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    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その2

    リーチェアヌとの対談の続きです。この翻訳では、主にルーマニア語版に基づいていますが、仏訳を参照しています。

    その1はこちらです

    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):しかし、実際あなたは何に苦しんでいたのですか?

    エミール・シオラン(Emil Cioran):不眠による極度の神経の緊張です。不眠を知る前、私はほとんど普通の人間でした。眠りの喪失は私にとって啓示でした。その時私は、生は睡眠のおかげによってのみ耐えられるものだと気づいたのです。毎朝、新しい冒険、あるいは同じ冒険が始まります。しかしそれは中断を伴ってのものです。反対に不眠は無意識を排除し、こんなことに耐えるには人間はあまりにも弱すぎるということを、1日24時間ずっと鮮明に意識しなければならなくなります。不眠は一種の英雄的行為であり、毎日が始めるから負けることが分かっている闘争です。というのも、生きることは忘却によってしか可能とならないから。次の朝には新しい人生が始まるという幻想を持つためには、毎日人は忘れなければならない。逆に不眠は人に不断の意識という経験を強います。その時、全世界との、眠ることができる全人類との闘争に入るのです。もはや自分が他人と同じ人間であると考えることはできない。他の人間は無意識になることができるのですからね。こうした後の最初の反応として持つもの、それは馬鹿げた誇りです。自分は他人と同じような人間ではない、自分は他の者が意識を持っていないときに、終わりのない夜を徹した経験があるという。この誇り、この破滅の誇りこそが唯一勇気を与えてくれるのです――俺は他人とは違う運命を持っていると。自分による自分への「お世辞」、この常軌を逸した感情は、もはや自分は人類に属していないというものです。自分で自分を美化すると同時に自分を罰する。おそらくこの極度の不眠の時期に、自分は明晰であるという誇りが生まれたのでしょう。これは一生ついてまわりました。私が言いたいのは、人々は知的で、独創的で、天才的でありうるでしょうが、明晰であることはできないということです。対して私は、明晰性をわがものとし、それを独占しているとみなしていました。今では私はもはや同じように考えてはいません。結局のところ、不幸な人間はすべて明晰なのです。しかし当時、不眠が私の明晰性は特別な明晰性だという確信をかき立てていました。確かなのは、不眠の時期は私の残りの人生にとって決定的な影響をもたらした、ということです。それは恐るべき経験でした。私は20歳で、毎晩、夜が明けるまでシビウを一人で歩き回っていました……

    L:すると、あなたの哲学は青年期のもののままであり、あなたの観点はその時代に決定的になった、ということでしょうか。

    C:いいえ。生に関する私のヴィジョン、それは仏教のなかに見出すことができます。私の考えでは、仏教はもっとも深い宗教です。私はあまりにも一貫していないので、なんらかの一つの宗教を追い求めるということができないのですが、私の世界に対する眼ざしは、仏教と非常に近いものです。たとえ別な風に言い表されていてもね。あの2年か3年続いた、恐ろしい不眠の時代に、私は否定に取りつかれ、先ほど話した誇りが私のなかに生まれました。明晰性へのうぬぼれ、ものごとの無常性の確信、他の人間の人生を支配している幻想に対する意識、これらすべては、不眠という根本的経験に由来します。私が哲学へと、言うなれば突き進んだとき、私にとってもっとも関心を惹いたのは、意識の問題でした。意識とは宿命である、宿命としての意識(Bewusstsein als Verhängnis)という観念が私のオブセッションとなりました。私の哲学への関心はこの問いとともに始まり、この問いとともに終わりました。根本的にいえば、人間は覚醒する存在です。そして不眠はこの哲学的本能を罰するのです。

    L:覚醒させ続けるという罰ですか。

    C:そうです。私にとって、意識のドラマを経験していない者は素朴な人間です。たとえその人が天才だとしてもね。ある意味で、意識の過剰、つまり忘却なしの生は、私に対して病的な側面がありました。私が不眠に苦しんでいたとき、私は全人類を絶対的に軽蔑していました。すべての者が私には動物に見えました。

    L:なぜなら彼らは一時、意識を持たないでいることが許されていたからでしょうか…

    C:その通りです。それは妬みでもありましたし、軽蔑でもありました。覚醒していること、間断なく意識を持つことは、人間を限界にまで導くものです。

    L:そうですね。しかし他方で、意識はあなたにとって呪いでもありました。意識のドラマはあなたの著作のなかで頻出する主題です。動物は人間よりも幸福であり、植物は動物よりも幸福であり、鉱物が最高の幸福を享受していると、あなたは何度も繰り返されて来ましたね。

    C:私は意識一般について話しているのではなく、意識の過剰について話しているのです。この過剰だけが、誇りと敗北という矛盾した感情を引き起こし、この過剰だけが、意識を同時に呪いと予感として感じさせます。そして不眠とは、過剰としての意識を人に啓示させるものです。普通、われわれは意識を、定期的で継続的な中断を挟んで経験しています。この場合、意識は重荷ではない。不眠がもはや始まりというものは存在しないと気づかせたとき、人はつねにそれまでとは異なった生を生き始めます。不眠が人を中断のない意識という現象の前に立たせることではじめて、人間とは意識を持つことができる唯一の存在であると理解し、そして同時に、人間はそのありのままではこの現象を耐えるにはあまりにも弱い存在であると理解するのです。

    L:シオランさん、あなたについて少し過酷なことをお訊きするのを許していただきたいと思います。意地の悪い読者がいるとして、次のようにあなたに言うとしましょう。「もし、あなたが定式化して論じるということにおいて卓越していないというのなら、あなたの思想の根本というのは要するに少々の陳腐な言葉に尽きてしまうのではないか。人間は悪だ、死は災厄だ、生きることは無意味だ、自殺は別だが、等々と」。

    C:それらすべては、理論上では陳腐でしょうが、経験するときはそうではない。死は災厄だということは、経験としては決して陳腐ではありません。もっとも深い宗教の一つである仏教も、生の無の認識という「陳腐」に尽きます。

    L:実際に、次のようにあなたを批判することもできるでしょう。あなたは世界と同じくらい古いテーマを再び取り上げ、「コヘレトの言葉」以来言われてきたことすべてを、並外れた才能でもって繰り返しただけだと。あなたの新しいところはなんであると思われますか。

    C:それはまったく経験の強度の問題ですね。生に関する見解の素材に新しいところなどない。死より陳腐な現象が他に存在するでしょうか。しかし同時に、死は究極的な問題であり、すべての宗教の関心の中心であったのは偶然ではありません。「独創的な哲学」などというものは、学問から出発して作り上げるほかない。学問の世界では新しいことが可能です。そのような哲学は、もちろん独創的でしょうが、しかしそれは同時になんの関心も示すことはない。ハイデガーのことを考えてください。彼が死について、そして他のすべてのことについて書いたものは、日常の言葉に移されると、なんの独創性も持たないものになります。彼の値打ちは、彼が他の者とは違った風に定式化したということに由来します。新しいもの、それは結局のところ響き、トーン、調子など、各人の経験の強度から発してくるものです。私が受け取った手紙、特に若い人たちからの手紙は、私の定式化の仕方と経験から、人々がなんらかの認識を持つことができるということを示しています。それがたとえどれほど愚か者であってもね。独自の表現を越えて思想が単純化されると、いかなる思想も陳腐になります。
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    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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