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    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その4

    リーチェアヌとの対談の続きです。

    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2

    その3


    ***


    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):シオランさん、あなたはどうして亡命国にフランスを選ぶことになったのでしょう。あなたが最初に学んだ外国語はドイツ語であって、フランス語ではありませんでした。なぜドイツを選ばなかったのですか。それにあなたが青年時代を過ごしたシビウはザクセン人の街でした。あなたがフランス語に対してコンプレックスを持っていたことは存じ上げています。大学に入学し、ブカレストに来てすぐ、ブカレストのあなたの仲間と友人はとても流暢にフランス語を話していました。この「トランシルヴァニア・コンプレックス」に、あなたは大学時代ずっとつきまとわれていましたね。結局、あなたが最初に長期滞在することになった外国はドイツでした。1933年から35年の間、フンボルト財団の奨学生として。あらためてお訊きしますが、どうしてドイツではなく、フランスだったのですか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):そうですね、たしかに私はドイツ語をシビウに来てすぐに学びました。ドイツ人の婦人二人の家に下宿していましてね。シビウは私にとってあらゆる面で重要な街です。私はずっとある感じが……なんと言えばいいのか、自分の国にいるのに、外国にいるような感じがしていたのです。考えてもみてください。私はラシナリという、原始的な村、閉ざされた太古の世界からやって来たのですよ。そして突然外国に来てしまったという感じをもったわけです。私が体験したこのコントラストは途方もないものでした……。外国にいたいという思いが強くなったのは、おそらくシビウのおかげだと思います。ずっと私は奨学金を得て外国に行きたいと思っていました。哲学の本を読み始めたのはシビウにいたころですね。私はドイツ人図書館に通っていましたが、その司書がすばらしい人でね。ドイツ人の哲学者で、何十冊かの本を書いているんです。彼は第一次大戦前はオーストリア軍の将校で、そしてシビウにとどまっていたのです。名前はライスナーといって、われわれはとてもよい友人になりました*1。私はドイツ人図書館に通っている唯一のルーマニア人でしたね。私はシビウで二つの文明の間を生きたのです。それだから、私がフンボルト奨学金をもらってベルリンに着いたとき、まったく新しい世界に来たという感じはしなかった。

    L:なぜあなたはそのときドイツで「永遠の学生」にならなかったのですか。どうしてフランスに?

    C:なぜだか申し上げましょう。こんなことが起きたんですよ。ドイツに留学していたとき、一ヶ月間パリに滞在しましてね。それは私にとって啓示でした。パリを見たときから、私にとってベルリンはゼロになり、もはやなんの興味も湧かなくなったのです。ルーマニアに帰ったあとも、パリはオブセッションとなりました。私は自分に言い聞かせたものです、パリに必ず行かねばならないとね。それには奨学金を得る必要がありました。私はブカレストのフランス学院の院長に働きかけはじめて、ついには彼と友人になったのです。

    L:デュプロン氏*2ですね。

    C:デュプロン……彼はまだ存命していますね。それで彼が私をフランスに送ってくれました。実際、彼は私を残りの人生ずっとフランスに送ってくれたことになったのですね。彼はとてもいい人間でした。彼が私に三年間の奨学金をくれたのです。博士論文を書くつもりだと計画書のなかで私が書いたことが嘘だとわかったときでさえ、彼は私に奨学金を継続してくれました。私はフランスを完璧に知っている唯一の奨学生で――私は自転車でフランス中を回ったのです――、これは論文よりも価値があると言ってね。事実私は自転車でフランスを踏破しました。ホテルに泊まる金がなかったから、ユースホステルに泊まりました。カトリック系と共産党系のユースホステルがありました。そこには学生と労働者が泊まっていましたね。そうやって私はフランスの世論を、とくにカトリック信者と共産党支持者の考えをよく知ることができました。私はすぐにフランス人に戦意がないことに気づき、今までにないような、即座の降伏が起こるだろうなと思いました。私は左翼と右翼の反応を知る特権を持っていたわけです。だれも戦う気がなかった。でも私は無理のないことだと思いましたよ。フランスは第一次世界大戦で荒廃し、先頭を切って戦争に行こうとする者はだれもいなかった。イギリス人だけがこのことを知らなかったのですね。イギリスはなにがしとかいう貴族を何回もパリに送って、フランス人の精神状態を調べさせました。彼はたくさんの政治家と最高級のレストランで会って、最後に母国に帰ってこう報告したのです。「フランスはいつでも戦争の準備ができている」。正確な引用ではないかもしれませんが、まあこの類のことです。その話を聞いたとき、私は政治家や外交官というのはなんと無能なものかと思いました。レストランやサロンに行ってある国の状態を知ることができるわけがない。私がフランス中を隅から隅まで通り回って下した診断は正しいことが明らかになりました。フランスは開戦の三日目にはもう降伏する気になっていた。

