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    シモーヌ・ブエのインタビュー その1

    シオランの生涯の伴侶であるシモーヌ・ブエとノルベール・ドディル(Norbert Dodille)の対談の翻訳です。以前のリーチェアヌの対談よりも詳細に自分とシオランのことについて語ってくれています。少し長いので二分割で翻訳することにしました。

    シモーヌ・ブエについては、以前のリーチェアヌとの対談もご覧ください。 こちら

    底本は以下の通りです。

    Lectures de Cioran, Norbert Dodille et Gabriel Liiceanu(ed.), L'Harmattan,1997, p. 11-41.

    文中で補足した箇所は[]で、人名や著作名などの補足は脚注で記してあります。



    ***


    ノルベール・ドディル(Norbert Dodille):シモーヌ・ブエさん、シオランと出会う前のあなたはどんな人だったのでしょうか。

    シモーヌ・ブエ(Simone Boue):ですが、私が興味があるのはシオランであって、私自身ではありません。

    D:それでも、ご自身についていくらかお話しいただけませんか。あなたはヴァンデで生まれたのでしたね。

    B:ええ。

    D:英語の勉強をなされたと。

    B:ええ。

    D:ヴァンデで?

    B:いいえ、ヴァンデで英語の勉強なんかできませんよ。ヴァンデはポワティエ大学に頼りきりで、そこで私は勉強を始めたのです。

    D:その後はどうされたのですか。

    B:その後は、奨学金を貰ってパリに来て、アグレガシオン(教授資格試験)の準備を始めたのです。1940年のことです。当時はすべてが混沌としていました。大言語学者のユションが、ドイツ軍のパリ占領のときに自殺していました。アグレガシオンを受けるには、その前に言語学の口答試験に合格しなければならなかったのですが、私は言語学については何も知りませんでした。もしユションが存命だったら、私は絶対に受からなかったでしょうね。彼のかわりに着いた人は、私より言語学を知らなかったんです。それで私は合格することができて、アグレガシオンの準備を始めたというわけです。でも、それほど真面目ではありませんでしたね、あまり授業には行きませんでしたから。
     私がシオランと知り合ったのは、アグレガシオンの授業ではなくて、サン=ミシェル大通りにある、フォワイエ・アンテルナシオナルという学生寮です。その館長はアメリカ人女性で、ミス・ワトソンといいました。パリに来た直後は、あまり寮に入る気はありませんでしたが、それでも寮の情報を得ようと建物に入ったとき、アメリカ人のアクセントで、「アデイェール!」(Adeyèle)といって家政婦を呼ぶ声が聞こえたのです(その家政婦の名前はアデール(Adèle)といいました)。完全なドイツの占領下でアメリカ人の発音が聞けるなんて、と思い、私はすぐにここに入ることに決めました。
     そこには学生なら誰でも利用できる食堂がありました。そこで私はシオランと知り合ったのです。本当によく憶えていてますが、それは1942年11月18日のことでした。私は以前から彼が気になっていました。というのも、彼は他の学生ととても違っていて、そのうえ平均より年をとっていましたから。彼は31歳でした。私は昼食をとるために食堂の列に並んでいました。食堂を利用するには、用紙に日付、名前を書いてそれを支払いのときに出さなければいけませんでした。シオランは私の隣に並んでいて、今日は何日かと訊いてきたんです。私がこの日の日付を正確に思い出せるのは、その日が私の誕生日だったからなんです。私の母がケーキを送ってきてくれていたはずです。私は彼に日付を教えて、その後……。

