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    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その3

    リーチェアヌとの対談の続きです。

    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2



    ***


    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):ラシナリからシビウへの移転はあなたにとってトラウマでした。ではブカレストとの出会いはどうだったのでしょうか。あなたが哲学と文学を専攻する学生だったときの、1930年代のブカレストはどのようなものでしたか。 ブカレストとはあなたにとってそもそもどういうものでしたか。 大学図書館でしょうか、カフェ・コルソでしょうか。そこであなたはツツェアと、ノイカと、エリアーデと知り合ったのですか? ブカレストでのあなたの学生生活はどのようなものでしたか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):1989年12月に大学図書館が破壊されたと聞いたとき、私はとてつもないショックを受けました。私は四年か五年ブカレストにいて、ある部屋に住んでいましたが、そこには暖房がなかった。だから私はずっと大学図書館で過ごしていたのです。一日中ね。私にとってブカレストとは大学図書館のことです。そこで私は膨大な読書をし、特にドイツ哲学のテクストを読んでいました。図書館では時々コンスタンティン・ノイカを目にしましたが、そう頻繁ではなかった。彼は金持ちで、図書館に行く必要がなかったから。もちろん私はコルソにも行きましたよ。私はブカレストで沢山の人々に会いましたが、そのなかでも特に興味深かったのは挫折した人々ですね。いつもカフェにいて、長々とおしゃべりをし、ほかに何もしない人たちです。正直に言って、私がブカレストで会ったもっとも興味深い人たちはこのような人たちでした。無為の生活を送っているけれども、非常に頭の良い人たちばかりだった。それで、当然のことですけれども、私はカフェでツツェアと出会いました。


    T
    ペートレ・ツツェア(Petre Țuțea)



    L:彼は当時すでに、現在目されているように「神秘的思想家」だったのでしょうか。

    C:私の脳裏にどんな彼の姿が焼き付いているか申し上げましょう。彼は宮殿のそう遠くないところで『プラウダ』を買って、十字を切ったあとその新聞にキスしたのです。彼はロシア語は一言も知りませんでした。そうやって彼は路上で『プラウダ』にキスをした。彼は当時マルクス主義者でした。情熱的で神秘的なマルクス主義者。

    L:ツツェアの魅力はなんだったのでしょうか。どうしてあなたは彼を、過去未来を通じて知り合ったなかでもっとも天才的な人物とみなすのでしょうか。

    C:ツツェアは人間ではなく、一つの宇宙です。彼には熱狂と霊感の瞬間があって、彼を評価することができない者にとっては、狂気に陥っていると取り違えられることもありえた。事実彼はなんでも話すことができました。なぜなら彼には実際的精神というものが全面的に欠けていたから。ある一つのデータから出発して即座に体系を創り上げるのです。彼は――なんと言ったらいいのか――まさに思考の中心であって、自分が理論化したものが実現可能なのかと問うことは一度もなかった。一つの思考を展開させるとき、彼はほかの物事や人々を考慮しないのです。思い出しますが、経済省が当時の戦争省にルーマニアの工業力について報告書を提出したときに、経済省の官僚であったツツェアは、膨大な頁数の報告書を作りました。それは哲学のスタイルで、ドイツ哲学の術語を使ってできていて、そこで彼は一種の防衛の哲学を展開しているのです。とても興味深いものでした。この報告書は、誰だか知らないが大佐だか将軍だかに回されて、もちろんまったく理解されず、結局全部廃棄されてしまいました。これほど実践的精神が欠けていながら歴史のなかに入っていったことが、ツツェアの魅力をなしているんですね。彼は日常生活ではきわめて親切な人間ですが、その男がまるで個人的仇敵について話すかのようにその時の政治指導者について話すんですよ。同時代の政治的人物すべてについてです。彼は「自分と奴ら」というたちでしたね。彼は最後まで、歴史について話しているとき自分がその歴史の中心にいるということを確信していました。彼の幻想の体系に、その誇大妄想に入っていけない者は、彼のことを何も理解できません。彼と話していると、彼の自我がある種の絶対的なものであって、彼はあたかも国家か世界の支配者かのように話していることを受け入れざるをえなくなります。

    L:それは気取っていたのでしょうが、それとも真剣だったのでしょうか。

    C:彼はとても誠実でした。ツツェアは嘘を言う人間ではありません。話しているときも彼はずっと彼自身でした。純粋な人間で、思想の上でも生活の上でもシニカルになることができないのです。


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    ナエ・イオネスク(Nae Ionescu)


    L:あなたの世代全体に影響を及ぼしたもう一人の人物についてお話いただきたいと思います。その人物とはナエ・イオネスク――戦間期ルーマニアにおけるもっとも論争を呼ぶ人物です。彼はどのような人間でしたか。あなたは彼に指導を仰いでいたのですか。それはどれくらいだったのでしょうか。

