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    シモーヌ・ブエのインタビュー その2

    シオランの生涯の伴侶であるシモーヌ・ブエとノルベール・ドディル(Norbert Dodille)の対談の翻訳の後半です。

    その1はこちらです。


    ***


    ノルベール・ドディル(Norbert Dodille):シオランはカイエのなかであなたのことを語っているのですか? 彼があなたについてどう思っていたのか、知ることができたのですか?

    シモーヌ・ブエ(Simone Boué):いいえ。彼は私についてほとんど何も語っていません。これはとても、とても奇妙なことだと思います。私たちは、いつも日曜パリ郊外でいっしょに過ごし、昼の間はずっと散歩をして、25キロか30キロか歩いていました。私はいつも彼のそばにいました。でも日記では彼はこう書いているのです。「田舎で素晴らしい一日。『私は』何キロも歩いた……」と。でも私もそこにいたのです。私は今でも完璧に思い出せます。私が出てくるのは、本当にときどきです――彼はあるご婦人と出会って、こう書きます。「その婦人は『私たちに』言った」。そして彼はそういう風に書くのがよいと思っているのです。これはとてもおかしなことだと思います。彼は本当に自分のためだけに日記を書いていたのですね。そういうものですから、いくつかのくだりは、届くあてのない便りになっています。

    D:対談のなかでも、シオランは、自分のプライベートな生活や、あなた自身のことや、自分とあなたとの関係に関しては全然話そうとしませんでした。

    B:彼はまったく私のことを話しませんでした。まあ、私たちは完全に切り離された違う生活をしていた、というのもありますが……。私のほうも、高校教師でしたが、家に帰ったときは、高校で私が何をしたかというような、彼には全然興味がない話をすることもまったくありませんでした。

    D:それでも、彼にとってあなたは欠かせない存在だったのではありませんか。

    B:欠かせない存在だったのかどうか、私にはわかりません。私がいなくても、彼はうまくやっていったでしょう。

    D:彼があなたのことを語らないのを見るのは、少しばかり辛いことではありませんでしたか。

    B:いえ、私は単に驚いただけです。それに、私は絶対に未亡人、それも自分の地位を悪用する未亡人にはなりたくないんですよ。だから、このインタビューを受けるのもあまり気が乗らなかったんです。

    D:しかし、彼が友人と自宅で会うときは、あなたもいっしょにいらっしゃったのでしょう。

    B:ええ、もちろんです。友人たち、とくに翻訳家たち。シオランの翻訳家たちについて、一冊の本が書けると思いますよ!1950年ごろには、シオランはマダム・テゼナス(Mme Tezenas)のサロンに頻繁に通っていました。私はといえば、夜更かしをしないというのが私の強迫観念でした。次の朝には授業がありましたからね。それに、私はとても不作法で引っ込み思案ですから。ですので、彼は私とはまったく独立に外出していたのです。だからジャニーヌ・ヴォルムス(Jeannine Worms)は、私の存在など知らないまま、その時期にシオランを客として招いたのですね。シオランは決して私のことを話しませんでしたし、私のほうでも、家族には彼のことを絶対に話そうとしませんでした。

    D:あなたのご家族は、シオランのことを何も知らなかったのですか?

    B:ええ。私はこんな風に言いたくなかったんですよ。「私には親しい人がいるんだけど、彼は無国籍で、無職で、一文無しで……」。もし私の両親の心がとても広くて、認めてくれたとしても、彼のほうが両親に言うことを認めなかったでしょうね。

    D:では、彼はあなたのご両親のことをまったく知らなかったのですね。

    B:そうです。問題が難しくなったのは、『歴史とユートピア』の出版のあと、シオランのおかげで、私たちがここのオデオン街のアパートに引っ越してきたときです。『対談集』のなかでシオランが語っているのでご存じでしょうが、彼がここのアパートの管理人の女性に自著を送ったところ、彼女がこの部屋を私たちにくれたのです。これが自分の最大の文学的成功だと彼はいつも言っていました。おかげで、私は自分の住所をこの部屋と書くしかなくなり、私の母には(父は当時もう他界していました)、同居人を見つけたと言っておきました。そういうわけで、母が私を訪ねにこの家に来たときには、私たちは家具を大移動して、この部屋がシェアされているものだと母に見えるように努力しました。

    D:そのような生活、つまり、独立していながら養われているという生活は、シオランにとってあまりに都合がよすぎる、と考えることはありませんでしたか? 実際、安定した関係を持ちながら完全な自由を保持している、世帯を持ちながら独立・独身であるというのは、あらゆる男たちの夢ではないでしょうか。彼はあなたと共にいることで、とてつもない幸運を手にしたと言えるのではないでしょうか。