    D:彼があなたに近づいたのは、無料で食事をするためだったのか、それともあなたに話しかけるためだったのでしょうか。

    B:その両方だと思います。

    D:それで、その時からあなたがたは一緒に暮らし始めたのですか。

    B:いえ、そんなにすぐではありませんよ! 当時彼は、ここからすぐ近くのラシーヌ街のホテルに住んでいて、部屋はとてもよいものでした。私はといえば、クラインという若い女性の友達が理由で、私はフォワイエ・アンテルナシオナルを引き払いました。彼女はたぶんリトアニア人で、クジャス街に部屋を持っていました。ある日彼女がシオランにこう言ったことがあります。「私が住んでいるのは売春宿なの!」実際に、そのホテルはナイトクラブに繋がっていて、とても人通りが多くて、まあ要するに売春宿でした。彼女の部屋は最上階にあって、それはとても素晴らしいものでした。というのも、その部屋は屋根裏部屋だったので日当たりがとてもよく、さらにそこからはとなりの学校の木で生い茂った中庭が見えたからです。彼女がその部屋を引き払うと言ったとき、私はそこを貰おうと思いました。それで私はしばらくそこに住んでいたのですが、ときどき落ち着かない気分になることがあり、結局引っ越しをしました。
     そのうち戦争が終わり、私は1945年にアグレガシオンに合格し、ミュールーズに赴任する通知を受けました。アルザスがフランス領に戻ったので、学校教師が必要になったのですね。けれど私はパリにいることしか考えていませんでした。同じ年にパリの学校のコンクールに合格していたものですから、私はその校長のところに行き、ポストが貰えないか訊きに行きました。その校長はとてもいい人でした。アグレガシオンの特典を逃さないためにもミュールーズに行くほうがいいと彼が助言してくれたので、最終的に私は行く決心をしました。
     当時、あそこにはとても不思議な雰囲気がありました。二種類の学生がいて、ひとつはアルザス人で、ずっとドイツ語で学んできた子たちです。もうひとつは、「内地人」と呼ばれていたグループで、大多数はユダヤ人の子たちでした。あのときのようなクラスを受け持ったことは、それ以後一度もありません。彼女たちは授業が始まる定時よりも前にすでに勉強を始めていて、それで私を待っているのです。普通は授業のなかで生徒を教えているという感じがするものですが、そのときは反対で、私が教えられているような気になりました。校長は、ちょっとヴァージニア・ウルフを思い起こさせるような女性でした。彼女はアルザス人で、占領期をパリで過ごし、この学校をなんとしても再建してみせるという気持ちに溢れていました。
     その頃はきわめて不公平なことがありました。「内地」から来た教師は、他の教師、つまりアルザス人よりも1.5倍の給料を貰っていたのです。同じ資格を持ち、同じ困難に見舞われているのにもかかわらずです。私にとっては得なことでしたよ、もちろんね。おかげで私は二等列車でパリまで行けたのです(当時は三等までありました)。鉄道での移動はとても長いもので、だいたい12時間ほどかかりました。アメリカが戦争中ノジャンの鉄橋を破壊していたので、非常に遠回りしなければならなかったのです。それに加えて、私が乗った列車は、アルベルグエクスプレス(Albergexpress)といって、ウィーンまで繋がっている便でした。いくつもの国境を越えていかねばなりませんし、金だか何かの闇取引があるということで、税関の役人がちょっとしたポケットまですべて調べ上げるので、いつも遅延していました。

    D:シオランはあなたに会いにミュールーズまで行かなかったのですか。

    B:いえ、もちろん来ましたよ。彼は当時自転車にとても熱中していました。私は最初のクリスマスのバカンスをパリでシオランと過ごしたのですが、その後イースターのバカンスのとき、シオランが私にこう言いました。「君はパリに自転車で来なよ。それで二人で自転車でアルザスまで行こう」。実際に自転車でアルザスまで行きましたよ。私は疲れ果てましたが、シオランはピンピンしていました。オー=ラン(Haut-Rhin)では登りの道がとてもあって、もう今ではとてもできないでしょうね。

    D:あなたはミュールーズに一年しかいなかったのですね。

    B:はい。私がパリに近いところに行けるようシオランがいろいろと働きかけてくれたのです。成功したのはリュパスコ*1のおかげです。リュパスコは中学校の校長を知っていましたので。リュパスコはとても素晴らしい人で、私たちは彼のことが大好きです。彼はすべてを大げさに言うのです。シオランでもリュパスコの誇張ぶりにはかなわないでしょうね。そのおかげで私はオルレアンに赴任することができました。パリから1時間20分のところです。

    D:それで、あなたはシオランと一緒に住み始めたのですね。

    B:いえ、私はオルレアンにアパートを借りました。でもパリには週に二度は行っていました。オルレアンには一年しかいませんでした。1947年までですね。少なくとも二年はいることを見込んでいたらしく、委員会の人たちは不満げでした。リュパスコがまた動いてくれて、私はヴェルサイユに赴任しました。

