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    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その1

    試みにシオランとガブリエル・リーチェアヌとの対談を訳してみました。拙いところはご勘弁下さい。




    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):あなたはいくつかの「賞賛訓練」(Exercices d'admiration 邦訳『オマージュの試み』)を書かれましたが、運命の問題はあなたをいつも魅了してきました。完成か挫折かという個人の運命、そして栄光とデカダンスという民族の運命の両方がです。しかしあなたはいつも他人の運命について語ってこられました。もう80歳になろうというところで、あなた自身の運命については、どのようなまなざしを向けられますか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):私は自分が望んだ運命を持ったと言いたいですね。自由であるということ、独立しているということが私の脳裏から離れませんでした。それで私はそれを獲得したわけです。でも、もう今となっては私の運命は終わったと考えています。一年前、おそらくもっと前から、私はもう書くまいと決めました。

    L:それは初めてのことではありませんね。この10年か20年の間、あなたはそのような決心をずっと取り続けてきたように思います。

    C:今回は真面目ですよ。

    L:あなたの本が出る度に、今回が最後の本だと言ってこられましたが、その度にまた次の本が続いて出されました。

    C:それはそうだった。でも今度のは本当です。もう書かないというこの決心には、言ってみれば、ほとんど生理学的な理由があるんですよ。私には何かが変わってしまったという感じがあります。

    L:どういう意味でしょうか?

    C:何かが衰えた、そう……私の中で壊れたんです。一般的に言って、作家というものは死ぬまで書き続けます。特にフランスではね。そんなのは何の意味もありませんよ。本の数を増やして何になるんです? 私の考えでは、全ての作家たちは書き過ぎですね。

    L:それはあなたの場合にもあてはまりますか?

    C:ええ、その通り。でも大作家たちはまったく書き過ぎました。シェイクスピアもやり過ぎですね。私について言うと……ただ単に、宇宙に唾するのはもう十分ということです。私はもうしたくない。

    L:しかし、あなたは無用性と死のテーマについての、15冊以上の本をお持ちですね。

    C:それはオブセッションの問題ですよ。私の作品は――この言葉には吐き気がする――医学的、治療的な理由から生まれました。私が同じオブセッションの他は書かれていない同じような本を書いたのは、それが私をいわば自由にする、ということを確認するためです。まさしく私は必要があって書いたのです。文学とか哲学その他は私にとってはきっかけに過ぎない。書くことのセラピーのような効能、本質的なのはそれです。

    L:すると今ではあなたは治られたわけですね?

    C:いえ、治っていません、治ったのではなく、ただ単に疲れただけで。

    L:ですが、無用性や無意味を弁護した作品が、どうやって助けてくれるのですか。

    C:表現する手段を持たなかった他の人たちが感じていることを述べるからです。読者を自分が感じていたことについて突然意識させることによって、助けるのです。要するに、自己を取り戻すというように、助けるのです。

    L:しかし絶望に集中することは、それをより深めてしまうのではないのですか。

    C:既に表明してしまったこと全ては、より受け入れやすいものになります。表現、それは薬ですよ。司祭に告白しに行くことに何の意味があると思いますか? それはわれわれを自由にするんです。表明されてしまうことで、その強さは減らされることになります。それこそが治療的であるという理由であり、書くことによって治療する意義です。もし私が書いていなかったならば、私はもっと憂鬱の状態にあったろうし、その場合疑いなく憂鬱は私を狂気にし、私がやることを全て失敗に導いていったことでしょうね。既に表明したという事実が特別な効果を現すのだ、と言わなければなりません。私が書かなかったならば、まず間違いなく病気になってしまったでしょうね。そんな風に私は5冊くらいの本をルーマニア語で、そして……8冊か9冊の本をフランス語で書いたわけです。

    L:では、今は?

    C:今は…もう終わりましたよ! もう沢山だ! 私は書くのをやめた、というのは私の中に何か減退を感じたからです。激しさの低下です。大事なことは、気持ちの高ぶり、感動の強さです。ところで消えてしまったものというのはそれなんですよ。私は私の中に、一種の疲れを、表現に対する嫌悪を見出し始めました。私はもう言葉を信じてはいない。パリの文学的スペクタクルにはもっとね! 皆が朝から夜まで間断なく書いています……私はといえば、長い間否定しつづけました。でもこの攻撃的否定、これを私はもう今や必要だと感じないんですよ。実際、これは衰弱の現象ですね。

    L:その疲れはあなたを世界と和解させたのでしょうか?

    C:いいえ、それは単に私を衰弱させただけです。私はこれまでの人生の間、自分は自分がが知っているどの人よりも明晰な人間である、という途轍もないうぬぼれを抱いてきました。これは誇大妄想狂の明白な形態ですね。でも本当のところ、私はいつも人々は幻影の中で生きていると思っていたんですよ――私を除いてね。彼らは何も理解していない、と私は確信していました。それは軽蔑ということではなくて、ただ単に確認です。皆が騙されているし、人々は素朴である。しかし私は騙されないという幸運を――あるいは不幸と言ってもいいですが――我がものとしました。そしてそれは実際、何にも参加しないということ、他人の目的の喜劇にまったく関わらないで振る舞うということなんです。

    L:今となって、あなたのそのような振る舞いは、正しかったと思われますか?