    B:私はそんな風に考えたことはありません。「独立している」とか、「安定した関係を持つ」とか、私は物事をそういう風にとらえたことはありませんし、シオランもそうだったと思います。この件について、あなたに何か申し上げることは私にはできません。
     コンスタンティン・ノイカ(Constantin Noica)のことを思い出します。彼が初めてここに来たときのことです。彼については、それ以前にも聞いたことがありました。シオランは彼にとても長い手紙を書いていて、そしてノイカはとても鋭敏な、たぶん少しばかり鋭敏すぎる精神を持ち合わせていました。私と二人きりになったとき、彼はだしぬけにこう言ったんです。「どうやったらシオランに耐え続けていられるんです?」。私はこう返答しました。「彼だって私に耐えているんですよ!」。
     シオランは、いつもまったく予測不可能な人でした。これには良い面もあります。彼とずっと一緒にいても、飽きるということがありませんでしたからね。ただ厄介な面もありました。彼といると、何か計画を立てるということがまったくできないんです。私にとってこれは問題でした。というのも、それでも私は予測しなければなりませんでしたから。彼は彼独特の食餌療法を持っていて、すべてはその食餌療法の枠に従って行われました。彼は頻繁に市場に行っていました。私たちがディエップに行くときは、この家を空にするのですが、シオランは電気を全部消すとか、冷蔵庫を完全に空にするとか、そういったことをとても神経質に気にしていました。ディエップに着くと、私があれこれ必要なものを買い揃えていきます。やっと準備ができたと思ったら、シオランが「さあ、帰ろう!」と言うんです。それで、私たちはディエップを立って、ここに帰ってきて、そして空の冷蔵庫をシオランがまた埋め始める、という具合です。

    D:その気まぐれとわがままに、あなたは耐え、ついていったわけですね。あなたが怒ったことはなかったのですか。「こんなことなら、もうヴァンデに帰ります!」と言うような。

    B:いえ、そんなことはありませんよ! ヴァンデに帰りたいと思ったことはありません! 腹が立つこともありましたが、共に暮らしていかなければならないのなら、いつもある種の妥協をすることになるのです。それにシオランのほうでも、いろいろなことに耐えていたと思いますよ。たとえ、食事療法を必要としない私のほうが生きやすかったので、その分だけ、私が多くの妥協をしなければならなかったとしてもです。

    D:あなたたちはディエップで小部屋を手に入れたと聞きましたが。

    B:ああ、あれは物置小屋と言ったほうがいいですね。それは崖の上に立てられた城に面していまして、部屋は小さいですが、その城が見えるんですよ。その部屋で二人で何日か過ごそうとしたんですが、でもその部屋はとても小さくて、そんなに長くいたら互いに殺し合いを始めかねないほどでした。それにシオランは、昼の何時だろうが夜の何時だろうが、好きな時に起きて好きなときに寝る、という習慣がありましたから、二人で過ごすのは無理だと悟ったわけです。その物置小屋には、屋根裏にちょっとした空間がありまして、屋根を通して日光が入ってくるものですから、私たちはそこに湯沸かし器を置いていました。シオランはその空間を何かに使おうと思い立ちました。彼は壁を切り抜いて、何枚かの木の板をぞんざいに打ちつけました。そうやって屋根窓を作ると、そこから城の素晴らしい景色が目に入ってきました。窓が額縁のように城を飾っていて、しかもそこからは城しか見えないのです。シオランはちょっとした台を作って、その上に椅子を置いていました。
     その後、私はヴァンデに向けて出発しました。帰ってくると、シオランの様子がおかしくなっているように感じました。11月になって、5日間の休暇を取得できましたから、私はシオランにディエップに行こうと提案しました。すると彼は「私は行かない」と言い出したのです。私は怒って一人で出発しました。次の日、彼は私を追ってきて合流し、こう説明しました。夏のこと、先ほどお話した仕事をしているとき、彼は胸のつかえを感じて、ディエップで医者に診てもらったそうです。その結果、どうも癌ではないかと彼は疑いはじめました。パリに帰って、彼はまた医者に診てもらって、その診断結果が来るのがちょうど私たちがディエップに出発する日だったというわけです。そのせいで彼は行かないと言ったのですね。

    D:あなたは子供をつくりたいと思ったり、彼の説得を試みたりはしなかったのですか。

    B:想像してみてください、シオランと子供! 私はイタリア人の友人から15日間猫を一匹預かったことがあります。そのときにわかりましたよ! シオランがどんなに猫に似ているかをね。彼自身が猫のようで、そして私はその二匹の世話をしなければならないのです! どちらも何をしでかすのか、まったくわからないので、本当にうんざりしましたよ。

    D:シオランの日常のスケジュールはどのようなものでしたか。

    B:シオランに関するかぎり、「スケジュール」という言葉に対応するものは何もありません!
    私はといえば、朝早く家を出ます。私はあまり家にいることがありませんでした、とくに仕事を始めてまもない時期は。その後、リセ・モンテーニュに移ってからは、朝8時ごろ家を出て、12時ごろ帰宅、大急ぎで市場に行って、帰ってきて、食事の準備をします、というのも、シオランはひどい食事療法を行っていましたから。彼は痛みに苦しんでいました――身体のあらゆるところがあらゆる仕方で痛んでいました。おまけに彼は胃炎を患いはじめたので、蒸した野菜、全粒穀物(ホールグレイン)が必要でした。彼は「ラ・ヴィ・クレール」(La Vie claire)*1の、本当に本当の信奉者でした。続けますと、午後になると私はまた授業をしに外に出ます。彼はというと、だいたい、あるいはもう頻繁に、昼寝をします。昼寝をしなければならないというのが、彼が頑として変えない持論でした。彼は私にも昼寝をさせようとしていたのですが、私はまったくする気はありませんでした。もうすでに朝起きるのだけでこんなにもつらいのに、昼に二回目をしようだなんて思えませんよ。彼は何時だろうと昼寝をすることができました。でも夜には眠れませんでした。それで、彼は朝の二時や四時に外に出るのです。