    C:長期間にわたってです。私は彼と個人的に知り合ったのです。私はすぐに彼が本当に教養がある人物ではないと気づきました。彼の知的形成は完璧な、あるいは広範囲のものではなかった。彼は若い頃ドイツでよく本を読んだけれども、彼の講義はその若い頃に蓄積したものに基づいていました。しかしこの男の魅力は考えられないようなものだった。彼は征服者でした。面白いのは、彼が講義の準備に使った時間はたったの30分だけだったということです。彼はずっとジャーナリストでもあったので時間がなかった。そのせいで彼は何度も即興で講義をし、まさに当の講義の最中に大きな努力を行って思考していたのです。そのために彼は学生を巻き込んで講義を進めました。彼が多大な努力を払っていることはわれわれにも分からなかった。このような感じで、相互に緊張感があったわけですね。あるひとつの問題に彼とともに入り、彼とともに進む。このような教授と出会うことはざらにはないでしょう。彼は、われわれにとって日常的で親密なものとともに思考するすべをもたらしました。新聞から出発して――彼は非常に多くの記事を書いていました――、一気に形而上学的・宗教的問題を立てる。彼は何度もわれわれに次の講義では何を話せばいいのかと訊いてきましたよ。ある時、私がアイディアを出したのですが、彼は天使について語りました。講義が終わったあと、私をそばに呼んでこう言ったのです。「われわれが天使について話していたとき、私がずっと何を考えていたかわかるかい? 警察のトップになることを受け入れるべきかどうか考えていたんだよ」。ナエ・イオネスクは、カロル二世の復位に賛成するキャンペーンを展開することによって、亡命していたカロル二世の復位に際して決定的な役割を果たしました。そしてカロル二世は再び戴冠すると、即座にナオ・イオネスクを内務省に推薦したわけです。

    L:ナエ・イオネスクにとって、哲学と政治の結びつきは直接的なものだったのでしょうか、それとも二つは完璧に分かれていたのでしょうか。

    C:分かれていたと言うほうが近いと思います。彼には冒険家の側面があって、困難な問題に立ち向かうことを楽しんでいた。彼はバルカン的矛盾のすべてを体現していました。当時私は彼についての記事を『ヴレメア』紙に一つ書きましたが、それは彼をあまり喜ばせなかった。私はその記事のなかで、彼の知性と明晰性の度合いは、何かと同一化し、何かを信じることが不可能なレベルにある、と言いました。これほど鋭敏な人物にとっては、生はあまりにも複雑な遊びなので、一つの理念に単純化することができないのだ、と。

    L:彼はあなたや当時の若者たちに、政治的選択の面で直接的な影響を及ぼしたのでしょうか。

    C:もちろんです。特にエリアーデに対してね。どうしてそうなったのか申し上げましょう。国王にとってナエ・イオネスクはもっとも重要な人物で、多大な影響力を持っていました。しかしあるとき、何が理由なのか正確にはわかりませんが、彼は国王と――あるいは国王が彼と――決裂しました。そのときから彼には復讐しか念頭になかった。そうして彼は鉄衛団を支持するようになったのです。この行動はなによりまず私怨からなされたもので、政治的理由は二次的なものでした。われわれは彼の個人的冒険に引きずり込まれたというのは確かだと思います。彼の政治的選択への原動力は、結局のところ復讐にあったわけですからね。和解するという考えは彼にはなかった。王座を掘り崩すというのがいまや彼の唯一の関心事になり、これが最終的には彼を破滅させました。
    私が惹かれたのは彼の冒険家的な側面です。彼は一方では哲学者であり、もう一方では征服者だった。魅力に満ち溢れ、社交の人で、女性と派手な交際をし……。彼は莫大に金を浪費し、まったく躊躇せずに誰からにでも金を借りていました。あるとき彼は私にこう言ったことがあります。「金が欲しいなと思ったところに金があるんだよ」。また別のときには、「奴らだって聖人ではない。人のことは言えないさ」。彼にはギリシア人風の側面がありました。結局のところ、彼は何も信じていなかった。彼は没落する文明の代表者で、原始的野蛮が荒れ狂う国で鋭利さを実践する魅力ある人物でした。疑いなく彼はひとかどの「人物」でしたよ。彼をとなりにすると、他の大学教授たちは純朴な農民のように映りましたね。いずれにせよ、エリアーデは「精神的に(道徳的に)」彼と関わり合って完璧に間違いを犯しました。なぜならナエ・イオネスクという男は、目標や基準や権威にするべき人物ではなく、単なる冒険家であったからです。私の考えではエリアーデはこのことがわからなかった。エリアーデは一日中彼の側にいる生徒のようでした。「先生、先生……」という風に。

    L:ですがエリアーデは彼の助手であったのですから、それは当然のことではないですか。

    C:ナエ・イオネスクには助手を持つ権利がありませんでした。博士号を持っていなかったからです。彼は博士ではなかった……。

    L:ラドゥレスク=モトルとの騒動のことですね。彼はナエ・イオネスクにドイツでの博士号学位証書を見せるよう求めた……。

    C:彼が博士号を持っていたのか、それとも持っていなかったのかはわかりません。彼は持っていると断言したけれど、それを見た者は誰もいなかった。

    L:しかし、あなたや他の彼に近しい人たちにも見せなかったのでしょうか?「ほら、私の同僚たちは私が博士号を持っていないとか言うんだが、彼らの言いなりになって彼らに見せるのは嫌だけれど、君たちには見せるよ」、とでも言いながら。このようなことはなかったのですか?

    C:わかりません、私は見たことがない。でも私にとってこの問題は重要ではなかった。彼が博士号を持っているかどうかなんてどうでもよかったのです。ドイツではコンシェルジュさえも博士号を持っているんですよ。結局のところ、ナエ・イオネスクは全教授陣から嫌われていた。

    L:彼が学生たちから人気があったからでしょうか?

    C:おそらくそうでしょう。いずれにしても彼は大学でうまくやっていける人物ではなかった。彼は大学人ではありませんでした。

    L:彼の講義には多くの学生が聴講しに来たのでしょうか?