    C:もちろんですよ!

    L:あなたは生涯で、リヴァロル賞、サント-ブーヴ賞、コンバ賞、ニミエ賞といった文学賞を授与されてきました。最初のリヴァロル賞を除いて、あなたは全て辞退されました。なぜでしょう?

    C:パリの文学的スペクタクルにはうんざりなんですよ。作家は皆一つの文学賞を手に入れるためにどんなことでもやってのけます。それはまさしく産業とも言うべきものです。私は選択の余地がないことを素早く理解しました。全てを受け入れるか、全てを拒否するかなのです。最初、私は受け入れました……

    L:リヴァロル賞、『崩壊概論』に対してですね。

    C:そうです。それは最初の本だったし、選定委員会のなかにはフランスでもっとも偉大な作家たちがいました*1。彼らは年を取っていたけど、私はまったくの無名だった。その賞を拒否するのは当時何の意味もなく、それはただの厚かましい行為にすぎなかった。1949年のことでした。しかしこのことの後、つまりフランスの文学生活についてよりよく知った後に、賞というものはとても不愉快なものだということ、そして私にとってほとんど危険なことだと気付いたわけです。

    L:あなたがニミエ賞を拒否されたとき、あなたは弟さんに向けてこう書かれています。「『生誕の災厄』のような本を書いた後に、文学賞を受けることなんてできないよ」。しかし、それにもかかわらず、この辞退の連続は反対に一つの宣伝の形態ではないでしょうか? あなたの辞退は噂になり、好奇心を呼び覚ましました。

    C:いや、私は最初から賞は拒否すると決心していました。

    L:あなたがインタヴューに応ずることが殆どなかったのも、徹底してフランスのテレビに出ることを拒否したのも同じ理由からでしょうか? あなたはパリの舞台からもっとも引っ込んだ著者であると考えられていました。

    C:パリに生きていて、文学賞のスペクタクルを見物する人は、決定せざるをえないのです。他人と同じように振る舞うか、それともそうしないかというね。

    L:あなたの作品が外的な性質を帯びているとは感じられないのですか?全ての作品は公衆に読まれます。公衆とは宣伝を意味します……

    C:ええ、でもそれを引き受けるのは編集者だけで、私ではない。私はそこに混ざりたいとは思わない。私が自分の商品を持って街に売りに行くことなんてこれっぽっちもありえませんよ! その上私は少しばかり運命論者でしてね。どの作家もその運命を持っています。賞を拒否すること、それはフランスの文学的風習に対する抵抗の一つの形態でもあるんですよ。


    ***


    L:フランスでは、あなたがラシナリというトランシルヴァニアの村に生まれたことは知られていますが、しかし大部分の人々は、この場所があなたにとっていかに重要であるかということを無視しています。あなたは何度もラシナリから出ることを楽園からの追放になぞられましたね。

    C:私の幼年時代はまったくの楽園そのものだった。

    L:いくつかの場所が、ルーマニアにいるあなたの弟さんや友人たちへの手紙の中で回帰するように現れます。隣の家の果樹園、お父上が勤める教会、コアスタ・ボアーチ――村に張り出た丘、永遠に遊び回っていた、半ば伝説的な土地です。コンスタンティン・ノイカに当てたあなたの手紙の中に、有名なフレーズがありますね――「コアスタ・ボアーチを去って何かいいことがあっただろうか?」

    C:風景は重要な問題です。山で生きた時、その他のものは言いようがない陳腐なものに思える。そこでは何か原始的なポエジーが行き渡っています。コアスタ・ボアーチが私にとって本質的な役割を担ったということ、これは認めなければなりません。私はそこに行って、村を支配していました……

    L:あなたの他の幼年時代過ごした場所も特別な意味を帯びているのですか?

    C:ええ、特に墓地がそうです。墓堀人に友人がいましてね。彼はとてもいい人間で、彼は私のもっとも楽しみにしていることが、髑髏を手に入れることだと知っていました。彼が誰かを埋めていると、私はすぐに駆けつけて、彼が私に一つくれるかどうか見守っていました。

    L:どうして髑髏に惹きつけられたのですか?