    D:旅行はどうだったのですか。

    B:スペインに行きました。彼が情熱的な愛情を抱いていた国ですね。1936年に彼はスペインで奨学金を貰うはずだったのですが、内戦のためにその話はなくなりました。自転車でスペインを周ったこともあります。私たちは村々の道を通り過ぎましたが、当時はまだ観光客がいなかったので、子供たちが「イギリス人だ!」(Son inglés!)と叫んで私たちを追いかけてきました。私たちはイギリスやイタリアにも自転車で行きました。

    D:あなたたちはすべてのバカンスで一緒だったのですか?

    B:ええ、私が両親と過ごしたバカンスを除いて。

    D:いつも自転車で?

    B:はい。はじめはずっと自転車で移動していました。後になると、自動車の交通がどんどん激しくなってきて、どうも難しくなってしまいました。それで、新しくいい方法を思いつきました。徒歩で出発して、運河や川沿いの道を歩いていくのです。とても魅力的でしたよ。そうやって何キロ歩いたのか、わからないくらいです。
     シオランは常識では考えられないほど遠歩きが好きでした。彼にとって、それは肉体労働のようなものでした。歩いたり、自転車に乗ったりするのは、意識から逃れ、風景や歩行の運動のなかに沈み込むことを意味していました。
     徒歩や自転車で、リュックサックを背負いながら何キロも移動して、キャンプをすることもありました。当時はどこでもキャンプすることができました。とくに印象的だったのは、教会の敷地内でキャンプをしたときですね。それはロマネスク様式の、海に切り立った崖の上にある素晴らしい教会で、ジロンド川河口のタルモン(Talmont)というところにありました。それからランド(Landes)地方のすぐそばまで行きましたよ。ですが、野宿のキャンプが完全に禁止されてしまいました。私たちは本当のキャンプがしたかったので、まったくひどい話です。それからはもう、一度もキャンプをしたことはありません。

    D:あなたがたはヨーロッパの外には一度も行かれませんでしたね。

    B:はい。シオランは何回もアメリカに招待されました。でも彼は行きたがらなかった。そのうえ彼は飛行機に乗りたがりませんでした。彼は人生で一度も飛行機に乗ったことがありませんでした。その件で憶えていることがありまして、1951年に、私はフルブライト奨学金を貰ったのですが、彼は私がアメリカに行くことを望みませんでした。彼は私に飛行機に乗ってほしくなかったのです。1951年当時は、誰でもアメリカに行けるという時代ではありませんでしたから、私にとっては特別なことでした。ですから結局私は譲りませんでした。出発の日のことを思い出します。彼はオルリー空港まで私に付き添ってきました。当時は、とても牧歌的で温かみがあるというか、飛行機のところまで付き添いの人が行くことができたのです。それで、私の友人の一人が、薔薇の花束と庭で取れたサクランボを持ってきてくれたのですが、彼女は遅れて着いたので、飛行機のドアがもう閉められたあとだったんです。搭乗員の方が再びドアを開けてくれて、私はタラップを降りることができました。今ではもう考えられないことでしょう! そのとき、タラップの下で、私はシオランを見ました。彼は顔面蒼白でした。そして私を非難するような目で見ていました。私はとても強い罪悪感を抱きながら出発しました。

    D:彼はそれでも鉄道は利用したのですよね?

    B:ええ、たしかに。でもひとたび列車のなかに乗ると、信じられないような光景になりまして。彼はいつも何かの物音に敏感で、なんでもない風の流れすら怖がるのです。それで彼はある席に座ったと思ったら3分後にはまた別の席に変え、また別の席に変え…というわけです。


    "まったくの無名"


    D:モーリス・ナドーのあの有名な記事*2、フランスでシオランを最初に取りあげた記事についてお聞かせ願えますか?シオランはどうやってそれを知ったのでしょうか?

    B:それは1949年のことでした。その日、私たちはフォワイエ・アンテルナシオナルの食堂で食事をしていました。シオランはサンミシェル大通りのキオスクで、『コンバ』紙を買っていましたので、私もそれを見ました。

    D:偶然の出来事ですね。彼は何も知らずに、「君について書かれた記事が載っているよ」、とも誰にも言われずに……。

    B:いえ、彼は毎日『コンバ』紙を読んでいたのです。彼は新聞を開くと、衝撃を受けました。見逃すことがありえないほど大きな記事でした。彼は読み始めました。私たちはほんとうに驚きました。フランスでは、シオランはまったくの無名だったのにひきかえ――例のカイエを読むことで私はさらに意識するようになったのですが――ルーマニアでは彼はとても知られていました。そういう状況で、彼はここにやってきたわけです。彼がまだフランス語で書いていなかったとき、彼が語ってくれた考えのことを思い出します。私たちはコレージュ・ド・フランスの数学の講義に出席したことがありました。その数学の先生はチェコかどこかの出身で、フランス語が話せませんでした。でもその必要はありませんでした。だって彼が黒板に数式を書けば、人々はついてきてくれるのですからね。それを見てシオランは言ったものです。「数学者であるというのはなんという利点だろう!」。ある日、こうも言いました。「誰も知らない言葉で書くよりも、[フランス語で]オペレッタを書くほうがましだ」。
     彼は、ルーマニアでは彼の世代の「恐るべき子供」で、彼の本はスキャンダルになりましたけど、フランスでは何者でもありませんでした。だから、ナドーが例の記事を書いたとき、彼はとても驚いたのです。

    D:それで、成功はいつやってきましたか?例の記事のあと、あなたが仰ったように、この成功は再び地に落ちました。そしていつまた舞い戻ってきたのですか?

