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    シモーヌ・ブエとガブリエル・リーチェアヌの対談

     今回は、シオランの生涯の伴侶であるシモーヌ・ブエさんの、ガブリエル・リーチェアヌによるインタビューです。



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    シモーヌ・ブエ


     シモーヌ・ブエ(Simone boué)さんは1919年、フランスのヴァンデ県で生まれました。ポワティエ大学で英語・英文学を学び、以下の対談にもあるとおり、アグレガシオン(教授資格試験)に合格、リセ(高校)の教授となります。シオランとは1944年に知り合い、それ以降、シオランが死ぬまで50年以上生活を共にします。
     シモーヌ・ブエさんはシオランと長年連れ添ったパートナーですが、結婚はしていません。これは他のインタビューで明らかにされていることですが、彼女はシオランと共同生活をしていることを、家族になんと死ぬまで隠していたそうです。家族は彼女の死後になって彼女がシオランと共同生活していたことを知り、とても驚いたそうです。この「二重生活」について彼女は他の箇所で言及していますので、今後それも翻訳したいと思っています。
     シオランの死後は、彼の『カイエ』を発見し、これの出版を準備しますが、『カイエ』の出版を見る前に、1997年9月11日、海水浴場での不慮の事故によって亡くなりました。
     今はパリのモンパルナス墓地に、シオランと同じ墓石の下に眠っています。



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    ***



     ここでシモーヌ・ブエの肖像を描くつもりはない。私はただ、シオランの成功の背後には、彼女という不可視の者の存在があったと言いたいだけである。英雄の栄光の影には、足取りを見守る誰かがいるものだし、ホメロスの英雄の勝利は、舞台裏での神々の祝福あればこそである。神々は時には雲、時には鳥の姿をとって介入し、また時には単純に、槍や矢の軌道を逸らしてやったり、反対に突き刺してやったりする。後には天使がこの役割を果たすようになり、配慮されている者の眼には見えない保護者としてふるまうのであった。しばしばあまりにも見事なまでに起こるのだが、偉大な人々の人生においては、神々や天使がしたのと同じように、その「作品」を創るのが可能な状況を整える何者かがつねにいるものである。その者は何も望むことなくそれをなし、誰からも称賛されることもない。彼らの行いはほとんど知られることなく終わる。

     シオランはある時期奨学金を貰って生活をしていたが、しかし本当の奨学金、運命のはからいによって一生涯受け取ることになった奨学金は、「シモーヌ・ブエ」という名を持っていた。幾度となく、特に1990年以降にシオランを訊ねることによって、私は彼女の知己を得ることになった。「私の友」(Mon amie)、シオランは彼女のことをそう言って紹介してくれた。彼女は、面白いと思ったシオランの日々の言動を語ってくれ、その話のなかでシオランはいつも立派な姿をしているとはいかず、いつも隣にいる彼をからかうのであったが、その愛情に溢れた光景はとても美しいものだった。彼女にはシオランと同じようなユーモアの感覚があり、二人の言葉の応酬を聞くと、これが趣味のよさというものか、という感慨を誰でも抱かざるをえないのだった。私は何度も彼らと夕食の席を共にした。1994年、彼女に短いインタビューの録画を頼んだとき(そのときシオランはもうブロカ病院に収容されていた。そして私はソリン・イリエシュとちょうど同じ時にパリに居合わせたのだった。シモーヌは彼のことを、1990年6月にシオランとの対談を録画したときに知っていた)、彼女は快く承諾してくれた。ただし、録画せずに、音声だけという条件つきで。すでに機材をオデオン街の小さなアパートの部屋に設置してしまっていたソリン・イリエシュが、ビデオカメラを帽子で隠さなければならなくなったことを思い出す。そうしてシモーヌはインタビュー中、たえず笑いながら、皮肉を交えてコメントをしてくれたのである。