    D:それであなたはパリに住み始めたのですか。

    B:そうともそうでないとも言えますね。ご存じのように、私は不眠なのですが、それは教師になってからのことなのです。授業の準備をしなければとか、明日遅れないようにしなければと考えて過ごすうちに、私は眠れなくなってしまいました。だから私はヴェルサイユに小部屋を借りて、週二日はそこで寝泊りしていたのです。私が勤めていたリセはリセ・オッシュという男子校でした。当時そこには私しか女性がいませんでしたので、ちょっとした特別な地位に自分がいる気がして、快適だったといいでしょうね。でも家からリセまで1時間以上かかったので、それを除けばのことですが。

    D:パリであなたはどこでシオランと一緒に生活したのですか。

    B:ホテル・マージョリーです。ほとんど移動しないで引っ越しをするというのが彼のいつもの流儀でした。ラシーヌ通りにあるホテル・ラシーヌから移ったのですが、ホテル・マージョリーはラシーヌ通りとムッシュー・ル・プランス通りの角にありました。

    D:当時、ホテルの料金は安かったですね。

    B:ええ。一月毎に払っていました。ホテル・マージョリーでは、シオランは二つの小部屋を借りていましたが、そのあと私たちはもうひとつ隣の部屋を借りました。というのも、私は両親に伝える住所としてもうひとつ部屋が必要だったのです。ご存じでしょうが、当時はこういったこと[シオランとの共同生活]は無条件に許されるというわけではありませんでした。

    D:ヴェルサイユの後はどうされたのですか。

    B:ヴェルサイユの後は、リセ・ミシュレに赴任しました。そこがすごくよかったのは、私はHEC[HEC経営大学院。グランゼコールのひとつ]受験クラスを任されて、週に13時間半教えるだけで済んだことです。でもクラスの時間の間隔がとても開いていて、結局私は朝にバスに乗って、夜の7時半に帰らなければなりませんでした。ほぼ一日中ですよ!

    D:それでリセ・ミシュレもまだ遠かったので、あなたはもっと近いところに赴任しようとされたのですか。

    B:そのとき、悲劇的なことが起こったんですよ。私はリセ・フェヌロンのカーニュ[高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)文系受験準備クラス]に任命されました。私はカーニュの仕事をしたことがなかったのに加えて、生徒を合格させてその仕事を全うするためにはまったく不可能なクラスを持たされました。そのクラスにいたのは技術系の学校の受験を準備していた女生徒たちで、私は彼女たちに電話でテストのヒントや対策やら何やらを教えなければなりませんでした。カーニュで授業をするというのはまったく簡単なことではないことがわかりました。全然うまくいきませんでしたよ。そのとき、私はまったく眠れなくなりました。この不眠は3ヶ月続きました。夜の間ずっと15分毎に鳴るソルボンヌの鐘の音を聞いていましたよ。まったく眠れませんでした。当時は窓を見るたびに飛び降りようと思いました。結局私は視察官のところに行ったのですが、私がどんな状態にあるのかを見た視察官は、クリスマスまでの休暇を言い渡しました。その後、私はリセ・モンテーニュに赴任するよう命じられました。そこはとてもいいところで、私はリュクサンブール公園を通って、毎日徒歩で行けるようになりました。


    "結局のところ、シオランは書くのがあまり好きではなかったのだと思います"



    D:1947年、シオランはどのような文学生活を送っていたのですか。彼はガリマールのもとで『崩壊概論』を苦しみながら書いていましたか。

    B:私がシオランと知り合ったとき、彼はルーマニア語で書いていました。それというのも、彼がフランス語で書く決心をしたのはまさに1947年のことですからね。『崩壊概論』はその2年後に出ました。彼は少なくとも2回か3回は書き直しました。

    D:はい、彼はその逸話を語っていますね。それによると、彼はディエップにいて、マラルメをルーマニア語に訳していたところ、結局こんなことには意味がないと考え、決断したとのことです。この話は本当のことですか。

    B:ええ。ディエップがどうやって私たちの人生に現れて来たのか、お話しましょう。私がポワティエで会った古い友人がディエップでポストを得たのですが、その理由というのが、誰もディエップに行きたがらなかったというものでした。当時は戦争中で空爆がありましたから。私はそのときフォワイエ・アンテルナシオナルにいました。ある日、その古い友人が私をディエップに来るよう誘ってくれました。それで私はディエップで8日間過ごし、フランス解放の後には、シオランを連れてたびたび訪れるようになったわけです。なんといっても行くのが簡単で、鉄道に乗ればすぐ着きましたからね。シオランはディエップが大いに気に入っていました。
     1947年のその夏も、私たちはディエップで過ごしたのですが、その後私は両親に会いに行ったので、シオランを一人で置いていかねばなりませんでした。彼はディエップ近くのオフランヴィルの家族経営のペンションに滞在しました。そしてそこで、彼が語っているように、マラルメを訳していたとき……その後はご存じのとおりです。

