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    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その3

    リーチェアヌとの対談の続きです。

    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2



    ***


    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):ラシナリからシビウへの移転はあなたにとってトラウマでした。ではブカレストとの出会いはどうだったのでしょうか。あなたが哲学と文学を専攻する学生だったときの、1930年代のブカレストはどのようなものでしたか。 ブカレストとはあなたにとってそもそもどういうものでしたか。 大学図書館でしょうか、カフェ・コルソでしょうか。そこであなたはツツェアと、ノイカと、エリアーデと知り合ったのですか? ブカレストでのあなたの学生生活はどのようなものでしたか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):1989年12月に大学図書館が破壊されたと聞いたとき、私はとてつもないショックを受けました。私は四年か五年ブカレストにいて、ある部屋に住んでいましたが、そこには暖房がなかった。だから私はずっと大学図書館で過ごしていたのです。一日中ね。私にとってブカレストとは大学図書館のことです。そこで私は膨大な読書をし、特にドイツ哲学のテクストを読んでいました。図書館では時々コンスタンティン・ノイカを目にしましたが、そう頻繁ではなかった。彼は金持ちで、図書館に行く必要がなかったから。もちろん私はコルソにも行きましたよ。私はブカレストで沢山の人々に会いましたが、そのなかでも特に興味深かったのは挫折した人々ですね。いつもカフェにいて、長々とおしゃべりをし、ほかに何もしない人たちです。正直に言って、私がブカレストで会ったもっとも興味深い人たちはこのような人たちでした。無為の生活を送っているけれども、非常に頭の良い人たちばかりだった。それで、当然のことですけれども、私はカフェでツツェアと出会いました。


    T
    ペートレ・ツツェア(Petre Țuțea)



    L:彼は当時すでに、現在目されているように「神秘的思想家」だったのでしょうか。

    C:私の脳裏にどんな彼の姿が焼き付いているか申し上げましょう。彼は宮殿のそう遠くないところで『プラウダ』を買って、十字を切ったあとその新聞にキスしたのです。彼はロシア語は一言も知りませんでした。そうやって彼は路上で『プラウダ』にキスをした。彼は当時マルクス主義者でした。情熱的で神秘的なマルクス主義者。

    L:ツツェアの魅力はなんだったのでしょうか。どうしてあなたは彼を、過去未来を通じて知り合ったなかでもっとも天才的な人物とみなすのでしょうか。

    C:ツツェアは人間ではなく、一つの宇宙です。彼には熱狂と霊感の瞬間があって、彼を評価することができない者にとっては、狂気に陥っていると取り違えられることもありえた。事実彼はなんでも話すことができました。なぜなら彼には実際的精神というものが全面的に欠けていたから。ある一つのデータから出発して即座に体系を創り上げるのです。彼は――なんと言ったらいいのか――まさに思考の中心であって、自分が理論化したものが実現可能なのかと問うことは一度もなかった。一つの思考を展開させるとき、彼はほかの物事や人々を考慮しないのです。思い出しますが、経済省が当時の戦争省にルーマニアの工業力について報告書を提出したときに、経済省の官僚であったツツェアは、膨大な頁数の報告書を作りました。それは哲学のスタイルで、ドイツ哲学の術語を使ってできていて、そこで彼は一種の防衛の哲学を展開しているのです。とても興味深いものでした。この報告書は、誰だか知らないが大佐だか将軍だかに回されて、もちろんまったく理解されず、結局全部廃棄されてしまいました。これほど実践的精神が欠けていながら歴史のなかに入っていったことが、ツツェアの魅力をなしているんですね。彼は日常生活ではきわめて親切な人間ですが、その男がまるで個人的仇敵について話すかのようにその時の政治指導者について話すんですよ。同時代の政治的人物すべてについてです。彼は「自分と奴ら」というたちでしたね。彼は最後まで、歴史について話しているとき自分がその歴史の中心にいるということを確信していました。彼の幻想の体系に、その誇大妄想に入っていけない者は、彼のことを何も理解できません。彼と話していると、彼の自我がある種の絶対的なものであって、彼はあたかも国家か世界の支配者かのように話していることを受け入れざるをえなくなります。

    L:それは気取っていたのでしょうが、それとも真剣だったのでしょうか。

    C:彼はとても誠実でした。ツツェアは嘘を言う人間ではありません。話しているときも彼はずっと彼自身でした。純粋な人間で、思想の上でも生活の上でもシニカルになることができないのです。