     その前の日の晩、モニカ・ロヴィネスクから、明日11月18日がシモーヌの誕生日だということを聞いた(モニカの誕生日は11月19日であるから、おそらく何度も一緒に祝ったことだろう)。正直に言うと、このインタビューにかける私の期待はかなり大きいものだった。しかし、私はシモーヌから、50年もの間そばに居続けた人物について、特別なことを聞くことに失敗した。私たちが話題にしている当の人が、寝たきりの病人であること、このことがインタビュー中ずっと奇妙な感じを与え、突っ込んだ話を訊きづらくしたのだった。ある意味では、彼女はつねに一貫していたとも言える。彼女は一貫して不可視の者であり続けた。けれども、彼女という「隣人」から語られる光景に現れるシオランは、この上なく生き生きとしている。

    ガブリエル・リーチェアヌ




    ***



    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):今日は1994年11月18日です。シモーヌ・ブエさん、あなたの誕生日であり、そしてあなたがシオランと知り合った日からちょうど50年になる日ですね。

    シモーヌ・ブエ(Simone Boué):ええ。それは1944年11月18日のことでした。私はフォワイエ・アンテルナシオナル(Foyer International)の学食の列に並んでいて、いつも遅れて来たものですから、その時もちょうど閉まる直前に着いたのです。シオランは私よりも遅れて来て、私のちょうど後ろに並びました。

    L:それはどこで起こったのですか?

    B:サン・ミシェル大通りです。1階に学生食堂がありました。利用するには用紙に日付などの必要事項を書かなければいけないんですが、そのときシオランが私に近づいて来たんです。私は前から彼が気になっていました。

    L:彼のどのあたりが気になっていましたか?彼には何か特別な感じがあったのでしょうか。

    B:ええ、彼はいつも一人で、全然フランス人っぽくありませんでした。それが私にとって(笑い)、むしろポジティブなことだったんです。お分かりになるでしょう?若いころには、普通とは違ったものに心を惹かれるものです。

    L:彼にはエキゾチックな雰囲気がありましたか?

    B:エキゾチックは言い過ぎですね。でもまったくフランス風ではありませんでした。たぶんロシア風な……。

    L:シオランはその時学生だったと思いますが。

    B:ええ……いえ、そうですね……はい、博士課程の学生でした。そうでなければ学食にいる理由がありませんから。とはいっても、彼にとって重要なのは、学生という身分であることで、学食で食事ができるという点にありました。
    それで、彼は私に近づいて来て、今日は何日かと訊いてきたんです。用紙の必要事項を埋めなければなりませんでしたので。ええ、私は答えることができましたよ、何といってもその日は私の誕生日だったんですから。11月18日です。そうやって私たちは会話を続けて、お互い知り合ったわけです。私たちは一緒に食堂を出て、その後も会うようになりました。

    L:間違いでなければ、当時シオランは英文学、特にシェリーの詩に熱中していて、そしてあなたは英語の勉強をしていたのですから、おそらくあなたがたには会話の種には困らなかったと思いますが……。

    B:彼は以前から英語を勉強していました。私たちが知り合った時、彼には「ミス」(Miss)と呼ばれていた先生がいて、イギリス人の年配の女性――実際はアイルランド人でした。当時はドイツ軍占領下でしたから、イギリス人がフランスにいるわけもありませんでした。

    L:彼は「ミス」先生にお金を払うことができたのですか?

    B:それが、彼の支払いは本当に少なかったんですが、彼女は特に彼のために時間を割いてくれたのです。何と言ってもシオランは非常にもてましたし、さらにしょっちゅうフランス人の悪口を言うものですから、アイルランド人のご婦人を喜ばせないわけがなかったのですね。思うのですが、あのご婦人は彼にちょっと愛情を抱いていたようですね。先ほど申し上げたように、彼にはフランス人風でないところがありましたから。そこにアームチェアがあるでしょう?それはもともとそのご婦人のものだったのです。

    L:当時シオランはどこに住んでいましたか?