    B:シオランの成功はとても、とても遅いものでした。カイエのなかで、彼はガリマールを訪ねたときのことを書いています。誰も彼のことを知らなかったので、彼は自分の名前を何度も繰り返さなければなりませんでした。ようやくクロード・ガリマールの事務所まで到達して、自分のことを、売春宿のボスでさえ目を合わせたがらない、客のつかない売春婦のようだと感じているとガリマールに訴えました。
     商業的に成功した最初の本、それがきっかけで世間によく名前が知られるようになった最初の本は、『オマージュの試み』です。これは「アルカード」叢書の一冊として、ポケット・ブックで出版されました。
     シオランは、もし著作がポケット・ブックで出版されれば、若者に必ず読まれると確信していました。若者に読まれることこそ、彼が望んでいたことでした。『実存の誘惑』、『時間への失墜』といった見事な本を書いたのに、いまだに『崩壊概論』の著者として見なされることに彼はうんざりしていました。それで、ある日彼は私にこう言ったというわけです。「クロード・ガリマールに会ってくるよ。ポケット・ブックにしてくれと言うつもりだ」。私は、彼の本がまったく売れていないことを知っていましたから、やめたほうがいいと言いました。それでも彼は行きました。

    D:彼はあなたの言うことをいつも聞かないのですね……。

    B:ええ、まったくね。そんなわけで、彼はガリマールに会ったのですが、ガリマールは何も言わずに立ち上がって、あるファイルを取り出してきました。それはシオランの本の売り上げ表でしたが、その数字はほんとうに笑ってしまうようなものでした。ガリマールはシオランにそれを見せながらこう言いました。「このような状況では、ポケット・ブックで出版するわけにはいきません」。帰宅したシオランは、顔が死人のように蒼白になっていて、私にこう言いました。「君が正しかった!」――彼がこんなことを言うのは、そうそうあるものではありません。
     彼の人生は屈辱の連続でした。
     彼の成功が始まったのは『オマージュの試み』のとき(1986年)で、ほんとうに、ほんとうに遅れてやってきました。それで彼はシオランになったのです。それ以前、彼はE・M・シオランでした。

    D:E・M・シオラン、それはエミールという、フランスでは居心地が悪いと感じていた自分の名前を、隠す手段であったのですね。

    B:そのとおりです。フランス語ではエミールという名前は床屋の名前だと彼は考えていました。昔、私には同時期に学位を取った友人がいたのですが、彼女のテーマはE・M・フォースターでした。シオランはこの二つのイニシャルがとても気に入って、自分のものとして採用したのです。シオランはずっとイギリス人に魅せられていて、彼は英語を勉強しながらシェイクスピアやシェリーを読んでいました。

    D:そしてガリマールは彼のことを「シオラン」(Cioran)と短く呼ぶことに決めました。

    B:ええ、それは『オマージュの試み』のときからですが、シオランは何も聞かされてなかったんですよ。短く「シオラン」とだけ表紙に記されたまま出版されて、怒り出した人たちもいました。アラン・ボスケ(Alain Bosquet)がその一人で、彼は『コティディアン』紙のなかで、E・M・シオランがシオランになったことに憤慨している記事を書きました。
     個人的には、この本がとても好きです。彼がようやく自分自身以外のことについて語った本ですから。
     いえ、でも実際には、それは間違いですね。彼はいつも自分自身のことを語るのですから。

    D:シオランの名声は、実際どのようなものでしたか。会いたいという人々やインタビューの申し込みを、よりいっそう引き寄せましたか?