    L:ドイツ軍がパリに入ってくるところを目撃されましたか。

    C:ええ、最初の日、サン・ミシェル大通りでね。抵抗がなかったものだから、ドイツ軍はここに散歩しにきたかのように入って行きました。彼らはセーヌの方から南に進んできました。サン・ミシェル大通りには人だかりがありましたが、大勢ではなかった。一人の老婦人が歩道の縁に立っていましてね、彼女がどんな反応をするのか見たかったので、私は近づいて彼女が立ち去るまでそこにいました。彼女は私のほうを見てこう一言言ったきりでした。「ねえあなた、ありえないことですよ!(C'est du joli)」。C'est du joliというのはとても陳腐な言葉で、何か普通でないものに対する驚きを表すものです。彼女はフランスの失墜という劇的な瞬間にまったく平凡な言葉を使ったのです。これが私にはひどく印象的でした。彼女はその後こう付け加えました。「これがフランスの終わりです」(C'est la fin de la France)。しかしこのC'est du joliは「ありえない!」とか、そのような類の、少し下品な当惑の表現ですが、あのような場面で口に出されるのは想像しがたいものです。この言葉をどうルーマニア語に翻訳すればいいのかわかりません。

    L:やらかしてしまった(am încurcat-o)、でしょうか。

    C:わかりません。ともあれ、先ほど言ったようにドイツ人たちは一方の方角からやってきましたが、なぜだかわかりませんが、正反対の方向からフランス人捕虜の集団がやってきました。私はそのうちの最初のグループ――二十五人くらいのフランス兵と一人の乗馬したドイツ人――を見ましたが、これは私に強烈な印象を残しました。私は私のすぐ後ろにあったタバコ屋に駆け込んで、タバコを二十箱買い、あまり近づかないようにして、兵士たちに買ったタバコを投げてやりました。兵士たちがみんなタバコを取ろうと屈み込んだそのとき、ドイツ人が私のほうに銃口を向けました。私を救ったのは私のドイツ語です。「私は外国人だ!」(Ich bin Ausländer!)とかそのようなことを叫び、その後ドイツ語で「人道的理由!」(raison d'humanité!)と叫びました。これが私を救いました。逃げ出したりドイツ語が喋れなかったりしたら、私は銃殺されていたでしょうね。パリに住みついたルーマニア人の私が、パリで最初の犠牲者になったかもしれないなんて、これはまったく馬鹿げた逆説です!

    L:戦争の時期はパリでなにをなさっていたのですか。まだフランス語で書くのを始めてはいらっしゃらなかったと思いますが。

    C:ええ、ルーマニア語で書いていました。それどころかルーマニア語を深めてさえいましたよ。というのは、私はルーマニア語の本を持っていなかったので、ルーマニア正教の教会に行って、そこにある本、特に古い本しか読んでいなかったからです。私はルーマニア語の専門家になりましたよ。戦争の終わりごろに、自分がいかに馬鹿げたことをしていたのかに気付き、決定的にルーマニア語と縁を切る決心をしました。私は海に、ディエップにいて、そのとき……

    L:マラルメをルーマニア語に訳そうとなされていた。

    C:その通りです。そして私は唐突にこの仕事にはなんの意味もないこと、もはやルーマニアに戻ることはないこと、ルーマニア語は私にとってなんの役にも立たないことに気付きました。たったの一時間の間にすべてが終わりました。それは激烈な反動でした。私は突然すべてと断絶したのです。私は言語と断絶し、過去と断絶し、すべてと断絶しました。