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    ナエ・イオネスク(Nae Ionescu)


    L:あなたの世代全体に影響を及ぼしたもう一人の人物についてお話いただきたいと思います。その人物とはナエ・イオネスク――戦間期ルーマニアにおけるもっとも論争を呼ぶ人物です。彼はどのような人間でしたか。あなたは彼に指導を仰いでいたのですか。それはどれくらいだったのでしょうか。

    C:長期間にわたってです。私は彼と個人的に知り合ったのです。私はすぐに彼が本当に教養がある人物ではないと気づきました。彼の知的形成は完璧な、あるいは広範囲のものではなかった。彼は若い頃ドイツでよく本を読んだけれども、彼の講義はその若い頃に蓄積したものに基づいていました。しかしこの男の魅力は考えられないようなものだった。彼は征服者でした。面白いのは、彼が講義の準備に使った時間はたったの30分だけだったということです。彼はずっとジャーナリストでもあったので時間がなかった。そのせいで彼は何度も即興で講義をし、まさに当の講義の最中に大きな努力を行って思考していたのです。そのために彼は学生を巻き込んで講義を進めました。彼が多大な努力を払っていることはわれわれにも分からなかった。このような感じで、相互に緊張感があったわけですね。あるひとつの問題に彼とともに入り、彼とともに進む。このような教授と出会うことはざらにはないでしょう。彼は、われわれにとって日常的で親密なものとともに思考するすべをもたらしました。新聞から出発して――彼は非常に多くの記事を書いていました――、一気に形而上学的・宗教的問題を立てる。彼は何度もわれわれに次の講義では何を話せばいいのかと訊いてきましたよ。ある時、私がアイディアを出したのですが、彼は天使について語りました。講義が終わったあと、私をそばに呼んでこう言ったのです。「われわれが天使について話していたとき、私がずっと何を考えていたかわかるかい? 警察のトップになることを受け入れるべきかどうか考えていたんだよ」。ナエ・イオネスクは、カロル二世の復位に賛成するキャンペーンを展開することによって、亡命していたカロル二世の復位に際して決定的な役割を果たしました。そしてカロル二世は再び戴冠すると、即座にナオ・イオネスクを内務省に推薦したわけです。

    L:ナエ・イオネスクにとって、哲学と政治の結びつきは直接的なものだったのでしょうか、それとも二つは完璧に分かれていたのでしょうか。

    C:分かれていたと言うほうが近いと思います。彼には冒険家の側面があって、困難な問題に立ち向かうことを楽しんでいた。彼はバルカン的矛盾のすべてを体現していました。当時私は彼についての記事を『ヴレメア』紙に一つ書きましたが、それは彼をあまり喜ばせなかった。私はその記事のなかで、彼の知性と明晰性の度合いは、何かと同一化し、何かを信じることが不可能なレベルにある、と言いました。これほど鋭敏な人物にとっては、生はあまりにも複雑な遊びなので、一つの理念に単純化することができないのだ、と。

    L:彼はあなたや当時の若者たちに、政治的選択の面で直接的な影響を及ぼしたのでしょうか。

    C:もちろんです。特にエリアーデに対してね。どうしてそうなったのか申し上げましょう。国王にとってナエ・イオネスクはもっとも重要な人物で、多大な影響力を持っていました。しかしあるとき、何が理由なのか正確にはわかりませんが、彼は国王と――あるいは国王が彼と――決裂しました。そのときから彼には復讐しか念頭になかった。そうして彼は鉄衛団を支持するようになったのです。この行動はなによりまず私怨からなされたもので、政治的理由は二次的なものでした。われわれは彼の個人的冒険に引きずり込まれたというのは確かだと思います。彼の政治的選択への原動力は、結局のところ復讐にあったわけですからね。和解するという考えは彼にはなかった。王座を掘り崩すというのがいまや彼の唯一の関心事になり、これが最終的には彼を破滅させました。
    私が惹かれたのは彼の冒険家的な側面です。彼は一方では哲学者であり、もう一方では征服者だった。魅力に満ち溢れ、社交の人で、女性と派手な交際をし……。彼は莫大に金を浪費し、まったく躊躇せずに誰からにでも金を借りていました。あるとき彼は私にこう言ったことがあります。「金が欲しいなと思ったところに金があるんだよ」。また別のときには、「奴らだって聖人ではない。人のことは言えないさ」。彼にはギリシア人風の側面がありました。結局のところ、彼は何も信じていなかった。彼は没落する文明の代表者で、原始的野蛮が荒れ狂う国で鋭利さを実践する魅力ある人物でした。疑いなく彼はひとかどの「人物」でしたよ。彼をとなりにすると、他の大学教授たちは純朴な農民のように映りましたね。いずれにせよ、エリアーデは「精神的に(道徳的に)」彼と関わり合って完璧に間違いを犯しました。なぜならナエ・イオネスクという男は、目標や基準や権威にするべき人物ではなく、単なる冒険家であったからです。私の考えではエリアーデはこのことがわからなかった。エリアーデは一日中彼の側にいる生徒のようでした。「先生、先生……」という風に。