    D:彼はいつフランス語で書き始めたのですか。あなたは彼を手助けしましたか。

    B:いいえ。その当時、私はオルレアンにいました。彼が『崩壊概論』を書いていることを私は知っていました。でも私がそれに何か関わった記憶はありません。私が知っていたのは、彼が『崩壊概論』の最初のバージョンを書いたということ、それをガリマールに持ち込んだこと、その原稿をあるフランス人の友人に見せたところ、「全部書き直さなきゃ。いかにも外国人が書いたみたいだ」と言われたということだけです。シオランはそう言われて激怒しましたが、最終的にはその友人が正しいと認めるようになり、書き直し始めました。他で知っているのは、彼がある女性と会っていたということですね。私はその女性が誰なのか知りません。私はその人に一度も会ったことがないので、名前も知らないのです。シオランはその人のことを「文法学者さん」と呼んでいました。というのも、シオランには、人にニックネームを付けたがるという、たぶんルーマニア、あるいはラシナリ出身の人特有の癖がありましたから。ですので、おそらくその人が彼に手助けしたのでしょう。私が唯一出来たことは、彼の原稿をタイプ打ちすることでした。シオランのすべての原稿をタイプ打ちしたのは私です。そこにかけては私には値打ちがありましたね。彼はタイプミスが許せなくて、ミスを見つけると怒るのです。
      『崩壊概論』の最初のバージョンをタイプ打ちしたのは私ではありません。彼はタイピストに頼んだのですが、その値段がとても高かったのに、ミスばかりしていたので、私がタイプ打ちを勉強して、私がするようになったのです。

    D:彼はあなたに原稿を見せたのですね。その原稿を見て、あなたは彼に何か言わなかったのですか。例えば、これは間違っているとか、こんな言い方はしないとか。

    B:彼は1日に1ページ以上はほとんど書きませんでした。彼の本が短いのは、彼があまり書かなかったためですね。私がリセから家に帰ってくると、だいたい彼は書いたページを見せてきました。彼は満足していませんでした。彼は自分の書いたものにいつも不満でした。それで私に原稿を読むよう頼んでくるのです。彼は私の観察眼がとても優れているといつも言っていました。私が読むと、彼は自分のテクストがよいものだと思うようになるのです。私が読むことが必要だったのですね。まあ、このような感じですね。私はセイレーンの呼び声のひとつだったと言っていいでしょうね。しばしば、私にフランス語を教えたのはシオランではないか、と思うことがあります。私が自分の言語について意識するようになったのは、彼のおかげですからね。
    ときどき、私は異論を挟みます。しかし彼には彼の考えがあるのです。彼がチェロネッティ*2について書いたテクストのことを思い出します。彼がそれを書いたのは、チェロネッティの『肉体の沈黙』の翻訳が出るためで、チェロネッティがシオランに序文を頼んだのです。シオランは嫌がって、なんとかして断る方法を探りました。彼はいつもそうして逃れようとするのです。結局彼はこんな風に言いました。「私は序文は書かないが、編集者への手紙なら書いてもいい」。彼はその書いた手紙を私に見せてきました。手紙を読んで私はひっくり返るほど驚きました。シオランが問題になっている物事をそのまま語らないのに私は慣れていましたが、しかしその手紙は、リュクサンブール公園で、義理の娘といっしょにいるチェロネッティを、シオランが木の後ろから隠れて見る話で始まっていました。私は言いましたよ。こんなことを公にするのは非常識だと。シオランは有無を言わさない断固とした声で答えました。「句読点のひとつたりとも変える気はない!」。実際、彼は句読点のひとつたりとも変えませんでした。だから私の指摘などお構いなしでしたね。