    C:ええ、たくさん来ましたよ。でも彼は講義にいつもやって来るというわけではなかった。それどころか講義に来るのは非常にまれでした。ある日、彼はわれわれにこう言いました。「おそらく君たちは、私がなぜ規則的に講義に来ないのかと訊くかもしれない。理由はきわめて単純です。君たちに言うべきことが何もないときには私は来ません」。

    L:彼は雄弁家でしたか?

    C:雄弁ではありませんでした。反対に、彼は直接的に話した。それが彼の魅力だったのです。彼はサロンで講義をすることもできたと思いますよ。彼はデカダンスの文明に属する人物でした。

    L:お訊きしたいのですが、あなたはエリアーデと違って、彼に対して距離をとっていたのですか。

    C:ええ、大いにね。私は自分がナエ・イオネスクの素朴な賛美者ではないということに気づいていました。『ヴレメア』紙で彼について書いた記事は背信的な称賛でした。

    L:ではノイカは?ノイカとナエ・イオネスクはどのような関係にあったのですか。彼はあなたがとった慎重な態度とエリアーデが行った信仰との間の中間にいたのでしょうか。

    C:ナエ・イオネスクはノイカを受け入れられなかった。ときおり彼はノイカが特別な演習に来るのを拒否しました。「いや、君は明日来てはならない」と言ってね。

    L:しかしなぜです?理解できません。

    C:彼らはギリシア人の生まれだったんです!

    L:ナエ・イオネスクはギリシア人だったのですか?

    C:言ってみれば彼はバルカン人でした。彼は私に自分はトルコ人だと言いましたが、本当のことはわからない。いずれにしても、ノイカは彼らとまったくうまくいかなかった。ナエ・イオネスクはノイカに我慢できなかったのです。

    L:ですがノイカはナエ・イオネスクを称賛していないでしょうか? ナエ・イオネスクの講義の編集に参加したのは彼だけです。ナエ・イオネスクの死に際して、彼はすでにパリにいたあなたに手紙を書いています。そのなかで彼はナエ・イオネスクとの別れがもたらした衝撃を嘆きながら表明しています。そしてこう手紙を締めくくっているのです――「なぜなら君も自分がどれほど苦しんでいるのか理解しないだろう」、と。

    C:たぶん、ノイカはナエ・イオネスクが自分を好んでいなかったことに気づかなかったのでしょう。

    L:シオランさん、哲学の文章を書く上でのあなたやエリアーデ、ノイカのトーンは、ルーマニア哲学に非アカデミックに記述する様式をもたらしました。直接的に、内臓から書くという、この個人的なトーンは、ナエ・イオネスクの影響なのでしょうか?

    C:ある程度はそうです。おそらく。

    L:何十年か経ちましたが、現在、彼の影響をどのように評価していらっしゃいますか。有益だったでしょうか、有害だったでしょうか。

    C:有益でした。というのも彼は大学に新しいトーンをもたらしたからです。彼なしの大学というのを私は想像できません。彼がいなかったなら、大学で私には馬鹿げた記憶しか残らなかったでしょうね。彼の存在は無二のものでした。



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    1940年代、『崩壊概論』の頃のシオラン


    L:あなたが大学を卒業なさったときには、もう人生の計画を建てていたのですか? あなたご自身で自らの道を切り開いたのでしょうか。

    C:私の人生での唯一の信仰は、自由であること、独立していること、まずもって職業に依存しないことでした。自分の望むことを行うのに成功しなければ人生に意味はない。私はこのことを最初から理解していたんですよ。私にとってすべてであった問題は、どのようにすれば自らの自由を守ることができるのか、というものでした。もし私がどこかの職場で働くことを受け入れていたとしたら、金を稼いで生き続けることはできたでしょうが、すべておしまいになっていたでしょうね。パリで私はたくさんの挫折した人たちに出会いました。彼らはとても才能があって素晴らしい人間だったけれども、職場が彼らを破壊してしまった。戦前のパリは、人生に挫折した人間にとって理想の街でした。特にルーマニア人は華々しいものでしたよ。それで私は、職業を得るという屈辱を避けるために全力を尽くしたのです。いかなる犠牲を払っても回避しようとしました。私は働いて自分を破壊するよりも、パラサイトの生活を送りたかった。それは私にとってドグマのようなものでした。自分の自由を守るためにはどんな貧困も受け入れました。パラサイトの人生とは、つまり楽園のような素晴らしい人生ということですが、これだけが私には唯一耐えられるものだと思えたのです。

    L:おかしなことに、あなたはつねに敗者を称賛されますが、あなたは挫折しないためにはいかなることをもやってのけたようです。あなたが受け入れた屈辱とはどのようなものでしょうか?

    C:私は永遠の学生の人生を受け入れました。私は学生食堂で食べていましたが、学食にいる学生のなかでももっとも年をとっていました。私の夢は一生奨学金で暮らすというものでした。これだけが私の気に入るものでした。永遠に学生であり続け、学生の地位を利用し続ける……。奨学金は職を得ないための唯一の方法でした。この考えを私が抱いたのは、1936年、ブラショフでのことです。この年は私が働いて給料を得た唯一の年です。私は哲学の教師でした。この時私はもう働きたくないものだと思った。

    L:あなたが教室のなかで哲学を教えている光景を想像するのは難しいです。当時のあなたの生徒の一人で、今はホノルル大学の教授となっている人がいますが……

    C:シュテファン・バチウですね……

    L:あなたが高校でどのような先生だったのか、彼が教えてくれました。

    C:私は教科書をまったく無視して授業を行っていました。ただうわごとだけをべらべら喋っていた。私がブラショフを離れるとき、高校の校長は私から逃れられた喜びに舞い上がっていましたよ。でも申し上げますが、その時私は自分がもう働きたくないと思っていることに気づいた。五分たりともね。

    L:働かないでパリでどうやって生きていくことができたのですか?

