましてね。彼はとてもいい人間で、彼は私のもっとも楽しみにしていることが、髑髏を手に入れることだと知っていました。彼が誰かを埋めていると、私はすぐに駆けつけて、彼が私に一つくれるかどうか見守っていました。

    L:どうして髑髏に惹きつけられたのですか?

    C:私の楽しみ、それは…それでサッカーをすることでした。私は髑髏に目がなかった。私は墓堀人が髑髏を掘り出すのを見るのがとても好きでした。

    L:それは病的な嗜好なのでしょうか、あるいは無邪気な遊びなのでしょうか。

    C:その両方だと思います。結局のところ、私はサッカーをするのが好きだった。髑髏が空にくるくると回っているのを私の目が追っているときのことを憶えています。私はそれをつかまえようと突進しました……。それは何より素朴なスポーツだった。私は髑髏でサッカーをするのが許されないことを知っていたし、それが普通ではないことを十分に意識していた。それに、私は誰にもこのことを話しませんでした。それは病的な感情に属するものではなかった。しかし、死の世界との一種の親近感のようなものがありました。墓地はとても近かったし、埋葬にも慣れていましたから……。

    L:しかし今あなたが語られた親近感は、死の問題から切り離されなければならないのではないでしょうか。そのような親近感は、死から距離をとるものであっても、思考の中心的なテーマになることはなかった。そのような経験は、死という現象に対して明朗な視線を与えるか、あるいは無視させるようになるのではないかと思います。ところが、反対に、死はあなたにとってオブセッションとなりましたね。

    C:私の死についてのオブセッションを、7歳か8歳頃のこの経験に遡らせることができるとは思いません。死が私の人生の中で役割を果たすようになるのはもっと後のことです。実際死は、16か17歳の時に私にまとわりつくようになりました。それが絶頂に達するのは『絶望のきわみで』を書いた頃です。したがってこの現象は後々のものだけれども、でも墓地での交際が私に影響を与えたというのはありうることです。私が多少とも居合わせた埋葬、涙、嘆きに私は無関心ではいられなかった。しかし、正確にいつと言うことはできませんが、この感覚は、はっきりとした問題へと変わったのです。


    ***


    L:では楽園から去り、いかにしてあなたが追放された後の生への一歩を踏み出されたのかに移りましょう。

    C:私の人生のなかでもっとも悲しい日は、父が私をシビウの寄宿先に送った日です。その日を忘れることは決してありません。私の人生のなかで全てが壊れてしまい、死を宣告されているのだという感じを持った日です。忘れることはありませんよ!

    L:哲学の読書を14歳から15歳のときに始められましたね。あなたの読書ノートを見せていただきました。リヒテンベルク、ショーペンハウアー、ニーチェ……

    C:その後にキルケゴール。私がある日キルケゴールを読んでいた日のことを思い出します。庭師が現れて――人々は彼は狂人だと言っていました――私に訊くんです。「どうしてずっと本を読んでいるの?」。「楽しいからさ。本には……」「そこにはなにも答えは見つからないよ。ないね、ないね、本からは。本のなかには見つけられないよ」そして私は彼を見つめて言いました。「あなたは考える人、認識する人、理解した人ですね」。

    L:なるほど。しかしあなたがそのことを初めから理解していたならば、どうしてあなたは今世紀でもっともすさまじい読書家の一人になったのでしょう?

    C:私は膨大に読みました、それは本当です。私は一生の間膨大に、一種の脱走のように読んできました。私は哲学のなかに、他者のヴィジョンのなかに入りたかった。それは本への一種の逃走、自分自身から逃れることです。

    L:でもどうしてあなたは自分自身を忘れる他の方法を探さなかったのですか?例えばアルコールとか……

    C:いやいや、私は酔っぱらってばかりいましたよ!

    L:酔っぱらう? あなたが? いつのことです?