    L:あなたはすぐにフランス語で書き始めたのですか。

    C:はい。それから私は『崩壊概論』を書き始めましたが、すぐにこれは非常に難しい経験だということがわかりました。二十歳でなら言語を変えることはできるでしょう、しかし三十五歳や三十六歳となると……。それは私にとって恐ろしい経験でした。私はフランス語が完璧にできると思っていましたが、実際はまったくそうでないことに気付いたのです。それでも私は止めたくなかった。私はもはやルーマニアに帰ることはないとわかっていました。もし本当に言語を変えたいのなら、母語と縁を切らなければならないと悟りました。これこそ本質的なことです。他の方法ではうまくいきません。ルーマニア語を喋り続けながらフランス語で書くことはできません。両立不可能なのです。異なる言語への移行は、自らの言語の放棄によって以外では成功しません。この犠牲を受け入れなければならないのです。

    L:どのようにして、最初の本を三回も書き直していながら、意気喪失しないでいられたのですか。

    C:さっき申し上げましたが、私に退路はなかったのです。いずれにせよ、三度本を書き直して、フランス語はまさしくルーマニア語の正反対の存在であることがわかりました。ルーマニア語にはフランス語が持っているような厳格さがなく、融通が利く文法を持ち、自由な言語であって、より私の気質に近い言語です。フランス語で書き、また書き直しながら、絶望的な気持ちになって私は自分に言ったものです。「これは私のための言語ではない」とね。

    L:ルーマニア語で書いているとき、あなたは爆発せんばかりで、抑圧などまるでありませんでしたね。

    C:ええ、それが問題なのです。抑圧がないという点で、ルーマニア語は私の気質に合っていました。しかし同時に、フランス語は人に限界を課し、人を文明化させます。フランス語で狂人になるのは不可能ですよ。つまり、過剰というのはフランス語では不可能なのです。それは単にグロテスクになるだけです。

    L:あなたはフランス語は自分にとって拘束具だと何度も繰り返しておられますね。

    C:それがまさしく私に起こったことですよ。フランス語は狂人をなだめるのです。この言葉は私にとって強制された規律でしたが、最終的には私に対してポジティブな効果をもたらしました。私を限定することによって、フランス語は私を救い、いたるところで誇張するのを私に禁じたのです。この言語的規律を受け入れたことが、私の熱狂を和らげました。フランス語が私のための言語ではなかったのは本当です。でも繰り返しますが、心理的には私の助けになりました。結局のところ、フランス語は私にとって治療的役割を果たす言語になりました。実際、私は自分が適切にフランス語で書けるようになったのを見てひどく驚いたものです。あれほどの厳格さを受け入れることができるとは思っていませんでしたから。フランス語は誠実な言語であると誰かが言っていましたが、フランス語では不正を犯すことが不可能なのです。ここでは知的詐欺というのは簡単ではないのですよ。


    ***


    L:教えていただきたいのですが、あなたはいつ「フランス語の作家」というご自身の立場に慣れるようになったのでしょうか。あなたはこの立場の確立をどのように感じられましたか。サン=ジョン・ペルスをして、「第一級の作家」、「ヴァレリーの死以後、フランス語が誇るもっとも偉大な作家の一人」と言わしめたとき、どのような感じを受けましたか。コアスタ・ボアーチ*3からこの言葉まで、あなたが駆け抜けた軌跡は、あなたを呆然とさせなかったのでしょうか。

    C:何と言えばいいのでしょう?コアスタ・ボアーチからそういったことまで……。まったくのところ、ひどい努力でしたよ。自分の気質に逆らいながら書く、これは容易なことではまったくありません。奇妙なことに、私はドイツ語がよくできたけれども、ドイツ語で書こうという気になったことは一度もなかった。フランス語によって私は自分自身を支配することができるようになりましたが、それは私にとって重大なことでした。いつも私は思うのです。こうやって自分の気質の外に出ることによって、私は一種の裏切りをしでかしたのだと。ある意味で私は私であることを止めた。本当の私であることをやめたのです。