    D:いつもそうだったのですか。

    B:ときどきはありましたよ。彼が私のほうが正しいと思ったときの話ですけどね。

    D:それで、彼があなたに読んでもらうよう渡したテクストは、ルーズリーフに書いてあったのですか。

    B:いいえ。彼は大判の便箋に書いていました。最初彼は鉄製のペンとインクを使っていました。それが書き物をしているシオランについての、私の最初の記憶です。当時、彼はルーマニア語で書いていました。そのあと、彼は万年筆を買いました。ボールペンを使うようになったのはずっとあとになってのことです。私が『祖国』*3の原稿の書かれた年代を特定できたのは、こういったことを憶えているからなのです。
     彼の書く文字を判読するには、いくつかの彼の癖を心得れば、難しいことではありません。特徴的なのはRの書き方で、彼はNのようにRを書くのです。彼はいつもこう言っていました。「私は[フランス語の]Rを発音することができないので、書くときもこんなに下手なんだよ」。私がRをうまく発音できることに彼は驚いていました。私がしゃべっているとき、彼は私に近づいてきて、下のほうから私の口をじっと見て、どうやって私が発音しているのか理解しようとしていました。

    D:彼には書くときの儀式や、特別な時間といったものはなかったのですか。

    B:いいえ。結局のところ、シオランは書くのがあまり好きではなかったのだと思います。『崩壊概論』のあと、『苦渋の三段論法』が出ましたが、これは商業的には完全な失敗でした。いまでは一番売れている本ですが、それは最近再版されてのことです。はじめの出版直後には、雑誌『エル』に書評が一本載ったきりでした。それでガリマールが本を絶版にしました。そのあと、シオランはあまり書かなくなりました。もし『新フランス評論』編集長のジャン・ポーランが、シオランに原稿を頼まなかったら、シオランは決定的に書くのをやめていたかもしれません。彼の本の多くは、『新フランス評論』に掲載されたエッセイによってできています。彼にはどうすることもできませんでした。ポーランに原稿を書くと約束してしまったのですからね! 彼はこんな風に言っていました。「書くと約束してしまったからね。約束してしまったせいで、締め切りなんてものができてしまった」。彼はいつもこんな調子で言うのです。「私にはこの原稿は絶対に書けないよ」。そうこうしているうちに、突然、彼は部屋に引きこもり、書き始めるのです。私がいつも驚いていたのは、彼は一度書き始めると、何事もなかったかのようにすらすらと書いていくことです。彼の原稿を見れば、修正した箇所がほとんどないのがわかります。

    D:シオランは、エッセイとは他のもの、例えば、演劇とか何らかのフィクションとか、そういったものをを書こうとしたことは一度もなかったのでしょうか。

    B:あっけにとられるようなことを仰るんですね。シオランはそんなことは一度も考えませんでしたね。シオランは同じテーマの違うバリエーションしか書きませんでした。

    D:しかし、それはあらゆる作家にあてはまることではないですか。シオランに他のものを書く気があったというのは、それほど考えられないことでしょうか。

    B:シオランがしばしば友人に自分の過去を語っていたことを思い出します。彼が学生のころ、兵役についていたころのことなど、とても素晴らしい物語でした。腹がよじれるほど笑ったあと、友人の多くが彼にこう言うのがつねでした。「回想録を書く気はないのかい」。シオランはこう答えました。「でも、私には回想録や物語を書く能力がないよ。それを書くのに必要なものが私にはないんだ」。