    B:外国の出版社の人々も来ましたね。翻訳の申し込みがどんどん増えていきました。

    D:シオランは、最終的に、作家として認められたと感じていたのでしょうか。

    B:それほどでもありません。今日の午後、ちょうどサンダ・ストロジャンと話したところなんですよ。ご存知でしょうが、彼女はときどき抒情的にものを言うくせがあって、私にこう言いました。「結局、フランス人は自分が今持っているものについて何もわからないんですね」。
     ときどき、私はシオランについて信じられないようなことを耳にします。
     例を挙げれば、最近、ガブリエル・リーチェアヌがミシャロン(Michalon)社から本を出しました。その本のなかのシオランのインタビューは、ルーマニア語で行われて、フランス語に翻訳されたものです*3。ええ、たしかにシオランは、カミュから「いまやあなたも思想の領域に入るべきですよ」と言われたと語っています。でもシオランは話しているとき3分毎に悪態を吐くのです。おわかりでしょうが、彼の口から直接何度も聞いたおかげで、私はそういうルーマニア語の悪態を知っています。シオランがリーチェアヌに語っているときに出たそうした悪態の一つを、訳者は「くそくらえだ」(va te faire foutre)と訳しました*4。
     この表現は大いに成功しましたよ。私はシオランに興味を抱いていた医者の方を知っているのですが、彼はこの箇所を読んで、シオランの返答はとんでもないものだとみなしました。どういう評判となったか、おわかりでしょう!
     続けて、またカミュについてですが、フランス・キュルチュールがリーチェアヌの本の書評を公にしました。その結論というのが、シオランがカミュについて言ったことは彼自身にもはねかえってくる。シオラン自身もリセの最終学年向きの哲学者だ、と。私はこれを違う機会、フィリップ・テソン(Philippe Tesson)の放送のなかでも聞きました。シオランが自分のことを哲学者だとみなしたことは一度もありません。同じことを私はガブリエル・マツネフ(Gabriel Matzneff)にも言いました。彼は『師と共犯者』(Maîtres et complices)のなかでシオランについて一章を割いているのですが、そこでこう言っているのです。「そう、実際私はシオランを最終学年にいるときに発見した、しかしそれには何の意味もない」、等々。

    D:結局、あなたはシオランが名声を得たことを好まれなかったのですね。

    B:私としては、シオランは自分が有名になったことを知らないまま死んだと思います。

    D:しかし、ベルナール・ピヴォ(Bernard Pivot)がシオランを番組のなかで取り上げたというのは、ひとつの兆候ではないでしょうか? それに、少し話は変わりますが、シオランはインタビューを拒否し続けてきましたが、そんなことをしていれば、世間からの低い評価を受けるのは当たり前のことではないでしょうか?

    B:ご存知のように、彼はそのことについて何度も立ち戻ってきました。もちろん、『カイエ』のなかで、彼はいつも完璧に誠実であるというわけではありません。しかし彼はもう本当に数えきれないほど書いています。有名であるよりは無名のほうがよい、理解されてはならない、名声は軽蔑すべきものだ、と。この件ではウジェーヌ・イヨネスコとの間で論争にもなりました。イヨネスコは、シオランよりも無邪気で、世間からの承認と名声にとても満足していました。大きな論争になったのは、イヨネスコがアカデミー・フランセーズの会員に選ばれたときです。そのときシオランは辞退することを勧めました。イヨネスコが気分を害していることがわかるほどにまで、彼は自分の意見に固執しました。その後、イヨネスコがある日こう言ってきたと彼は『カイエ』に書いています。「アカデミーの会員になったけど、もう生涯ずっとなんだね」。シオランはこう答えました。「そんなことはないよ。ペタンやモーラス、ドーデのことを考えてごらんよ。彼らは除名された。きみだって、裏切り行為をやらないとも限らないよ」。するとウジェーヌが、「じゃあ、希望があるんだ」。私はこの話が大好きです。*5
     たしかに、名声に対するシオランの態度はあいまいなところがあります。彼は読まれることを望み、ポケット・ブックでの出版を希望したわけで、矛盾しているとも言えます。この件ではミショーとも論争になりました。ミショーはポケット・ブックに反対でした。でもシオランは賛成でした。若者に読まれることを望んでいたからです。

    D:シオランはまた、言ってみれば「公式」の承認も受けましたね。例えばミッテラン大統領の招待です。

    B:ええ。ミッテランは彼を二回招待しました。でも彼は行きたがりませんでした。

    D:では、彼は拒否したのですね。それは簡単にできることではありません。

    B:一回は受けました。それはティエリ・ド・ボセ(Thierry de Beaucé)が彼を招待したパーティーで、ミッテランが来る手筈になっていました。会場が遠く、パリの外の場所だったので、ティエリ・ド・ボセはシオランを迎えにここまで来ましたよ。シオランは、ミッテランがルーマニアについて話してくれるのではないかと考えていました。フランス大統領として、遠からず公式訪問するはずですからね。ミッテランはシオランとほとんど話しませんでしたので、ルーマニアについてももちろん話さなかったでしょうね。このパーティーには、有名人、とくにテレビの有名人がたくさん来ていて、シオランは彼らを紹介されたのですが、彼のほうはテレビを全然見ないので、誰なのかまったくわからなかったそうです。
     シオランが病院で人生の終わりに近づいていたころ、ミッテランが訪問できないかどうか私に訊いてきました。私は断りました。そんな訪問にはなんの意味もないでしょう。

    D:シオランがテレビに出たがらなかったのは、街中で彼だと知られるのを避けるためだというのは本当ですか?

    B:はい。彼はリュクサンブール公園を散歩できない状況に陥って、平穏を妨げられるのを望まなかったのです。
    あるとき、マツネフがシオランをとりあげた写真入りの記事を、『フィガロ・マガジン』紙のなかで書きました。それでシオランの顔が知られてしまって、数日後彼が街中に出たとき、あるご婦人が彼を呼び止めたんですが、彼はうまくやりました。「あなたはシオランですか?」と訊かれても、「いいえ」と答えたのです。もっと後になって――このことを思うと私は心が苦しくなるのですが、彼の病気が悪化し、記憶を失いはじめました。あるとき、街中で、「あなたはシオランですか?」と訊かれると、彼はこう答えました。「以前はそうでした」。


    "「アルベールを連れてきたんだ。彼はいつも笑っているんだよ!」"


    D:それでは、今度はシオランの友人たちについてお話を聞かせてください。自分はシオランの親しい友人だと自称する人は非常に多いですが、彼にはそんなに親友がたくさんいたのでしょうか?