    C:申し上げたでしょう、奨学金ですよ。戦前、パリに来たとき、ここでの生活は楽園のようなものでした。ホテルは非常に安くて、人生を半分挫折しかけている知的な外国人学生だけで埋め尽くされていた。戦前のパリが持っていた魅力を想像するのは不可能でしょう。私はここで自分の理想、パラサイトとして生きるという自分の理想を実現できると思った。「パラサイト」というのは適切な言葉ではないかもしれない。周辺的なアウトサイダー、マージナルな人間として、と言えばいいでしょうか。言葉の通常の意味で働かない人間として、です。

    L:よくわからないのですが、あなたは何歳まで奨学金を受給していらっしゃったのですか?

    C:ちょっとお待ちください、正確なところを申し上げましょう。……私は戦前フランスに来てから40歳まで学食で食事をしていました。ある晴れた日、私は呼び出されて、私は実際には学食に通う権利がないこと、27歳かそのあたりまでという年齢制限があることを聞かされました。その時私は40歳だったんですよ。私は年齢制限があるなんて知らなかった。私はソルボンヌに登録していて、学生の特権を大いに持っていると考えていたのですが、「あなたはもう資格がないですよ」、と言われたわけです。本当に私は知らなかった。私は死ぬまで大学の学食で食べようと計画していたんですからね。これが私にとっていかに大きな失望だったか。突然計画がおじゃんになってしまった。私はすでに『崩壊概論』を出版していたけれども学食で食べていて、学生たちが新聞に載っている私についての記事を見ながら言い合うんです。「こいつはなんなんだろう?本を出していながら学食で食べているぞ……」。まあとにかく、私は40歳まで学生として生活することができて、学生生活の恩恵を被っていたわけです。これはルーマニアではおそらく不可能だったでしょう。フランスで私は、外国籍の学生という地位を可能な限り利用しました。それだけの話しですが、同時にそれだけで私は自由だった。私には大した野望もなかったし、偽りのプライドも捨てていた。そして屈辱をさして感じることもなく、永遠の学生の状態を受け入れたのです。

    L:当時あなたはどこにお住まいでしたか?

    C:カルチェ・ラタンのホテルの、小さい一室ですよ。全部で五つのホテルに住みましたが、どれもここ(オデオン街のシオラン宅)からとても近いホテルです。私の理想はカルチェ・ラタンのどこかのホテルで死ぬというものでしたね。

    L:死ぬまで学食で食べると決めていらっしゃったのですから、筋が通っていますね。

    C:その通りです。私が滞在した最後のホテルでは、小部屋を二つ持っていました。屋根裏でしたけどね。鍵を下にやって、他人がやってきても部屋にいないように見せかけて、引きこもって本を読んでいました。そのうちホテルの土地が売られることになってしまって、退居しなければならなくなった。そのとき、もうこんな風な生活を続けていくことはできないだろうと思い、問題を起こさない住居をどうやったら見つけることができるか考え始めました。どうやって見つけたかお教えしましょう。今から30年ほど前、私は『歴史とユートピア』を書きました……。

    L:1960年に出版されましたね。

    C:そして不動産を扱っているある婦人と知り合いまして、彼女は文学に理解があると自負していました。本が出版されたとき、私はシモーヌ(シオランの伴侶)に言いました。「あの婦人に見本を贈ったらどうだろう」。「見本を一つ処分したいのなら、贈ればいいでしょう」と彼女は答えました。三日後にその婦人が来て、このアパルトマンを提案してくれたというわけです!その時からここに住んでいますが、その賃料というのが……

    L:アイスクリームの値段。

    C:その通りです!このことは私にとって大いなる成功です。

    L:1974年にあなたはここを失うかもしれない地点に追い込まれましたね。所有者がこのアパルトマンを要求したのでした。あなたは弟さんへの手紙のなかで、自分に法律の知識がないことに後悔し、法律の教科書を読み始めた、と書いていらっしゃいます……。結果としてあなたは諦められたようです。「結局、この年になってみると、もう生きている人間ではなく、ただ生き延びている人間だよ。一番ふさわしいのは暫定的状態で生きることだ……」。とすると、70年代にあなたは、60歳でフランスの路上生活者になる危険にさらされていたということでしょうか。

    C:よくわかりませんね。たしかなのは、私がここの地区の水準の賃料を払うことはできなかったということです。しかし、私が譲歩しなかったのは大いに好運でしたね。シモーヌは出ていきたがった。私は拒否しました。私をここから出したければ警察を呼んで逮捕させるんだな、と言いましたよ。所有者は出ていかない私を見て、どうすることもできないと思ったのでしょう、最終的に私を放置して、平穏が戻りました。もし彼らがあくまで私を追い出そうとしていたのなら、文学の世界でも騒動が起こったでしょうね……。いずれにせよ、こうやって私は物質的問題を解決したのでした。

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その2

    リーチェアヌとの対談の続きです。この翻訳では、主にルーマニア語版に基づいていますが、仏訳を参照しています。

    その1はこちらです

    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):しかし、実際あなたは何に苦しんでいたのですか?