    D:シオランのルーマニア語のテクストの翻訳については、どのような事情があったのでしょうか。彼はそれに関わったのですか。

    B:彼は長い間自分のルーマニア語のテクストが翻訳されるのを拒否していました。思い出しますが、はじめに翻訳のことに言及したのはアラン・パリュイ*4です。シオランはパリュイのことがとても気に入っていて、つねづね翻訳家になるよう急き立てていました。彼には才能があると思っていたのです。というのも、シオランにはちょっとした悪癖がありました。それは人に助言を与えて、人に何かをさせたがるという悪癖です。シオランは助言を与えるのをとても好んでいましたが、私のほうは、そういった助言をまったく信じていませんでした。
     それで、ある日、パリュイがシオランに会いにやってきました。パリュイは『絶望のきわみで』を翻訳したいと思っていました。シオランは彼にこう言いました。「試しに少し訳したのを見せてくれないか」。パリュイはいくつか訳したページを持ってまたやってきました。そして彼ら二人が下した結論は、これはフランス語には合わない、というものでした。
     何年かあと、今度はサンダ・ストロジャン*5が『涙と聖者』を翻訳しはじめ、彼女は訳文を持ってしょっちゅう訪ねにきました。それで二人は検討をはじめるのですが、シオランは私に同席するよう頼んできました。私にとってはまったく不幸なことでしたよ。というのも、シオランは、日常的なことに関しては優しく、愛想がよく丁寧なのですが、ことがエクリチュール、テクストの問題になると、そういった優しさはもはや彼にはないのです。彼はくりかえしこう言ったものです。「これはだめ、削除しなきゃ」。サンダが家にまた来たとき、彼女はこう言いました。「今日はまた何を削除されるんでしょうか?」。『涙と聖者』のフランス語版は、ルーマニア語版のだいたい3分の1の長さしかないと思います。サンダは序文を書いてその分を埋めなければなりませんでした。さらにシオランは、いくらかのページを書き直そうと考えました。そのせいで、読んでもルーマニア語から翻訳されたテクストを読んでいるという気がせず、むしろここにいるのはフランス語の作家である、という感じがするようになりました。最近、私は英訳を読んだのですが、とても驚きました。英語のほうがルーマニア語の翻訳にとても合っているのですね。仏訳のような堅苦しさがありません。ルーマニア語のシオランの、あの膨張するバロック的文体には、フランス語より、ドイツ語や英語のほうがよく合っているのですね……。


    "私にとって、それはシオランと共にいるための、ひとつの仕方だったのです"


    D:シオランがあなたに読んでタイプしてもらうよう頼んだテクストの他にも、あなたは彼の死後、彼のつけていた日記を発見されましたね。

    B:あれは日記ではないのです。あれは、どういう風に言えばいいのかわかりませんが、カイエ(cahiers, ノート)です。シオランの原稿をドゥセ図書館に寄贈すると決めて、片付けをしていたときに、たまたま、わきにほうっておかれたそのカイエを見つけました。多くのカイエが残されていましたが、それぞれのカイエの表紙には、「破棄すること」と書かれてありました。私は図書館への寄贈の話もうちやってそのカイエを読み始め、これはそれまでとは違うシオランを明らかにする貴重な発見だと思いました。それは下書きノートも兼ねています。のちに彼の著作のなかに収録されたものがたくさんあります。一字一句同じなものもあります。推敲を重ねて、同じ文章の3つか4つかの違うバージョンが続けざまに出てくることもあります。彼は文章表現において完璧な地点に行きたいと望んでいたのです。けれども、カイエには他のことも書かれています。いずれにしても、日付が記されていることはそれほど多くありません。だいたいの場合、日付が付されているときにはこういった記述が伴っていることが多いのです――「恐ろしい夜」とか、「ひどい苦しみ」とか。
     カイエのテクストを書き写す過程で、私は日付が記されているものすべてを保存しました。たとえ大した関心を惹かないようなものであってもです。私は、私がしていること、私が決めたことに、満足してもいれば不満でもあります。シオランはこのカイエのことを私に話したことは一度もありませんでした。生前、私は彼の部屋に入るとき、テーブルの上にノートがひとつ置いてあることにときどき気付いていました。ご存じでしょうが、彼の部屋には、他の人は入れなかったのです。掃除婦も彼の部屋には出入り禁止でした。というのも、なにかものがなくなるとしたら、それはつねに誰かが無秩序を乱すからであるというのが、彼の持論だったからです。それで、私が気付いたそのノートですが、それはいつも同じノートでした。彼はいつも同じ種類のノートを買っていたのです。そしてそのノートはいつも閉じられていました。もちろん、私は一度も開けたことはありませんでした。
    この一連のノートを見つけたあと、私はドゥセ図書館の館長に、これをすぐには寄贈しないことを伝えました。