    C:若い頃、とても頻繁にです。私は酔っぱらいになることばかり考えていました。非意識の状態と、酔っぱらいの馬鹿げた誇りが気に入っていたのです。休暇のとき帰るラシナリでは、私は古典的な酔っぱらいを盛大に賞賛していました。彼らは毎日酔っていた。とくにそのうちの一人は、一日中バイオリンを持ちながらぶらぶらし、口笛を吹き、歌っていました。彼は村中で唯一面白い人間だ、唯一理解している人間だと私は考えたものです。みんな何か仕事に従事するというのに、彼だけは遊んでいました。彼はアメリカの叔父を持っていて、2年の間にすべてを使い果たし、無一文になりました。彼がそのあとすぐに死んだのは幸運だったと言えるでしょうね。

    L:あなたがそのような人々、堕落し失敗した人々を賞賛すると、それはただの若者の奇矯愛好(teribilism)、上品ぶった人々をあきれさせるだけのものだ、と非難されますね。

    C:まあそうです。それは見つけるのがもっとも容易な説明ですね。本当のところを言うと、奇妙なことでしょうけども、私のなかの何かと照応しているもの、それはあまりにも普通で平凡な両親を持ったことでずっと感じていた不幸です。言うなればね。私の不眠の時期を思い出します。母とともに家に独りでいたある日のこと、危機のあまり、私はベットに身を投げてこう言いました。「もうだめだ! もうだめだ!」。すると司祭の妻であった母が私に返しました。「もし知っていたならば、堕胎していたのに」。このことは突然私に巨大な喜びをもたらしました。私は自分に言ったものです。なら俺はただの偶然の産物なのだ、これ以上何が必要だというのか?



    *1 委員会のなかには、アンドレ・ジード、フランソワ・モーリヤック、ジャン・ポーランなどがいた。

    第三章 ルーマニアの心理的・歴史的空虚 その1(56-60頁)

     もし、ルーマニア人の精神的潜在力が、過去に現れた規模を越えないということ、そして、ルーマニア精神の隠された相貌に、光が当たらないということが明らかになるとすれば、明日のルーマニアの基礎を築こうとする試みは、いかなるものでも無益であることだろう。国というものは外から生まれ育つのではなく、内的な条件から発育する。この内的条件は、たしかに形式的な枠組みに従うとはいえ、固有の心理的制約が個性を刻印している。ある国の生成の意味(目的)は、それぞれの民族の心理のうちに根拠を持っているのである! そしてもし民族の運命の社会的形態と客観的具体化が、心理的に説明されえないとしても、運命の空虚、不完全、否定的側面を理解することはできるだろう。

     ルーマニア人の精神構造のなかに本質的な欠陥が存在する。その欠陥は根源的空虚であり、われわれの過去の失敗の連続はこの空虚に由来する。民族は長いプロセスを経て自分自身を発見するがゆえに、ルーマニアの発端において「陶冶された精神」は存在せず、存在するのは素質や潜在力のみであり、その全体において運命と革命の意味が示されるのである。ルーマニア民族の心理的潜在性のなかに、本質的欠陥を形作るような、不適合性、不一致性が原初から存在するに違いない。あれほど多くの民族に、種子の状態で自発性が、その始まりにおいて活発な輝きが、衝動的爆発が存在したのに対して、生のルーマニア的形態は根源的ダイナミズムの欠如を示している。

     ルーマニアの原罪が存在する。その性質は定義不可能だが、過去の全ての空虚のなかに確認することができる。この原初的欠陥の克服こそが、世界へのわれわれの登場の条件であるゆえに、緊急の必要に思えるのは歴史的飛躍である。ルーマニアの根源的精神におけるポジティヴで創造的なものが、どのような障害に出会うとしても、われわれを前進させてくれる。今まで現実化したものすべてはダイナミックな衝動のゆえであるが、しかし残念ながら、その衝動は、われわれの前提条件のなかに書き込まれた否定性に対してはほとんど無力であり、そしてこの否定性が、われわれを千年間歴史的に眠るままにしておいたのである。