    B:ホテル・ラシーヌです。彼にはちょっとした奨学金がありました――どんな奨学金か正確には知りませんが。

    L:彼はどんな風に過ごしていたのでしょう?大いに本を読み、書いていましたか?彼には計画があったのでしょうか。フランス語で書くという考えに惹かれていたのですか?

    B:ああ、いえ、それはまったくありません。彼と知り合ったとき、強く印象に残っていることがあります。時々、彼はルーマニア語の聖書を読んで、暗闇の世界に入って行きます。その後、彼は読書をやめて、筆をとってルーマニア語で書き始めます。そうして一ページも書かないうちに書くのをやめてしまうと、彼はまったく様変わりして、快活になり、口笛さえ吹くようになるのです。あの時期、エリアーデがポルトガルから小包を送ってくれていて……。

    L:エリアーデは当時リスボンの大使館に勤めていましたね。

    B:ええ、その通りです。小包のなかには特に煙草のキャメルが入っていました。シオランは夜バーの入り口でその煙草を売っていたんですよ。そのおかげでシオランは月の家賃を支払うことができたんです。考えられないことじゃありませんか。あの時期のことをよく憶えています。彼が書き物をする机の下に、スーツケースがひとつ置いてありました。いつルーマニア政府に動員されてもいいように準備してあったのです。彼がルーマニアを去る際武官の人にこう言ったそうです。「私を当てにしてもらってもいいですよ。何かあった時に状況をなんとかできるのは私だけです」。いずれにせよ、シオランが書き物をしていたときに足をのっけていたそのスーツケースを見る度に、私は怖くなったものです。

    L:シオランの英語と英文学への関心はどのくらい続いたのですか。

    B:非常に長く続きました。ずっと、と言ってもいいくらい。彼は私と一緒に英語の講義に出て、出席者のなかで非常に目立っていました。なぜかというと、彼が帽子を被っていたからなんですよ。当時フランスでは帽子を被る人は誰もいなかったのです。同じように彼は厚手の素敵なコートを着ていましたが、フランス人はそういう服装をまったくしていませんでした。あのような時期ですからね。みんな熱心にノートを取っていましたが、シオランはまったくノートを取りませんでした。そうやってみんなが彼を好奇心を持った目で見ていました。実を言うと、私もシオランも、講義にちゃんと出ていたというわけではありませんでした。

    L:彼のどのようなところに一番惹かれましたか。彼の考える仕方、語り方でしょうか。彼には何か特別なところがありましたか。

    B:ええ、とてもね!彼といると驚きの連続でした。彼は物事を見る際にまったくの独自の仕方を持っていて、時には本当に細かいところまで観察するかと思うと、時にはまったく見ないままでいるのです。ええ、あんなに面白い人に会ったことは一度もなかったと言えるでしょうね……。

    L:彼はいつもアイロニーに溢れていましたか?彼はいつも同じ調子でしたか?それとも……。

    B:同じ調子?ご冗談を!その反対です。申し上げましたでしょう。いかに彼が突然暗い気分に落ち込んで、一ページを書き上げることで、いかに解放されたか、ということを。
    時々私たちは外に出て、とくにリュクサンブール公園に行きました。あそこでシオランはルーマニア人の友人と会っていたのです。あの時私は初めてルーマニア語の下品な言葉を聞いて、それと知らずに憶えはじめました。もちろん、私には彼らが何を言っているのかわかりませんでしたが、でも聞き取ったいくつかのフレーズを繰り返すことはできました。それで、あるとき、おそるおそる、「『尻の穴を舐めろ』(pupa-ma-n-cur)ってどういう意味なの?」と訊いてみたのです。彼らは全員笑い出して、私の発音がトランシルヴァニアのアクセントだったと言ってくれました。これは私が憶えた最初のルーマニア語の下品な言葉でしたね。

    L:気を落とされると申し訳ないのですが、今のあなたの発音は紛れもなくパリ風のアクセントでしたよ。

    B:(笑い)腹立たしいですね!