    エミール・シオラン(Emil Cioran):不眠による極度の神経の緊張です。不眠を知る前、私はほとんど普通の人間でした。眠りの喪失は私にとって啓示でした。その時私は、生は睡眠のおかげによってのみ耐えられるものだと気づいたのです。毎朝、新しい冒険、あるいは同じ冒険が始まります。しかしそれは中断を伴ってのものです。反対に不眠は無意識を排除し、こんなことに耐えるには人間はあまりにも弱すぎるということを、1日24時間ずっと鮮明に意識しなければならなくなります。不眠は一種の英雄的行為であり、毎日が始めるから負けることが分かっている闘争です。というのも、生きることは忘却によってしか可能とならないから。次の朝には新しい人生が始まるという幻想を持つためには、毎日人は忘れなければならない。逆に不眠は人に不断の意識という経験を強います。その時、全世界との、眠ることができる全人類との闘争に入るのです。もはや自分が他人と同じ人間であると考えることはできない。他の人間は無意識になることができるのですからね。こうした後の最初の反応として持つもの、それは馬鹿げた誇りです。自分は他人と同じような人間ではない、自分は他の者が意識を持っていないときに、終わりのない夜を徹した経験があるという。この誇り、この破滅の誇りこそが唯一勇気を与えてくれるのです――俺は他人とは違う運命を持っていると。自分による自分への「お世辞」、この常軌を逸した感情は、もはや自分は人類に属していないというものです。自分で自分を美化すると同時に自分を罰する。おそらくこの極度の不眠の時期に、自分は明晰であるという誇りが生まれたのでしょう。これは一生ついてまわりました。私が言いたいのは、人々は知的で、独創的で、天才的でありうるでしょうが、明晰であることはできないということです。対して私は、明晰性をわがものとし、それを独占しているとみなしていました。今では私はもはや同じように考えてはいません。結局のところ、不幸な人間はすべて明晰なのです。しかし当時、不眠が私の明晰性は特別な明晰性だという確信をかき立てていました。確かなのは、不眠の時期は私の残りの人生にとって決定的な影響をもたらした、ということです。それは恐るべき経験でした。私は20歳で、毎晩、夜が明けるまでシビウを一人で歩き回っていました……

    L:すると、あなたの哲学は青年期のもののままであり、あなたの観点はその時代に決定的になった、ということでしょうか。

    C:いいえ。生に関する私のヴィジョン、それは仏教のなかに見出すことができます。私の考えでは、仏教はもっとも深い宗教です。私はあまりにも一貫していないので、なんらかの一つの宗教を追い求めるということができないのですが、私の世界に対する眼ざしは、仏教と非常に近いものです。たとえ別な風に言い表されていてもね。あの2年か3年続いた、恐ろしい不眠の時代に、私は否定に取りつかれ、先ほど話した誇りが私のなかに生まれました。明晰性へのうぬぼれ、ものごとの無常性の確信、他の人間の人生を支配している幻想に対する意識、これらすべては、不眠という根本的経験に由来します。私が哲学へと、言うなれば突き進んだとき、私にとってもっとも関心を惹いたのは、意識の問題でした。意識とは宿命である、宿命としての意識(Bewusstsein als Verhängnis)という観念が私のオブセッションとなりました。私の哲学への関心はこの問いとともに始まり、この問いとともに終わりました。根本的にいえば、人間は覚醒する存在です。そして不眠はこの哲学的本能を罰するのです。

    L:覚醒させ続けるという罰ですか。

    C:そうです。私にとって、意識のドラマを経験していない者は素朴な人間です。たとえその人が天才だとしてもね。ある意味で、意識の過剰、つまり忘却なしの生は、私に対して病的な側面がありました。私が不眠に苦しんでいたとき、私は全人類を絶対的に軽蔑していました。すべての者が私には動物に見えました。

    L:なぜなら彼らは一時、意識を持たないでいることが許されていたからでしょうか…

    C:その通りです。それは妬みでもありましたし、軽蔑でもありました。覚醒していること、間断なく意識を持つことは、人間を限界にまで導くものです。

    L:そうですね。しかし他方で、意識はあなたにとって呪いでもありました。意識のドラマはあなたの著作のなかで頻出する主題です。動物は人間よりも幸福であり、植物は動物よりも幸福であり、鉱物が最高の幸福を享受していると、あなたは何度も繰り返されて来ましたね。

    C:私は意識一般について話しているのではなく、意識の過剰について話しているのです。この過剰だけが、誇りと敗北という矛盾した感情を引き起こし、この過剰だけが、意識を同時に呪いと予感として感じさせます。そして不眠とは、過剰としての意識を人に啓示させるものです。普通、われわれは意識を、定期的で継続的な中断を挟んで経験しています。この場合、意識は重荷ではない。不眠がもはや始まりというものは存在しないと気づかせたとき、人はつねにそれまでとは異なった生を生き始めます。不眠が人を中断のない意識という現象の前に立たせることではじめて、人間とは意識を持つことができる唯一の存在であると理解し、そして同時に、人間はそのありのままではこの現象を耐えるにはあまりにも弱い存在であると理解するのです。

    L:シオランさん、あなたについて少し過酷なことをお訊きするのを許していただきたいと思います。意地の悪い読者がいるとして、次のようにあなたに言うとしましょう。「もし、あなたが定式化して論じるということにおいて卓越していないというのなら、あなたの思想の根本というのは要するに少々の陳腐な言葉に尽きてしまうのではないか。人間は悪だ、死は災厄だ、生きることは無意味だ、自殺は別だが、等々と」。