     ルーマニア民族の現在の欠陥は、その「歴史」の産物ではない。そうではなく、その歴史が心理的構造の欠陥の産物なのである。歴史的条件の特殊さと重大さは、原初的素質を強めただけであり、われわれの非-歴史性を明らかにしただけである。われわれの通り過ぎた「過酷」な時代は、われわれが十分に強くなかったがゆえに、それに打ち克つことができなかったゆえに、そのように「過酷」であったのである。もしわれわれのなかに、個性を持たせるような、必ず自己を顕示する傾向があったならば、われわれはかつての過酷な時代に打ち克っていただろう、大きな民族が行ってきたように。大きいというのは、運命としてであって、数の問題ではない。たしかに民族が重要なものになるのは数によってである。だがより重要なものになるのは、その攻撃的な力による。人口の問題は、その減少が民族の生物学的欠陥のせいである場合には、悲劇的になる。それゆえ、人口は少ないが成長しつつある若い民族は、人口は多いがしかし衰退している民族よりも、創造的で恐るべきものである。戦闘的・軍事的本能は、数量的現実よりも、はっきりと民族を歴史的に形成させる。プロイセンは、もしドイツの他のすべてから引き離されたとしても、つねに独立した国家をなすことができ、その少ない人口にもかかわらず、ドイツと同じくらい恐るべき国である。プロイセンのみでドイツの残りすべてに匹敵する。このことにより、なぜヒトラー主義を通して、プロイセンがその様式を全ドイツに押しつけることができたのかがわかる。どの政治的形態においても、ドイツはつねにプロイセン化されるだろう。

     人類が平伏する唯一の祭壇は力である。われわれルーマニア人もこの祭壇に向かって平伏してきた。しかしただ、われわれ自身を侮辱するために、そして他者の力を賞賛するために、そうしてきたのだった。

     ルーマニア人はつねに生ぬるすぎた。極端と決定的解決を嫌うことで、ルーマニア人は物事の流れに対して、個性を持つ民族に特徴的な反応を示すのではなく、出来事に振り回され続け、その結果、すべてはルーマニア人を通り越して成し遂げられた。われわれの均衡は調和ではなく、欠陥を表している。その均衡の範囲は潜在的な内面の葛藤すら及んでおらず、均衡に達しているのは、非現実的な精神の苦い静けさだけである。結局のところ、均衡は、大きな文化の古典的な時代、つまり様式の完全さと内的完成の中で大きな文化が生まれる時代においてでしか、意味を持たないのだ。文化の小さな形態においては、均衡は無意味で、いかがわしいものである。民族が世界へと道を切り開いていくのは均衡によってではない。歴史は永遠の、苦悶の探求――それは悲劇に似ていて、決して手探りといったようなものではない――によって作られる。民族はエネルギーだけでなく、その本質や存在も危険にさらすべきである。民族が自己を実現せずにその存在に対して罪を犯すことは、人間の未完成と同様、段階的な自殺にほかならない。

     ルーマニア人はルーマニアの上方に現れる太陽のことを考えるべきであったし、具体的な行為によって光に返答すべきであった。激動の歴史は至高の存在に対する民族の感謝である。世界は神の存在を正当化するものではない。しかし歴史は人間の存在を正当化する。

     ルーマニアにおける民族的特徴とは何か、何がルーマニアを千年間静止にとどめたのかを探求しようではないか。われわれの民族的特性に結びついた馬鹿げたプライドと一緒に、その特徴を一掃することを可能にするために。