    L:教えていただきたいのですが、シオランのような人間と50年間も共に過ごすというのは、どのようなことなのでしょうか?実りあるものでしたか?喜びでしたか?それとも反対に、苦しいものでしたか?このようなことをお伺いするのは失礼かも知れませんが……。

    B:実のところ、私たちはまったく異なった生活を送ってきました。私は教師でしたから、考えることは一つだけです。明日も早く起きなければいけない。そしてまさにこのことから、私は不眠にもなりました。彼は、反対に、多くの人々と会って頻繁に外出し、夜遅くに帰ってきました。最初のころ、彼が知り合った人を私は知りませんでした。私たちはほとんど反対の時間に生きていたからです。とはいえ、もちろん(笑い)、今では会うようになっています。

    L:ミショーやベケットとは知り合いにならなかったと仰るのですか?

    B:いえ、もちろん知り合いましたよ。でも今私は戦後まもなくの頃の話をしていたのです。私はまずエリアーデと知り合いましたが、とても面白かったのは、シオランが人を紹介する際の、まったくフランス的でないやり方でした。彼はひどく誇張するのです。「君はもっとも偉大な作家と知り合うことになるんだよ」、といった風に。でもこのやり方は、刺激的で、人をわくわくさせるものでもありました。

    L:シオランの著作の暗い色調と、日常生活で放つ陽気さとの間の矛盾に驚いたことはありませんでしたか?彼は笑うことが好きで、他人を笑わせることも好きだという……。

    B:シオランの著作のなかに何か強壮剤のようなものがあり、いたるところにユーモア感覚が潜んでいると言う人は、決して少数ではありません。実のところ、彼の気分は非常に変わりやすいのです。あるときは虐殺でもしかねない気分ですが、5分もすると笑い出しはじめる、といったこともあります。

    L:彼が違う言語で書くことを、違う文化に属すことを決めたときのことを憶えていらっしゃいますか?

    B:その兆候はありました。ある日、「誰も知らない言語で書くなんて何の意味もない」と彼が言うのを聞いたことがあります。

    L:彼は「小さな文化から来た者の傷付いたプライド」を持っていましたか?

    B:疑いなく持っていました。

    L:彼は言葉を変えるに際して苦労しましたか?

    B:これは彼自身が言っていたのですが、多くのルーマニア人と同じように、彼はフランス語が完璧に出来ると思っていました。ですが始めてみて、そうでないことに気付いたのです。彼は友人の一人に原稿を見て貰いましたが、すべて書き直すよう言われて、シオランはひどく腹を立てていました……。

    L:ですが、あなたの意見を聞こうとはしなかったのですか?

    B:私はその時期ミュールーズにいたのです。私が得た最初のポストでした。それは戦争が終わって間もなくのことで、鉄道が通る高架橋が爆撃で破壊されていました。ミュールーズからパリへは12時間かかったのです。ですから、私たちはあまり会えませんでしたし、シオランのフランス語での最初の本の原稿をめぐる話に私は関わらなかったのです。

    L:それでは、シオランがフランス語に問題を抱えていたのは、最初の著作、『崩壊概論』だけであったと言ってもよいのでしょうか?その後、彼は完璧にフランス語をものにしたのでしょうか。こう申し上げるのは、私がこの時期、シオランの言語的アイデンティティの変化の時期に強く関心を抱いているからです。二冊目の本は自然に出てきたのでしょうか?