    C:それらすべては、理論上では陳腐でしょうが、経験するときはそうではない。死は災厄だということは、経験としては決して陳腐ではありません。もっとも深い宗教の一つである仏教も、生の無の認識という「陳腐」に尽きます。

    L:実際に、次のようにあなたを批判することもできるでしょう。あなたは世界と同じくらい古いテーマを再び取り上げ、「コヘレトの言葉」以来言われてきたことすべてを、並外れた才能でもって繰り返しただけだと。あなたの新しいところはなんであると思われますか。

    C:それはまったく経験の強度の問題ですね。生に関する見解の素材に新しいところなどない。死より陳腐な現象が他に存在するでしょうか。しかし同時に、死は究極的な問題であり、すべての宗教の関心の中心であったのは偶然ではありません。「独創的な哲学」などというものは、学問から出発して作り上げるほかない。学問の世界では新しいことが可能です。そのような哲学は、もちろん独創的でしょうが、しかしそれは同時になんの関心も示すことはない。ハイデガーのことを考えてください。彼が死について、そして他のすべてのことについて書いたものは、日常の言葉に移されると、なんの独創性も持たないものになります。彼の値打ちは、彼が他の者とは違った風に定式化したということに由来します。新しいもの、それは結局のところ響き、トーン、調子など、各人の経験の強度から発してくるものです。私が受け取った手紙、特に若い人たちからの手紙は、私の定式化の仕方と経験から、人々がなんらかの認識を持つことができるということを示しています。それがたとえどれほど愚か者であってもね。独自の表現を越えて思想が単純化されると、いかなる思想も陳腐になります。

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その1

    試みにシオランとガブリエル・リーチェアヌとの対談を訳してみました。拙いところはご勘弁下さい。




    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):あなたはいくつかの「賞賛訓練」(Exercices d'admiration 邦訳『オマージュの試み』)を書かれましたが、運命の問題はあなたをいつも魅了してきました。完成か挫折かという個人の運命、そして栄光とデカダンスという民族の運命の両方がです。しかしあなたはいつも他人の運命について語ってこられました。もう80歳になろうというところで、あなた自身の運命については、どのようなまなざしを向けられますか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):私は自分が望んだ運命を持ったと言いたいですね。自由であるということ、独立しているということが私の脳裏から離れませんでした。それで私はそれを獲得したわけです。でも、もう今となっては私の運命は終わったと考えています。一年前、おそらくもっと前から、私はもう書くまいと決めました。

    L:それは初めてのことではありませんね。この10年か20年の間、あなたはそのような決心をずっと取り続けてきたように思います。

    C:今回は真面目ですよ。

    L:あなたの本が出る度に、今回が最後の本だと言ってこられましたが、その度にまた次の本が続いて出されました。

    C:それはそうだった。でも今度のは本当です。もう書かないというこの決心には、言ってみれば、ほとんど生理学的な理由があるんですよ。私には何かが変わってしまったという感じがあります。

    L:どういう意味でしょうか?

    C:何かが衰えた、そう……私の中で壊れたんです。一般的に言って、作家というものは死ぬまで書き続けます。特にフランスではね。そんなのは何の意味もありませんよ。本の数を増やして何になるんです? 私の考えでは、全ての作家たちは書き過ぎですね。

    L:それはあなたの場合にもあてはまりますか?

    C:ええ、その通り。でも大作家たちはまったく書き過ぎました。シェイクスピアもやり過ぎですね。私について言うと……ただ単に、宇宙に唾するのはもう十分ということです。私はもうしたくない。

    L:しかし、あなたは無用性と死のテーマについての、15冊以上の本をお持ちですね。

    C:それはオブセッションの問題ですよ。私の作品は――この言葉には吐き気がする――医学的、治療的な理由から生まれました。私が同じオブセッションの他は書かれていない同じような本を書いたのは、それが私をいわば自由にする、ということを確認するためです。まさしく私は必要があって書いたのです。文学とか哲学その他は私にとってはきっかけに過ぎない。書くことのセラピーのような効能、本質的なのはそれです。

    L:すると今ではあなたは治られたわけですね?

    C:いえ、治っていません、治ったのではなく、ただ単に疲れただけで。

    L:ですが、無用性や無意味を弁護した作品が、どうやって助けてくれるのですか。

    C:表現する手段を持たなかった他の人たちが感じていることを述べるからです。読者を自分が感じていたことについて突然意識させることによって、助けるのです。要するに、自己を取り戻すというように、助けるのです。

    L:しかし絶望に集中することは、それをより深めてしまうのではないのですか。

    C:既に表明してしまったこと全ては、より受け入れやすいものになります。表現、それは薬ですよ。司祭に告白しに行くことに何の意味があると思いますか? それはわれわれを自由にするんです。表明されてしまうことで、その強さは減らされることになります。それこそが治療的であるという理由であり、書くことによって治療する意義です。もし私が書いていなかったならば、私はもっと憂鬱の状態にあったろうし、その場合疑いなく憂鬱は私を狂気にし、私がやることを全て失敗に導いていったことでしょうね。既に表明したという事実が特別な効果を現すのだ、と言わなければなりません。私が書かなかったならば、まず間違いなく病気になってしまったでしょうね。そんな風に私は5冊くらいの本をルーマニア語で、そして……8冊か9冊の本をフランス語で書いたわけです。

    L:では、今は?