     ……ルーマニアの農民を眺めるたびに、私は彼らの皺のなかに、われわれの過去の痛ましい空虚の証拠を見出して喜んだものだ。ヨーロッパにおいて、これほど悲しげで、土の色をした、打ち負かされた農民を私は知らない。私は想像する、この農民は、生への激しい渇きを持っていないために、顔の上に屈辱のすべてが刻みこまれ、皺のくぼみのなかに敗北のすべてが注ぎこまれているのだと。どれほど生の力があったとしても、生物的若々しさの印象はまったくないだろう。地下的存在というのが彼らの本性であり、その曲がった腰でゆっくりと歩く姿は、われわれの運命の影の象徴である。われわれは谷と山と低地からでてきた民族である。われわれは空を陰から眺め、暗闇のなかでまっすぐ立ったままでいた。われわれは千年間涼をとってきた。それゆえ熱だけがわれわれを救うことができる……。

     いつルーマニアの農民は頭を上にあげるだろうか? われわれは生まれたときから下を向いてきたのだ。ルーマニアの特性についての批判は、理論的根拠だけでなく、実践的根拠をも持つ。この国の内的存在についての有効な資料が比較的少ないので、その内的存在を明らかにする外的要素のすべてを利用しなければならない。フランスの、ドイツの、そしてロシアの農民の特徴においては、その国の歴史に対応した特徴を表現している。だがフランス・ドイツ・ロシアは、世界を盲目にいたるまで目をくらませ、その上われわれのような民族ではなかったために、これらの国について語るとき、われわれはたやすくその農民のことを忘れることができるのである。

     どの民族も、決して単なる民族的文化の実現ではなく、「歴史的」文化の実現を目指すべきである。民族的要素は同化されるか、無視されるかである。目的を考えることは、文化の上昇する歩みの失敗を意味する。

     民族的文化しか創造しなかった民族は、歴史の段階に達することはなかった。もしどの民族的文化もエスニックなものを価値であるとみなしたならば、どうやってその段階に達するというのだろう。民族的文化は、その精神の深い根から生まれ、かつその根と密接に結ばれている創造物の総体である。それに対して、精神の反省的努力は、歴史的文化に、世界へと自力で飛び立つ価値を与える。民族的文化は、神話という歴史の前兆のなかで呼吸している。それは生成を実体的に考え、したがって永遠性に重要な位置を与え、歴史を考慮に入れない。民族的文化は進歩を知らない、知っているのは変化だけである。しかも本当のところ、この変化は偽りのものなのだ。民族的文化は、根源的なもの――それはある民族の黎明期の地上的要素の総体である――以外の価値を持たないということによって、民族的文化は原始的であり、反動的である。つまり自己自身にとどまっている。歴史的飛躍の目的は、自身を自らの呪いから解放するということである。誰かがルーマニアをルーマニアそれ自身から引っぱり出すのだろうか? いつルーマニアは自己自身から脱出するのだろうか?

     この地上における幸福な民族は、一種の噴出であり、したがってそれらの運命は無意識的に垂直のイメージを生み出す。ゴシックは、上昇の、目がくらむような飛躍の、超越的生成の方向へと向けられた様式である。文化の個性は精神のゴシック的要素に従って決定される。その優勢が個性の強さを特徴づけている。文化の飛躍は、ゴシック的パトスが内的に存在していることを表している。というのも、ゴシックは精神の垂直的方向だからである。悲劇的なもの、崇高なもの、そして違う世界への情熱としての現世の放棄はゴシック的なものに由来する。ゴシック的なものが欠けていると、人は静かに、そして微温的に、時間の獲物として食べられながら生成に同化する。水平的横滑りとしての運命は、ゴシック的なものの否定であり、ゴシックから生まれた生の複雑さの否定である。ルーマニア民族は、ゴシック的精神の下で生きたことはなかった。ではその精神とはなんなのか? それは受動性、懐疑主義、自己軽蔑、浅薄な観照、卑小な宗教性、非-歴史性、知恵であって、これらはわれわれの国の特徴の否定的な側面を構成していたが、残念ながら、側面どころか主要な面なのである。このようにわれわれは千年間生きてきたのであり、この後の何千年間ももはやこのように生きるべきではないのだ。
    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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