    L:ですがエリアーデは彼の助手であったのですから、それは当然のことではないですか。

    C:ナエ・イオネスクには助手を持つ権利がありませんでした。博士号を持っていなかったからです。彼は博士ではなかった……。

    L:ラドゥレスク=モトルとの騒動のことですね。彼はナエ・イオネスクにドイツでの博士号学位証書を見せるよう求めた……。

    C:彼が博士号を持っていたのか、それとも持っていなかったのかはわかりません。彼は持っていると断言したけれど、それを見た者は誰もいなかった。

    L:しかし、あなたや他の彼に近しい人たちにも見せなかったのでしょうか?「ほら、私の同僚たちは私が博士号を持っていないとか言うんだが、彼らの言いなりになって彼らに見せるのは嫌だけれど、君たちには見せるよ」、とでも言いながら。このようなことはなかったのですか?

    C:わかりません、私は見たことがない。でも私にとってこの問題は重要ではなかった。彼が博士号を持っているかどうかなんてどうでもよかったのです。ドイツではコンシェルジュさえも博士号を持っているんですよ。結局のところ、ナエ・イオネスクは全教授陣から嫌われていた。

    L:彼が学生たちから人気があったからでしょうか?

    C:おそらくそうでしょう。いずれにしても彼は大学でうまくやっていける人物ではなかった。彼は大学人ではありませんでした。

    L:彼の講義には多くの学生が聴講しに来たのでしょうか?

    C:ええ、たくさん来ましたよ。でも彼は講義にいつもやって来るというわけではなかった。それどころか講義に来るのは非常にまれでした。ある日、彼はわれわれにこう言いました。「おそらく君たちは、私がなぜ規則的に講義に来ないのかと訊くかもしれない。理由はきわめて単純です。君たちに言うべきことが何もないときには私は来ません」。

    L:彼は雄弁家でしたか?

    C:雄弁ではありませんでした。反対に、彼は直接的に話した。それが彼の魅力だったのです。彼はサロンで講義をすることもできたと思いますよ。彼はデカダンスの文明に属する人物でした。

    L:お訊きしたいのですが、あなたはエリアーデと違って、彼に対して距離をとっていたのですか。

    C:ええ、大いにね。私は自分がナエ・イオネスクの素朴な賛美者ではないということに気づいていました。『ヴレメア』紙で彼について書いた記事は背信的な称賛でした。

    L:ではノイカは?ノイカとナエ・イオネスクはどのような関係にあったのですか。彼はあなたがとった慎重な態度とエリアーデが行った信仰との間の中間にいたのでしょうか。

    C:ナエ・イオネスクはノイカを受け入れられなかった。ときおり彼はノイカが特別な演習に来るのを拒否しました。「いや、君は明日来てはならない」と言ってね。

    L:しかしなぜです?理解できません。

    C:彼らはギリシア人の生まれだったんです!

    L:ナエ・イオネスクはギリシア人だったのですか?

    C:言ってみれば彼はバルカン人でした。彼は私に自分はトルコ人だと言いましたが、本当のことはわからない。いずれにしても、ノイカは彼らとまったくうまくいかなかった。ナエ・イオネスクはノイカに我慢できなかったのです。

    L:ですがノイカはナエ・イオネスクを称賛していないでしょうか? ナエ・イオネスクの講義の編集に参加したのは彼だけです。ナエ・イオネスクの死に際して、彼はすでにパリにいたあなたに手紙を書いています。そのなかで彼はナエ・イオネスクとの別れがもたらした衝撃を嘆きながら表明しています。そしてこう手紙を締めくくっているのです――「なぜなら君も自分がどれほど苦しんでいるのか理解しないだろう」、と。

    C:たぶん、ノイカはナエ・イオネスクが自分を好んでいなかったことに気づかなかったのでしょう。

    L:シオランさん、哲学の文章を書く上でのあなたやエリアーデ、ノイカのトーンは、ルーマニア哲学に非アカデミックに記述する様式をもたらしました。直接的に、内臓から書くという、この個人的なトーンは、ナエ・イオネスクの影響なのでしょうか?