    C:今は…もう終わりましたよ! もう沢山だ! 私は書くのをやめた、というのは私の中に何か減退を感じたからです。激しさの低下です。大事なことは、気持ちの高ぶり、感動の強さです。ところで消えてしまったものというのはそれなんですよ。私は私の中に、一種の疲れを、表現に対する嫌悪を見出し始めました。私はもう言葉を信じてはいない。パリの文学的スペクタクルにはもっとね! 皆が朝から夜まで間断なく書いています……私はといえば、長い間否定しつづけました。でもこの攻撃的否定、これを私はもう今や必要だと感じないんですよ。実際、これは衰弱の現象ですね。

    L:その疲れはあなたを世界と和解させたのでしょうか?

    C:いいえ、それは単に私を衰弱させただけです。私はこれまでの人生の間、自分は自分がが知っているどの人よりも明晰な人間である、という途轍もないうぬぼれを抱いてきました。これは誇大妄想狂の明白な形態ですね。でも本当のところ、私はいつも人々は幻影の中で生きていると思っていたんですよ――私を除いてね。彼らは何も理解していない、と私は確信していました。それは軽蔑ということではなくて、ただ単に確認です。皆が騙されているし、人々は素朴である。しかし私は騙されないという幸運を――あるいは不幸と言ってもいいですが――我がものとしました。そしてそれは実際、何にも参加しないということ、他人の目的の喜劇にまったく関わらないで振る舞うということなんです。

    L:今となって、あなたのそのような振る舞いは、正しかったと思われますか?

    C:もちろんですよ!

    L:あなたは生涯で、リヴァロル賞、サント-ブーヴ賞、コンバ賞、ニミエ賞といった文学賞を授与されてきました。最初のリヴァロル賞を除いて、あなたは全て辞退されました。なぜでしょう?

    C:パリの文学的スペクタクルにはうんざりなんですよ。作家は皆一つの文学賞を手に入れるためにどんなことでもやってのけます。それはまさしく産業とも言うべきものです。私は選択の余地がないことを素早く理解しました。全てを受け入れるか、全てを拒否するかなのです。最初、私は受け入れました……

    L:リヴァロル賞、『崩壊概論』に対してですね。

    C:そうです。それは最初の本だったし、選定委員会のなかにはフランスでもっとも偉大な作家たちがいました*1。彼らは年を取っていたけど、私はまったくの無名だった。その賞を拒否するのは当時何の意味もなく、それはただの厚かましい行為にすぎなかった。1949年のことでした。しかしこのことの後、つまりフランスの文学生活についてよりよく知った後に、賞というものはとても不愉快なものだということ、そして私にとってほとんど危険なことだと気付いたわけです。

    L:あなたがニミエ賞を拒否されたとき、あなたは弟さんに向けてこう書かれています。「『生誕の災厄』のような本を書いた後に、文学賞を受けることなんてできないよ」。しかし、それにもかかわらず、この辞退の連続は反対に一つの宣伝の形態ではないでしょうか? あなたの辞退は噂になり、好奇心を呼び覚ましました。

    C:いや、私は最初から賞は拒否すると決心していました。

    L:あなたがインタヴューに応ずることが殆どなかったのも、徹底してフランスのテレビに出ることを拒否したのも同じ理由からでしょうか? あなたはパリの舞台からもっとも引っ込んだ著者であると考えられていました。

    C:パリに生きていて、文学賞のスペクタクルを見物する人は、決定せざるをえないのです。他人と同じように振る舞うか、それともそうしないかというね。

    L:あなたの作品が外的な性質を帯びているとは感じられないのですか?全ての作品は公衆に読まれます。公衆とは宣伝を意味します……

    C:ええ、でもそれを引き受けるのは編集者だけで、私ではない。私はそこに混ざりたいとは思わない。私が自分の商品を持って街に売りに行くことなんてこれっぽっちもありえませんよ! その上私は少しばかり運命論者でしてね。どの作家もその運命を持っています。賞を拒否すること、それはフランスの文学的風習に対する抵抗の一つの形態でもあるんですよ。


    ***


    L:フランスでは、あなたがラシナリというトランシルヴァニアの村に生まれたことは知られていますが、しかし大部分の人々は、この場所があなたにとっていかに重要であるかということを無視しています。あなたは何度もラシナリから出ることを楽園からの追放になぞられましたね。

    C:私の幼年時代はまったくの楽園そのものだった。

    L:いくつかの場所が、ルーマニアにいるあなたの弟さんや友人たちへの手紙の中で回帰するように現れます。隣の家の果樹園、お父上が勤める教会、コアスタ・ボアーチ――村に張り出た丘、永遠に遊び回っていた、半ば伝説的な土地です。コンスタンティン・ノイカに当てたあなたの手紙の中に、有名なフレーズがありますね――「コアスタ・ボアーチを去って何かいいことがあっただろうか?」

    C:風景は重要な問題です。山で生きた時、その他のものは言いようがない陳腐なものに思える。そこでは何か原始的なポエジーが行き渡っています。コアスタ・ボアーチが私にとって本質的な役割を担ったということ、これは認めなければなりません。私はそこに行って、村を支配していました……

    L:あなたの他の幼年時代過ごした場所も特別な意味を帯びているのですか?

    C:ええ、特に墓地がそうです。墓堀人に友人がいましてね。彼はとてもいい人間で、彼は私のもっとも楽しみにしていることが、髑髏を手に入れることだと知っていました。彼が誰かを埋めていると、私はすぐに駆けつけて、彼が私に一つくれるかどうか見守っていました。

    L:どうして髑髏に惹きつけられたのですか?