    C:私の楽しみ、それは…それでサッカーをすることでした。私は髑髏に目がなかった。私は墓堀人が髑髏を掘り出すのを見るのがとても好きでした。

    L:それは病的な嗜好なのでしょうか、あるいは無邪気な遊びなのでしょうか。

    C:その両方だと思います。結局のところ、私はサッカーをするのが好きだった。髑髏が空にくるくると回っているのを私の目が追っているときのことを憶えています。私はそれをつかまえようと突進しました……。それは何より素朴なスポーツだった。私は髑髏でサッカーをするのが許されないことを知っていたし、それが普通ではないことを十分に意識していた。それに、私は誰にもこのことを話しませんでした。それは病的な感情に属するものではなかった。しかし、死の世界との一種の親近感のようなものがありました。墓地はとても近かったし、埋葬にも慣れていましたから……。

    L:しかし今あなたが語られた親近感は、死の問題から切り離されなければならないのではないでしょうか。そのような親近感は、死から距離をとるものであっても、思考の中心的なテーマになることはなかった。そのような経験は、死という現象に対して明朗な視線を与えるか、あるいは無視させるようになるのではないかと思います。ところが、反対に、死はあなたにとってオブセッションとなりましたね。

    C:私の死についてのオブセッションを、7歳か8歳頃のこの経験に遡らせることができるとは思いません。死が私の人生の中で役割を果たすようになるのはもっと後のことです。実際死は、16か17歳の時に私にまとわりつくようになりました。それが絶頂に達するのは『絶望のきわみで』を書いた頃です。したがってこの現象は後々のものだけれども、でも墓地での交際が私に影響を与えたというのはありうることです。私が多少とも居合わせた埋葬、涙、嘆きに私は無関心ではいられなかった。しかし、正確にいつと言うことはできませんが、この感覚は、はっきりとした問題へと変わったのです。


    ***


    L:では楽園から去り、いかにしてあなたが追放された後の生への一歩を踏み出されたのかに移りましょう。

    C:私の人生のなかでもっとも悲しい日は、父が私をシビウの寄宿先に送った日です。その日を忘れることは決してありません。私の人生のなかで全てが壊れてしまい、死を宣告されているのだという感じを持った日です。忘れることはありませんよ!

    L:哲学の読書を14歳から15歳のときに始められましたね。あなたの読書ノートを見せていただきました。リヒテンベルク、ショーペンハウアー、ニーチェ……

    C:その後にキルケゴール。私がある日キルケゴールを読んでいた日のことを思い出します。庭師が現れて――人々は彼は狂人だと言っていました――私に訊くんです。「どうしてずっと本を読んでいるの?」。「楽しいからさ。本には……」「そこにはなにも答えは見つからないよ。ないね、ないね、本からは。本のなかには見つけられないよ」そして私は彼を見つめて言いました。「あなたは考える人、認識する人、理解した人ですね」。

    L:なるほど。しかしあなたがそのことを初めから理解していたならば、どうしてあなたは今世紀でもっともすさまじい読書家の一人になったのでしょう?

    C:私は膨大に読みました、それは本当です。私は一生の間膨大に、一種の脱走のように読んできました。私は哲学のなかに、他者のヴィジョンのなかに入りたかった。それは本への一種の逃走、自分自身から逃れることです。

    L:でもどうしてあなたは自分自身を忘れる他の方法を探さなかったのですか?例えばアルコールとか……

    C:いやいや、私は酔っぱらってばかりいましたよ!

    L:酔っぱらう? あなたが? いつのことです?

    C:若い頃、とても頻繁にです。私は酔っぱらいになることばかり考えていました。非意識の状態と、酔っぱらいの馬鹿げた誇りが気に入っていたのです。休暇のとき帰るラシナリでは、私は古典的な酔っぱらいを盛大に賞賛していました。彼らは毎日酔っていた。とくにそのうちの一人は、一日中バイオリンを持ちながらぶらぶらし、口笛を吹き、歌っていました。彼は村中で唯一面白い人間だ、唯一理解している人間だと私は考えたものです。みんな何か仕事に従事するというのに、彼だけは遊んでいました。彼はアメリカの叔父を持っていて、2年の間にすべてを使い果たし、無一文になりました。彼がそのあとすぐに死んだのは幸運だったと言えるでしょうね。

    L:あなたがそのような人々、堕落し失敗した人々を賞賛すると、それはただの若者の奇矯愛好(teribilism)、上品ぶった人々をあきれさせるだけのものだ、と非難されますね。

    C:まあそうです。それは見つけるのがもっとも容易な説明ですね。本当のところを言うと、奇妙なことでしょうけども、私のなかの何かと照応しているもの、それはあまりにも普通で平凡な両親を持ったことでずっと感じていた不幸です。言うなればね。私の不眠の時期を思い出します。母とともに家に独りでいたある日のこと、危機のあまり、私はベットに身を投げてこう言いました。「もうだめだ! もうだめだ!」。すると司祭の妻であった母が私に返しました。「もし知っていたならば、堕胎していたのに」。このことは突然私に巨大な喜びをもたらしました。私は自分に言ったものです。なら俺はただの偶然の産物なのだ、これ以上何が必要だというのか?



    *1 委員会のなかには、アンドレ・ジード、フランソワ・モーリヤック、ジャン・ポーランなどがいた。
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    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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