    C:ある程度はそうです。おそらく。

    L:何十年か経ちましたが、現在、彼の影響をどのように評価していらっしゃいますか。有益だったでしょうか、有害だったでしょうか。

    C:有益でした。というのも彼は大学に新しいトーンをもたらしたからです。彼なしの大学というのを私は想像できません。彼がいなかったなら、大学で私には馬鹿げた記憶しか残らなかったでしょうね。彼の存在は無二のものでした。



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    1940年代、『崩壊概論』の頃のシオラン


    L:あなたが大学を卒業なさったときには、もう人生の計画を建てていたのですか? あなたご自身で自らの道を切り開いたのでしょうか。

    C:私の人生での唯一の信仰は、自由であること、独立していること、まずもって職業に依存しないことでした。自分の望むことを行うのに成功しなければ人生に意味はない。私はこのことを最初から理解していたんですよ。私にとってすべてであった問題は、どのようにすれば自らの自由を守ることができるのか、というものでした。もし私がどこかの職場で働くことを受け入れていたとしたら、金を稼いで生き続けることはできたでしょうが、すべておしまいになっていたでしょうね。パリで私はたくさんの挫折した人たちに出会いました。彼らはとても才能があって素晴らしい人間だったけれども、職場が彼らを破壊してしまった。戦前のパリは、人生に挫折した人間にとって理想の街でした。特にルーマニア人は華々しいものでしたよ。それで私は、職業を得るという屈辱を避けるために全力を尽くしたのです。いかなる犠牲を払っても回避しようとしました。私は働いて自分を破壊するよりも、パラサイトの生活を送りたかった。それは私にとってドグマのようなものでした。自分の自由を守るためにはどんな貧困も受け入れました。パラサイトの人生とは、つまり楽園のような素晴らしい人生ということですが、これだけが私には唯一耐えられるものだと思えたのです。

    L:おかしなことに、あなたはつねに敗者を称賛されますが、あなたは挫折しないためにはいかなることをもやってのけたようです。あなたが受け入れた屈辱とはどのようなものでしょうか?

    C:私は永遠の学生の人生を受け入れました。私は学生食堂で食べていましたが、学食にいる学生のなかでももっとも年をとっていました。私の夢は一生奨学金で暮らすというものでした。これだけが私の気に入るものでした。永遠に学生であり続け、学生の地位を利用し続ける……。奨学金は職を得ないための唯一の方法でした。この考えを私が抱いたのは、1936年、ブラショフでのことです。この年は私が働いて給料を得た唯一の年です。私は哲学の教師でした。この時私はもう働きたくないものだと思った。

    L:あなたが教室のなかで哲学を教えている光景を想像するのは難しいです。当時のあなたの生徒の一人で、今はホノルル大学の教授となっている人がいますが……

    C:シュテファン・バチウですね……

    L:あなたが高校でどのような先生だったのか、彼が教えてくれました。

    C:私は教科書をまったく無視して授業を行っていました。ただうわごとだけをべらべら喋っていた。私がブラショフを離れるとき、高校の校長は私から逃れられた喜びに舞い上がっていましたよ。でも申し上げますが、その時私は自分がもう働きたくないと思っていることに気づいた。五分たりともね。

    L:働かないでパリでどうやって生きていくことができたのですか?

    C:申し上げたでしょう、奨学金ですよ。戦前、パリに来たとき、ここでの生活は楽園のようなものでした。ホテルは非常に安くて、人生を半分挫折しかけている知的な外国人学生だけで埋め尽くされていた。戦前のパリが持っていた魅力を想像するのは不可能でしょう。私はここで自分の理想、パラサイトとして生きるという自分の理想を実現できると思った。「パラサイト」というのは適切な言葉ではないかもしれない。周辺的なアウトサイダー、マージナルな人間として、と言えばいいでしょうか。言葉の通常の意味で働かない人間として、です。

    L:よくわからないのですが、あなたは何歳まで奨学金を受給していらっしゃったのですか?