    B:いいえ、もちろんそんなことはありません。

    D:では、本当にそうだった人のことを教えてください。

    B:ルーマニアの友人のことですか、フランスの友人のことですか?シオランにはたくさんのフランス人の友人がいましたが、シオランは彼らについてあまり話しませんでした。フランスに来て間もないころ、彼は文学サロン(Maison des Lettres)に頻繁に通い、いつも居合わせたある青年と知り合いました。その青年はシオランの親友となり、1993年に亡くなりました。彼は突飛な空想に耽ることが多い青年で、『崩壊概論』の最初の原稿についてコメントしたのは、他でもない彼です。「いかにも外国人が書いたみたいですよ。全部書き直さなきゃ」とね。
     シオランの他の友人で、私も頻繁に見た人物は、アルベール・ラバック(Albert Labacqz)という人です。シオランと彼はユースホステルで出会いました。彼は当時ちょっと困難な状況を抱えた青年でした。彼は大ブルジョワの出なのですが、父親が彼を働かせようとして、それで彼は銀行で働いていたにもかかわらず、その給料がとても低く、不幸な境遇にありました。この青年の、人生に迷って当惑した側面が、シオランを惹きつけました。ラバックは敏感なのに無感動な青年で、すぐに笑い出したかと思うと、ずっと笑っているのです。シオラン自身もとてもおかしな人間ですから、彼らは完璧に理解しあっていました。
     1946年か47年のことですが、私がバカンスから帰ってくると、シオランがこう言ってきました。「アルベールを連れてきたんだ。彼はいつも笑っているんだよ!」。その後、アルベールは仕事で素晴らしい成功を収めて、ディエップに豪華なアパルトマンを手に入れました。それでシオランに8月の間その部屋を使ってもよいと言ってきたんです。何年もの間、1976年に先ほどお話しした小部屋を買うまで、私たちはその部屋に滞在しました。
     友人のなかにはマクシム・ネモ(Maxime Nemo)という筆名の人もいました。彼はとても魅力的で話しがうまい人で、カフェ・フロールである人から紹介されて知り合いました。彼のパートナーは数学の教授をしていて、ナントのあたりに広い屋敷を持っていました。その屋敷は素晴らしいもので、周囲から隔絶され、とても高い壁に囲まれていて、ブドウ園の真ん中にありました。夏にはよくそこに行って一週間を過ごしました。シオランはそこで本当に幸福そうに暮らしていました。彼は壁を補修する木を剪定して過ごしていました。彼は手仕事をするのが大好きでした。彼にとって、庭園は幸福に等しいものでした。しかし物事には裏の側面があるものです。彼の幸福を妨げたのは会話でした。ネモという人は才能のある人でしたが、彼はシオランをあまりにも称賛するので、しばしばシオランを不快にさせました。

    D:作家ではどうですか?イヨネスコが、一番の親友だったというのは真実ですか?

    B:はい。二人はとても頻繁に会っていました。それにイヨネスコは、ほんとうに、ほんとうに電話をかけてくるのが多い人でした。ご存じでしょうが、イヨネスコはとても苦しんでいて、それがシオランの心を動かしていました。イヨネスコの電話は非常に長くて、二人の間の会話はしばしば驚くぐらいにとても面白いものでした。

    D:ミショーもそうですか?

    B:ええ、シオランは彼のことをよく知っていました。ミショーも頻繁に電話をかけてきて、彼らはよく夕方に会っていました。シオランはカイエのなかでミショーと会ったときの話を書いていますが、特に目を引くのは、ニューヨークから帰ってきたミショーが、ニューヨークを一種の恐怖として語ったときのことですね。シオランはミショーのユーモア溢れる反応が好きで、それが彼を魅了していました。二人の仲はとてもよいものでした。私たちがホテル・マージョリーを引き払ったとき、ミショーはシオランに当座のお金を貸そうと言ってきたくらいです。シオランは断りましたけどね。

    D:ベケットは?

    B:ええ。ベケットと会うのはとても印象的でした。ベケットは無口で、シオランと正反対なのです。おしゃべりのバルカン人というやつですね!でも彼らは深い相互理解の基盤を持っていました。1969年か70年ごろ、シオランは後に『生誕の災厄』になるエッセイを書いていました。死は受け入れる。生も受け入れる。ただし生誕は受け入れない――これがシオランにずっと現れるテーマです。この点でベケットも同じなのです。生まれないこと以上によいことなどない、それだけ。自分が何でもない地点に戻るというのはたしかに馬鹿げたことです。シオランはときどき感情をさらけだすことがあって、自分は何者でもなく、不毛で、書くことができないとベケットに訴えたのですが、それを聞いたベケットは、医者が患者にするように、そして友人を励まし慰めるように、シオランの肩を軽くたたいたとのことです。
     シオランがベケットと最後に会っていたのは、リュクサンブール公園の、ギヌメール通りに面した人通りが少ないところで、私たちはそこをベケットの道(Beckett's way)と呼んでいました。ベケットはシオランにこう言っていたものです。「カーテンが落ちる前にまた会わないといけないね」と。
     シオランはベケットの奥さん、スザンヌを知っていました。彼らはよく三人で夕食を共にしていました。そこでも一番しゃべるのはシオランでしたね。
     シオランの持論は、おしゃべりのバルカン人は、イギリス人の気品に征服されざるをえないというものでした。ある日、彼がそれをベケットに言ったところ、ベケットはイギリス人は下品だと猛抗議したとのことです。彼のなかのアイルランド人が目覚めたのですね!