    L:しかし、あなたは思いがけない成功を収められましたよね。この成功に目眩を感じられたことはなかったのですか。

    C:まったく。私はずっと不幸のうちにありながら本を書いて来ました。その代償はとても大きいものでした。私の書いたどの本もひとつの試煉、ひとつの苦難です。たしかに私のデビューは悪いものではなかった。三冊か四冊の本を書いた後、わずかな読者を持つことができましたが、実際のところ私は見向きもされず、孤立していました。私は作家としては長い間孤立した読まれない作家だったと言わねばなりませんね。ポケット・ブックになってようやく、私は若者や学生から発見されたというわけです。まだあります。いまやフランス人はとてもぞんざいに物を書くので、彼らはもはや自分たちの言葉を信じていないのです。しかし外国人の私は、フランス語にきわめて真剣に取り組みました。私が書いたすべての本は少なくとも二回は書き直されています。なんとも奇妙なパラドックスです。バルカン人の私がここに来て文体の訓練をしているのですから……。

    L:ルーマニア語が恋しくなったことはありませんか。

    C:ありませんね。でもルーマニア語のよいところを忘れたことは一度もありません。英語と同じように、ルーマニア語は詩的な言語、つまり詩が力を持っている言語です。その理由はどちらの言語も二重の起源を持っているというところにあります。英語はラテンとゲルマン、ルーマニア語はラテンとスラヴという、両立不可能な二つの言語によって成り立っています。この二重の起源は詩にとって理想的なもので、まさしくこの理由によって英語とルーマニア語は詩に適しているのです。途方もない豊かさを持っているだけでなく、この二つの言語には神秘的な側面がありますが、それはひとつの出会い、それぞれ異なった方向からやって来た言葉と言葉の劇的な出会いに由来しています。反対にフランス語は同質的な言語であって、このことがフランス語の詩を限定的なものにしているのです。フランス語では聖書は読めません。私は言語の詩的価値を評価する際には三つの基準を持っていましてね。聖書――特に旧約聖書――、ホメロス、シェイクスピアが読むにたえうるか、というものです。ホメロスもシェイクスピアもフランス語ではうまくいきません。それはフランス語が乾いた言語、法律の言語であるからです。それだからフランス語の詩人になるというのはまさしく英雄的な行為なのですよ。実を言いますと、フランス語で書き始める前、私は英語を専門にしていましたが、結局放棄してしまいました。もちろんね。

    L:英語を「専門にしていた」とはどういう意味でしょうか。英語の講座に通われていたのですか。

    C:そうです、そうです。まずここ、パリで会話の練習をしました。先生は1905年にブカレストで家政婦をしていたという、とても年配で、ちょっと頭のおかしいご婦人でした。次に体系的に勉強しようとソルボンヌの講座に通いました。そのあと、奇妙なことに戦争の間じゅうずっと開いていた英語の図書館の常連になりました。そこに私は週一回自転車で行って、五冊か六冊の本を抱えて部屋に帰ってきたといわけです。私は文学に専念しましたが、特に詩が私を魅惑しました。

    L:間違いでなければ、あなたは特にシェリーとキーツを読んでいたということですね。

    C:いえいえ、私は全部、もう全部読みましたよ。一種の熱狂でしたね。英詩は私にとって啓示でした。英詩はヨーロッパ詩のなかでももっとも偉大だと思っています。いずれにしても、私は膨大な量の英詩を真剣に読んでいました。これは私の人生のなかで、明確な計画を立てて進めていった数少ない例のうちのひとつです。当時の私の関心はすべてアングロ・サクソン世界のほうに向かっていました。

    L:そのおかげであなたはシモーヌ・ブエ*4さんとの出会いという特権を手にすることができたのでしょうか。

    C:ええ、彼女は英語専攻の学生でした。初めて会ったのは学生食堂でしたね。その後私は彼女と英会話の練習をよくしていました。私の英語への情熱は五年ほど続きましたね。途方もない経験でしたよ。

    L:しかしこの言語的冒険の後、あなたはフランス語を、すなわちあなたの言葉によれば、自分にもっとも合っていない言語を選びます。『実存の誘惑』のなかで、あなたはフランス語についてあまり好意的でないことを書いていらっしゃいますね。