    C:私の楽しみ、それは…それでサッカーをすることでした。私は髑髏に目がなかった。私は墓堀人が髑髏を掘り出すのを見るのがとても好きでした。

    L:それは病的な嗜好なのでしょうか、あるいは無邪気な遊びなのでしょうか。

    C:その両方だと思います。結局のところ、私はサッカーをするのが好きだった。髑髏が空にくるくると回っているのを私の目が追っているときのことを憶えています。私はそれをつかまえようと突進しました……。それは何より素朴なスポーツだった。私は髑髏でサッカーをするのが許されないことを知っていたし、それが普通ではないことを十分に意識していた。それに、私は誰にもこのことを話しませんでした。それは病的な感情に属するものではなかった。しかし、死の世界との一種の親近感のようなものがありました。墓地はとても近かったし、埋葬にも慣れていましたから……。

    L:しかし今あなたが語られた親近感は、死の問題から切り離されなければならないのではないでしょうか。そのような親近感は、死から距離をとるものであっても、思考の中心的なテーマになることはなかった。そのような経験は、死という現象に対して明朗な視線を与えるか、あるいは無視させるようになるのではないかと思います。ところが、反対に、死はあなたにとってオブセッションとなりましたね。

    C:私の死についてのオブセッションを、7歳か8歳頃のこの経験に遡らせることができるとは思いません。死が私の人生の中で役割を果たすようになるのはもっと後のことです。実際死は、16か17歳の時に私にまとわりつくようになりました。それが絶頂に達するのは『絶望のきわみで』を書いた頃です。したがってこの現象は後々のものだけれども、でも墓地での交際が私に影響を与えたというのはありうることです。私が多少とも居合わせた埋葬、涙、嘆きに私は無関心ではいられなかった。しかし、正確にいつと言うことはできませんが、この感覚は、はっきりとした問題へと変わったのです。


    ***


    L:では楽園から去り、いかにしてあなたが追放された後の生への一歩を踏み出されたのかに移りましょう。

    C:私の人生のなかでもっとも悲しい日は、父が私をシビウの寄宿先に送った日です。その日を忘れることは決してありません。私の人生のなかで全てが壊れてしまい、死を宣告されているのだという感じを持った日です。忘れることはありませんよ!

    L:哲学の読書を14歳から15歳のときに始められましたね。あなたの読書ノートを見せていただきました。リヒテンベルク、ショーペンハウアー、ニーチェ……

    C:その後にキルケゴール。私がある日キルケゴールを読んでいた日のことを思い出します。庭師が現れて――人々は彼は狂人だと言っていました――私に訊くんです。「どうしてずっと本を読んでいるの?」。「楽しいからさ。本には……」「そこにはなにも答えは見つからないよ。ないね、ないね、本からは。本のなかには見つけられないよ」そして私は彼を見つめて言いました。「あなたは考える人、認識する人、理解した人ですね」。

    L:なるほど。しかしあなたがそのことを初めから理解していたならば、どうしてあなたは今世紀でもっともすさまじい読書家の一人になったのでしょう?

    C:私は膨大に読みました、それは本当です。私は一生の間膨大に、一種の脱走のように読んできました。私は哲学のなかに、他者のヴィジョンのなかに入りたかった。それは本への一種の逃走、自分自身から逃れることです。

    L:でもどうしてあなたは自分自身を忘れる他の方法を探さなかったのですか?例えばアルコールとか……

    C:いやいや、私は酔っぱらってばかりいましたよ!

    L:酔っぱらう? あなたが? いつのことです?

    C:若い頃、とても頻繁にです。私は酔っぱらいになることばかり考えていました。非意識の状態と、酔っぱらいの馬鹿げた誇りが気に入っていたのです。休暇のとき帰るラシナリでは、私は古典的な酔っぱらいを盛大に賞賛していました。彼らは毎日酔っていた。とくにそのうちの一人は、一日中バイオリンを持ちながらぶらぶらし、口笛を吹き、歌っていました。彼は村中で唯一面白い人間だ、唯一理解している人間だと私は考えたものです。みんな何か仕事に従事するというのに、彼だけは遊んでいました。彼はアメリカの叔父を持っていて、2年の間にすべてを使い果たし、無一文になりました。彼がそのあとすぐに死んだのは幸運だったと言えるでしょうね。

    L:あなたがそのような人々、堕落し失敗した人々を賞賛すると、それはただの若者の奇矯愛好(teribilism)、上品ぶった人々をあきれさせるだけのものだ、と非難されますね。

    C:まあそうです。それは見つけるのがもっとも容易な説明ですね。本当のところを言うと、奇妙なことでしょうけども、私のなかの何かと照応しているもの、それはあまりにも普通で平凡な両親を持ったことでずっと感じていた不幸です。言うなればね。私の不眠の時期を思い出します。母とともに家に独りでいたある日のこと、危機のあまり、私はベットに身を投げてこう言いました。「もうだめだ! もうだめだ!」。すると司祭の妻であった母が私に返しました。「もし知っていたならば、堕胎していたのに」。このことは突然私に巨大な喜びをもたらしました。私は自分に言ったものです。なら俺はただの偶然の産物なのだ、これ以上何が必要だというのか?



    *1 委員会のなかには、アンドレ・ジード、フランソワ・モーリヤック、ジャン・ポーランなどがいた。
    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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