    B:二冊目の本は、ご存じのように、アフォリスムの著作でした。ですからある意味で、シオランはどの文章にもより容易に取り組めたはずです。

    L:「『否定』が私の人生に最初から入り込んでいた」、とシオランは好んで言っていますが、ブエさん、あなたは彼の生の哲学、彼の懐疑主義、この世界と生をすべて覆い尽くす彼のペシミズムとうまくやっていくことが出来たのですか?この世界の美しい側面が、少なくとも著作のなかでは、完璧に無視されているのですから……。

    B:彼が世界の美しさから逃れられたとは決して思いません……。

    L:しかし、著作のなかに現れているのは生の否定的な側面のみです。

    B:私がこう言うのは、なにかある「ヴィジョン」に依拠してではないのです。私はつねに彼の人格の「陽気な」側面に居合わせてきて、あなたが仰っているような側面についてどうこう思ったことはあまりありませんでした。私が彼の著作のなかで関心があるのは、その文章表現の完璧さです。

    L:フランスで著作活動を始めたころのシオランは、まったく無名の存在でした。彼は夢見、悩んでいたのでしょうか。彼は何かプランを持っていたのか、あるいは文化のシーンでの自分の未来について、不安に駆られていたのでしょうか。

    B:シオランは計画というものを一度も持ったことがありませんでした。彼はプランというものをまったく馬鹿げたものとみなしていました。実際、彼はその日その日を生きてきたのです。

    L:ある時シオランは、名声を得た者は軽蔑するに値すると言ったことがあります。彼はどのようにして、自分が有名になり、フランス語の偉大な文体を持つ作家と称賛され、つねに文学賞を与えられながらそれを拒否するといった事態を経験したのでしょうか。

    B:ですが、それはごく最近になって起こったことです。シオランは、人前に出ると「イヨネスコの友人」として紹介されると繰り返し語っていました。時が経つと、今度は「ベケットの友人」になりました。長い間、彼は「彼自身」としては存在しなかったのです。このことは彼を面白がらせましたが、私が思うに、傷ついてもいたと思います。人間として当然のことです。『オマージュの試み』でようやく彼は本当に世間に名前を知られるようになりました。最後から二番目の本でやっとですよ。その後『告白と呪詛』が出て、それで終わりです。その後のことはあなたがご存じの通りです。
    彼がある日、クロード・ガリマールと会ったときのことをお話しましょう。シオランは、自分がいまだに『崩壊概論』の著者であると言われることにうんざりしていました。彼は『概論』のあとに書き続けてきた本がなぜまったく無視されているのか、理解できませんでした。だから彼は出版社に、どうして自分の本がポケット・ブックにならないのか、訊きに行ったのです。シオランは、自分の本がポケット・ブックになって若者に読まれることを望んでいました。そのせいで彼はミショーと議論になったくらいです。ミショーはポケット・ブックに完全に反対の立場でしたから。それで、シオランはガリマールのところに行って、文庫化の提案をしたというわけです。ガリマールは引き出しから薄い書類を出して来ましたが、それはシオランの全著作の収益表で、笑ってしまうほどのものでした。「シオランさん、この表をご覧ください、こんな売り上げでどうしてポケット・ブックに出来たりするものですか」。

    L:では当時、あなたたちは生活面ではとても控えめな暮らしをしていたと理解してもよろしいのでしょうか?