    D:友人のほかにも、彼を悩ます迷惑な人々がいました。シオランは、手紙のなかで、援助や紹介を求めて押し寄せてくる大勢のルーマニア人のことを嘆いていましたね。

    B:家族を助けるというのが、シオランのオブセッションでした。だから、彼の家族にお金を届けることができるそういった人たちの世話をしていたのです。それに、彼が言うところの不幸な国に、彼が結び付けられているというのもありました。あるとき、彼と何かの親戚関係がある二人がやってきたのですが、彼らはフランス語を一言も知りませんでした。ここの建物にやってきた彼らは、門番にドイツ語で話しかけたのですが、通じない。彼らは今度はハンガリー語を使いましたが、もちろん通じない。彼らが騒ぎ立てたので、シオランが降りてきたのですが、彼らが言うところによると、門番がドイツ語を話したがらないのは、彼女がドイツ嫌いなせいだと。シオランは同胞を恥ずかしく思いました。

    D:彼の家族とは、とくに、レルという愛称の、弟さんのアウレルのことですね。

    B:ええ。シオランにとってとても大切な存在でした。シオランは彼に対して悔やむ気持ちがありました。

    D:それは、修道院に入るという弟さんの希望を断念させ、その後に弟さんが裁判で有罪判決を受けたからですね。アウレルは鉄衛団に関わって、長年を牢屋で過ごさなければなりませんでした。アウレルはパリに来ましたね。

    B:はい、何回も。最初は1981年のことで、シオランは駅まで迎えにいきました。もう何十年も会っていなかったので、彼らはお互いのことがわかりませんでした。シオランのほうが近づいて、「お前なのか?」とアウレルに言ったと思います。レルは当時フランス語がほとんど話せなかったうえに、彼はそもそもあまり話さない性質でした。彼が無口だということは、ずっと以前にシオランから聞いていました。シオランからこういう逸話を聞いたことがあります。彼がブカレストで学生だったころ、シビウの実家に帰ると、彼が帰ってくるのを見たお手伝いさんがほっとしたということです。彼女が言うには、「少なくとも、あなたはしゃべってくれますからね」。レルと彼の恋人のイカ(Ică)が来ても、レルはまったく何も話さないので、イカが代弁しなければなりませんでした。私が驚いたのは、レルが放つ諦めの雰囲気です。彼がする唯一の身ぶりは、腕を広げて、そして下ろす、というものでした。私が彼に肉が好きかどうか聞いたとき、彼はこのジェスチャーで答えました。


    "彼らはシオランを誘拐しようとしたのだろう"


    B:ずっと後になって、シオランがブロカ病院に入院すると、レルは、12世紀のアラブの首長が書いた詩を送ってきました。その首長はシリア出身で、スペインに定住していました。彼はシリアに向かうという旅行者に詩を贈りました。「君は私の故郷へ旅立つけれど、私の体はここにあるが、魂はあそこにあると知ってほしい。天がある日二つを一つにしてくれたなら!」この詩をレルはコピーして私に送ってきました。手紙の日付は4月8日、つまりシオランの誕生日となっていました。それはおそらく、兄から遠く離れていたレルが感じていたもののメタファーなのだろう、とそのとき私は思いました。
     私はシオランに弟さんと会いたいか訊きました。彼は大きな声で「いや!」と答えました。一週間後、私はまた訊きました。彼はこう答えました。「うん、でも……」(oui, mais...)。私はレルに手紙を書いて、そのなかでこの答えをそのまま引用しました。実際、レルにとって、とても称賛し誇りに思う兄があんな状態にあるのを知るのは、とてもつらいことだったでしょう。シオランはもはやシオランではありませんでした。彼はもうほとんど話すことも、歩くこともできませんでした。たぶんこのことを、レルは私が思うよりも知っていたのでしょう。ある日、レルがリーチェアヌのところから電話を掛けてきました。私は言いました。「あなたは私の手紙に返事をしなかったけど、こっちに来る予定はあるの?」彼はこう答えました。「私は行かない。というのも、「でも」(mais)のほうが「うん」(oui)よりも重いと思ったから」。とても美しい答え、そう思いませんか?

    D:それでも彼は結局来たのですね?

    B:ある若いルーマニア人女性が、シオランについての論文を書く計画をしていて、ルーマニアのレルにコンタクトを取りました。彼女はシュヴルーズの谷に家があったので、そこに滞在して兄に会わないかとレルに提案したわけです。それでレルはやって来ました。コルネリア*6はブロカでほとんど毎日彼に付き添っていました。
    私たちは公園に出ました。シオランはもう歩けなかったので、彼を車いすに乗せて歩きました。ほとんどの時間、車いすを押していたのはレルでした。彼はシオランに、あるときはルーマニア語で、またあるときはフランス語で話しかけていました。話していたのはもちろん彼らの幼年時代の思い出だったでしょう。シオランはとても生き生きとしていて、よく笑い、私たちは彼が話についてきて、ちゃんと理解していると感じました。

    D:他にも訪問者はいたのですか?