    C:ちょっとお待ちください、正確なところを申し上げましょう。……私は戦前フランスに来てから40歳まで学食で食事をしていました。ある晴れた日、私は呼び出されて、私は実際には学食に通う権利がないこと、27歳かそのあたりまでという年齢制限があることを聞かされました。その時私は40歳だったんですよ。私は年齢制限があるなんて知らなかった。私はソルボンヌに登録していて、学生の特権を大いに持っていると考えていたのですが、「あなたはもう資格がないですよ」、と言われたわけです。本当に私は知らなかった。私は死ぬまで大学の学食で食べようと計画していたんですからね。これが私にとっていかに大きな失望だったか。突然計画がおじゃんになってしまった。私はすでに『崩壊概論』を出版していたけれども学食で食べていて、学生たちが新聞に載っている私についての記事を見ながら言い合うんです。「こいつはなんなんだろう?本を出していながら学食で食べているぞ……」。まあとにかく、私は40歳まで学生として生活することができて、学生生活の恩恵を被っていたわけです。これはルーマニアではおそらく不可能だったでしょう。フランスで私は、外国籍の学生という地位を可能な限り利用しました。それだけの話しですが、同時にそれだけで私は自由だった。私には大した野望もなかったし、偽りのプライドも捨てていた。そして屈辱をさして感じることもなく、永遠の学生の状態を受け入れたのです。

    L:当時あなたはどこにお住まいでしたか?

    C:カルチェ・ラタンのホテルの、小さい一室ですよ。全部で五つのホテルに住みましたが、どれもここ(オデオン街のシオラン宅)からとても近いホテルです。私の理想はカルチェ・ラタンのどこかのホテルで死ぬというものでしたね。

    L:死ぬまで学食で食べると決めていらっしゃったのですから、筋が通っていますね。

    C:その通りです。私が滞在した最後のホテルでは、小部屋を二つ持っていました。屋根裏でしたけどね。鍵を下にやって、他人がやってきても部屋にいないように見せかけて、引きこもって本を読んでいました。そのうちホテルの土地が売られることになってしまって、退居しなければならなくなった。そのとき、もうこんな風な生活を続けていくことはできないだろうと思い、問題を起こさない住居をどうやったら見つけることができるか考え始めました。どうやって見つけたかお教えしましょう。今から30年ほど前、私は『歴史とユートピア』を書きました……。

    L:1960年に出版されましたね。

    C:そして不動産を扱っているある婦人と知り合いまして、彼女は文学に理解があると自負していました。本が出版されたとき、私はシモーヌ(シオランの伴侶)に言いました。「あの婦人に見本を贈ったらどうだろう」。「見本を一つ処分したいのなら、贈ればいいでしょう」と彼女は答えました。三日後にその婦人が来て、このアパルトマンを提案してくれたというわけです!その時からここに住んでいますが、その賃料というのが……

    L:アイスクリームの値段。

    C:その通りです!このことは私にとって大いなる成功です。

    L:1974年にあなたはここを失うかもしれない地点に追い込まれましたね。所有者がこのアパルトマンを要求したのでした。あなたは弟さんへの手紙のなかで、自分に法律の知識がないことに後悔し、法律の教科書を読み始めた、と書いていらっしゃいます……。結果としてあなたは諦められたようです。「結局、この年になってみると、もう生きている人間ではなく、ただ生き延びている人間だよ。一番ふさわしいのは暫定的状態で生きることだ……」。とすると、70年代にあなたは、60歳でフランスの路上生活者になる危険にさらされていたということでしょうか。

    C:よくわかりませんね。たしかなのは、私がここの地区の水準の賃料を払うことはできなかったということです。しかし、私が譲歩しなかったのは大いに好運でしたね。シモーヌは出ていきたがった。私は拒否しました。私をここから出したければ警察を呼んで逮捕させるんだな、と言いましたよ。所有者は出ていかない私を見て、どうすることもできないと思ったのでしょう、最終的に私を放置して、平穏が戻りました。もし彼らがあくまで私を追い出そうとしていたのなら、文学の世界でも騒動が起こったでしょうね……。いずれにせよ、こうやって私は物質的問題を解決したのでした。
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    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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