    B:(笑い)ええ、とても控えめ、そう、とても控えめでしたね……。もっと正確にいえば、私たちは平均以外の暮らしをしたことは一度もありません。教師の給料がありましたし、私たちはほとんどお金を使いませんでした。このアパートの部屋の家賃もかなり安いものですが、これはシオランのおかげです。それ以外の彼の功績は、私をアグレガシオン、教授資格試験に合格させたことですね。私は試験勉強をまったくしていませんでした。私が試験会場に行ったのも偶然からで、両親が試験勉強のためのお金を送ってきてくれたのです。この両親の愛情によって、私は会場に行くだろう、そして試験に落ちて、教授資格のない教師のままになるだろう……と私は心のなかで言ったものです。それで私は筆記試験を受けて、まったく思いがけないことに、私は合格者リストのなかに自分の名前を発見し、口頭試験に進むことになったのです。私には話すことだけが恐ろしかった、単純に話すことができなかったからです。だから私は口頭試験には行くまいと考えていました。そうしているとき、私はある女性に会って、彼女はシオランの友達で、何かの医者の仕事をしていましたが、その彼女が、もし試験に行きたくないのなら、診断書を書いてあげると言ってくれました。そのときシオランが話に割って入って、彼女に、診断書を出しては絶対ならないこと、そして私はいかなる犠牲を払ってでも試験に行かなければいけないと言い出したのです。結局私は行きましたが、合格の見込みがまったくないとわかっていたので、落ちるだろうと思いながら行きました。課題はテニスンの「イン・メモリアム」でした。私はこの詩を本当に退屈だったので、読み切らずに斜め読みで済ませていました。私はどうすればいいのかわかりませんでした。そのとき私は、前にシオランが私に語ったテニスンについてのアネクドートを思い出しました。シオランは伝記なら何でも読むたちだったので、作品の理解にどれほど役に立つのやらわからないそうしたエピソードを知っていたのです。それによれば、テニスンがあるパーティーに招かれたとき、主人の書棚を眺めて、そのなかに自分の本がないのを見ると、すぐに帰ってしまったということです。これにはもちろんシオラン自身の苦渋が投影されていました。そのあと、私はシオランに、彼から聞いたアネクドートを話したこと、そして――彼は非常に満足げでした――私が試験に受かったことを言いました。すると彼は、「毎月の終わりに教授資格があるときとないときの給料の差額を貰いたいもんだね」と言いました。もちろん(笑い)、私は何もあげませんでしたよ。

    L:本当に何も?

    B:いえまあ、大したものではありませんよ。私たちは本当に少ないお金で生活してきました。時々、私たちも旅行することができたのですが、でもその有様といったら信じられないものでした。私たちにはホテルに泊まるだけのお金を持たずに出かけたのです……。私はもう少しくらいならお金を使えると言ったのですが、シオランは嫌がりました。彼には、なんと言うか、とても「スパルタ的」なところがありましたね。

    L:そういうことになったのは、生活苦のせいでしょうか、それとも彼の「スパルタ主義」のせいでしょうか。

    B:当時の彼の収入は本当に少ないものでしたから……。

    L:収入ですか?彼にはなんの当てもなかったはずですが。

    B:奨学金ですよ。そしてその後には例のボーリンゲン財団の話がありました。このことについて彼は手紙のなかで語っていましたね。多分弟さん宛のものだと思います。ボーリンゲン財団が、ヴァレリーの著作集を出版する際に、シオランに序文を依頼したのです。結局財団はシオランが書いた序文を拒否しました。十分に称賛的ではないからという理由です。いずれにしても、ちょっとしたお金が入ってくることはときどきありました。

    L:しかし、本はどうなのですか。どれほど部数が少なかったとしても――2000部から3000部と聞いていますが――まったくお金にならなかったわけではないと思いますが。

    B:以前6月にお会いしたとき、たしか仰っていましたね。彼のデビュー作『絶望のきわみで』が、ルーマニアで1万5000部売れたとか……。

    L:15万部です。

    B:ほんとうに驚きです!

    L:それには理由があります。それは1990年の出来事なのです。シオランの著作がルーマニアで出版を禁止されてから45年後のことです。今はもう部数は「正常化」し、2000部にまで落ちこみました。

    B:私もガリマールから報告を受けました……これは『崩壊概論』の最新の版ですが、部数は3000部です。

    L:先ほどの質問に戻らせていただきたいと思います。あなたがシオランの傍で生きてきた50年間の人生を評価するとしたら、どう評価なさいますか。

    B:私には評価することができませんし、しようとも思いません。一つの人生を評価するなんて、どうしてそんなことができるでしょう?

    (1994年11月18日)
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    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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