    D:そしてあなたは再び、前と同じように、そのカイエをタイプライターで打ち始めたのですね。

    B:ええ。私にとって、それはシオランと共に居続けるための、ひとつの仕方だったのです。

    D:シオランはあなたに原稿は見せたけれども、そのカイエは見せなかったのですね。

    B:そうです。

    D:そのカイエは、どこがいわゆる日記というものと違うのでしょうか。

    B:それは、「今日だれだれと会った。これこれをした」といったような、普通の日記の記述とはまったく違います。シオランは彼が会った人、あるいは彼の周りにいる人については多く語りません。彼は自分について語ります。ほとんど自分のことしか語りません。出来事は、ただ彼に関係するときにのみ現れますが、それは往々にしてとても悲しいものです。
     私はこう言って自分を慰めようとします。「どうしてこんな風に書かれるのだろう! このときには私もそばにいたのに。これはこんな風ではなかった、だってシオランには暗いところはまったくなかった。彼は陽気、とても陽気だったのだ」。もちろん、この理由はとてもよく理解できます――彼は悲しいときにしか、絶望の発作が起こったときにしか書きませんでした。彼はどこかでこう言っています。
     「私の本が暗いのは、それは私が自分の体に弾丸を一発ぶちかましたいときに書き始めるからだ」、と。
    このカイエを彼は夜に書いたのです、眠れないときに、あるいは遅く帰ってきて、床につく前に。このカイエのなかで繰り返し現れるのは、つねに挫折という感情です。このせいで私は読むのがとてもつらくなります。彼はこんなに挫折の感情に取りつかれていたのか、彼はこれほどまで不幸だったのか、と思うと。

    D:その挫折の感情ですが、それは作家としての成功に対してのもの、彼が不十分だと思っていた世間での評判に対してのものでしょうか。

    B:いいえ。私が思うに、この挫折の感情は、結局は彼自身に抱いたものだったと思います。

    D:あなたは、そのカイエを出版されたいと望んでいらっしゃるのですね。

    B:はい。それはこう考えたからなんです――「これがドゥセ財団の手に渡るとすると、これに興味を持った研究者が必ず現れて、いつの日か公にされるだろう。それなら、私が先にやったほうがいいだろう」。しかし、私は自分の編集者としての資質にひどく疑問を持っています。私はシオランのテクストをタイプ打ちしていたけれども、今やっているこれはそれ以上の仕事です。私は生前の彼の前でタイプ打ちをしただけで、この文章が出版されるかどうかを決めていたわけではありませんし、自分の意見があったわけでもありません。

    D:それであなたは、そのカイエの出版について、責任を感じていらっしゃるのですね。カイエのなかには、伝記的な要素や記述も含まれていますね。例えば次のようなものです。「マリー=フランス(・イヨネスコ)*6と素晴らしい夕食」。そしてまた、後に出版されるテクストの下書きや、あなたがとても悲痛だと仰られた考えの記述などがあります。全部で35冊あると聞きましたが。

    B:何冊というのは難しいですね。というのも、バカンスのときに持って行って書いた小さなノートも複数あるからです。あるときから、もっと大きいサイズのノートにだけ書くようになり、その小さなノートは単なる下書き用のノートになったのです。あるものはとても推敲され作りこまれていますが、逆にあるものは浮かんだ考えをそのままメモしただけと、統一性がありません。
     なにより、このテクストを出版されることを彼が望んだのかどうか、私にはわかりません。彼はときどき他の人々についても語っています。ほとんどの場合彼は名前を書かず、イニシャルで済ませていますが、しかし結局誰のことなのか、すぐにわかってしまいます。ご存じでしょうが、シオランにはこういった側面もあって、彼はときどきとても…

    D:悪意がある?

    B:ええ。彼は冗談を言ったり誇張をするという誘惑に打ち勝ったことは一度もありませんからね。彼は友人に腹を立てても、のちには仲直りするんです。


    (続く)


    *1 ステファーヌ・リュパスコ(Stéphane Lupasco, 1900-1988) ルーマニア生まれのフランスの哲学者。

    *2 グイード・チェロネッティ(Guido Ceronetti, 1927-)イタリアの作家。シオランのチェロネッティについてのテクストは『オマージュの試み』に収録されている。

    *3 『祖国』(Mon pays)シオランの死後発見されたテクスト。自身のルーマニア時代の過去、とくに政治的熱狂について書かれている。執筆年代に関しては、シモーヌ・ブエは1950年代初頭としているが、マルタ・ペトレウ(Marta Petreu)は45年-47年としているなど諸説ある。邦訳『ルーマニアの変容』に収録されている。

    *4 アラン・パリュイ(Alain Paruit, 1939-2009)フランスの翻訳家。数々のシオランのルーマニア語作品の仏訳を手がける。

    *5 サンダ・ストロジャン(Sanda Stolojan, 1919-2005)ルーマニア生まれのフランスの作家。『涙と聖者』の仏訳者。

    *6 マリー=フランス・イヨネスコ(Marie-France Ionesco)フランスの作家。父はウジェーヌ・イヨネスコ。
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    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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