    B:望ましい訪問者ばかりというわけではありませんでしたね。ある日、私がシオランの病室に来ると、ドアの前に二人のルーマニア人が立っていました。二人は私がやってくるのに気づいて立ち去ろうとしたようでしたが、廊下の隅に隠れたところを私が見つけました。彼らは明らかにシオランが独りのときに病室に入ろうとしていました。一人はスリーピースの背広を着た、間違いなく東欧風の人間で、頭を下げてうつむいていました。もう一人は大男で、非常に攻撃的で喧嘩腰でした。私は二人に誰かと尋ねました。彼らが言うには、自分たちはシオランの古い友人であると。そして大男のほうが、信じられないほど横柄に、「それで、あなたは誰?」と私に言ってきました。その時から、シオランの病室を訪問禁止にしました。
     レルが言うには、彼らはシオランを誘拐しようとしたのだろう、ということです。

    D:レルは最後までいっしょにいたのですか?

    B:いえ。私は彼が最後に病院に来たときのことをいまだに憶えています。帰ろうとする彼を、私はエレベーターまで送っていきました。そして私たちは別れの挨拶をしました。私は、おそらく彼と再び会うことはもうないだろう、と思っていました。私たちはお互いにあまりにも年をとりすぎていました。この思いが、彼が帰るのを見送ろうという気にさせたのです。私は自分に言いました――シオランももう彼とは会えないのだと。エレベーターのドアが閉まった後も、ずっとそこで立ち続けました。涙がこぼれていました。しばらくして、私はシオランが寝ている病室に戻りました。私は何が起こったのか言えませんでした。なんの言葉も私の口から出てきませんでした。私は彼を見て、彼も私を見ました。そして私は、もうずっと以前から何も見出せなかった彼の眼ざしのなかに、何かが浮かんでいることに気づいたのです。

    (終)



    *1 「ラ・ヴィ・クレール」はフランスの健康・有機製品製造・販売チェーン。

    *2 モーリス・ナドー(Maurice Nadeau)は著名な作家・批評家。ナドーは1949年9月29日付の『コンバ』(Combat)紙で、「黄昏の思想家」(Un penseur crépusculaire)と題してフランスでシオランを初めて紹介する記事を書き、カミュの『シシュポスの神話』と比較しつつシオランと『崩壊概論』について論じた。

    *3 このリーチェアヌの著作はItinéaires d'une vie: E.M.Cioranという題名でミシャロン社から1995年に出版された。本文中で問題になっている対談は本ブログにて翻訳されている。該当箇所はこちらを参照。

    *4 "va te faire foutre"はスラング・俗語表現で、直訳すると「自分自身に性交してもらえ」となり、「くそくらえ」「失せろ」といった意味で使われる。上記注3で挙げた本ブログ上の対談はルーマニア語から訳されており、該当箇所のルーマニア語原文は"f...mama mă-tii!"となっている。これはおそらく"futu-ți mama mă-tii"を伏字にしたもので、直訳すると「お前の婆さんと性交しろ」となり、これも「くそくらえ」「失せろ」という意味で使われる。

    *5 正確には、『カイエ』のなかでは(レオン・)ドーデではなく、アベル・エルマン(Abel Hermant)となっている。エルマンはフランスの作家で、対独協力のためにアカデミーを除名された。なお、ドーデがアカデミー会員になったことはない。Cf. Cahiers, Paris, Gallimard, 1997, p. 787. 『カイエ』、金井裕訳、法政大学出版局、2006年、792頁。

    *6 コルネリア(Cornelia)が誰かは不明だが、おそらく直前のルーマニア人女性の名前か。
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    No title

    はじめまして。

    対談の続き楽しみにしてをりました。
    シモーヌ・ブエによつて語られるシオランは、彼の陰鬱な著作とも彼の自由闊達な対談ともまた違ふ新鮮な印象を受けますね。
    シモーヌ・ブエのシオランへの想ひと、生涯、死と向かひ合ひ続けた彼の最期に胸がつまりました。
    自分の中のシオラン像がより立体的になつた気がします。

    これからもブログの更新楽しみにしてをります。



    No title

    狸穴さん

    はじめまして。拙訳をご覧くださり、まことにありがとうございます。

    まさしく仰るとおりで、リーチェアヌの言葉を借りれば、彼女の話のなかのシオランはいつも立派な姿をしているとはかぎらないので、なおのこと魅力的に感じられます。
    シモーヌ・ブエ自身も、シオランの自己イメージを踏襲しているところも一部あり、赤裸のシオランがいる、というわけにはいかないのですが、やはり彼自身によって語られるシオランとはまた違ったシオランが垣間見られる点で貴重だと考えています。

    ブエ自身についてはほとんど語られることはないのですが、何度か名前がでてきたサンダ・ストロジャンの日記や、Ilinca Zarifopol-Johnstonという方の著作"Searching for Cioran"のなかの手記が、ブエについてまた他者の視点から描いてくれていますので、機会があればご紹介したいと思っています。
    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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