    C:ちょっとしたことを申し上げますと、私はずっとスペインとスペイン語が好きでした。スペインに行きたいという気持ちを隠したことはありません。内戦が始まる前、スペインでの奨学金を申請したこともありました。

    L:なんですって!スペインにもですか。

    C:ええ、ええ。そう驚くようなことでもないでしょう。当時私はアビラの聖テレサの崇拝者でした。この点では今も変わっていません。それはほとんど病的な情熱でした。私は彼女を作家としても愛好していましたが、なにより彼女の「過剰」が私を魅惑したのです。まがうことなき、スペイン特有の狂気から来る過剰です。スペイン内戦が勃発する二ヶ月前、大使館で奨学金の申請を行いました。もちろん返答は何も帰って来ませんでしたよ。実を言うと私はパリではなくスペインに行きたかった……私はほんとうに魅了されていました。私はウナムーノのすべての著作を読みました……そして大戦の後私が覚えた唯一の満足は、フランコが死去した後すぐにスペインを見られたことです。この旅行は私の人生のなかでもっとも印象的でもっとも美しい旅でした。スペインが観光地化する前だったのですよ。三週間の旅程でしたが、私はずっと三等で過ごして、一番安いところに泊まったけれども、本当に魅力的でした。そして私の人生のなかで唯一の、あまりにも素晴らしい旅行だったので、私はスペインにもう来まいと決心しました。実際は七回も行っていますけれどね。これは失敗でしたよ。こんなに行くべきではなかった。ものごとは心のなかにあるときのほうが真実の姿をしているものです。再訪することによって、現実は単調になっていきました。最初の出会いの素晴らしい印象に比べるとね。

    L:それだから、あなたはラシナリに戻らないのですか。

    C:わかりません。私は引き裂かれ、迷っています。なんと言えばいいのか……おそらく私は、再会することによって失ってしまうのが怖いのでしょう。ルーマニアにいる間、たえず私は自分がスペイン人ではないということを悔やんでいました。スペインが挫折のもっとも非凡な例であるということ、このことが私を魅了したのです。世界でもっとも偉大な国が、あのような衰退に至ったのですよ!

    L:あなたが失敗と敗者に惹きつけられるのはなぜでしょうか。どうしてあなたは挫折に讃辞を送られるのですか。

    C:それは私の悪徳と言っていいでしょうね。けれども私は本当に考えているんですよ。ものごとの姿は、自らの終わりと対峙するという危険、つまり没落によって、はじめて自らにも他人の目にも明らかになるとね。挫折において、破滅の壮絶さにおいて、ようやく人は誰かを知ることになるのです。ものごとはその拡大と栄光のときには明らかになりません……

    L:……そうではなく、その黄昏において、夕暮れにおいて。

    C:……黄昏、つまりすべてが壊れていくときに、すべてが徐々に消滅していくときに。文明が興味深いものになるのは、文明が自らのデカダンスを意識しはじめたとき、自らの消滅を体験するようになったときです。

    L:そのような考えの下で、おそらくあなたはルーマニア語で書いた最後の本、『敗者の祈祷書』を戦争中にお書きになったのですね。占領されたパリは、黄昏の街、没落の象徴になった。

    C:そう、そうです。もはや存在することを止めはじめたときにしか、その文明がなんであったのかを知ることはできないというのは真実です。




    *1 エルウィン・ライスナー(Erwin Reisner, 1890-1966)はオーストリアの哲学者、神学者。著書『堕罪と審判への道としての歴史。キリスト教的歴史哲学の基礎付け』(Die Geschichte als Sündenfall und Weg zum Gericht. Grundlegung einer christlichen Metaphysik der Geschichte)の書評を若きシオランが1931年に書いている(『孤独と運命』所収、未訳)。

    *2 アルフォンス・デュプロン(Alphonse Dupront, 1905-1990)はフランスの歴史家。ちなみにこの対談はちょうど1990年の6月に行われた。

    *3 コアスタ・ボアーチ(Coasta Boaci)はシオランの生まれたラシナリにある丘。対談その1参照。

    *4 シモーヌ・ブエ(Simone Boué, 1919-1997)はシオランの長年の伴侶。結婚はしていない。
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    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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