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    おしらせ

    ご承知の方も多いと思いますが、今年(2013年)2月に『ルーマニアの変容』の邦訳が法政大学出版局から出版されました。
    この邦訳は仏訳『ルーマニアの変容』を日本語訳したすぐれたもので、これでもともと仏訳が存在することで危ぶまれた当ブログの意義が更に危ぶまれることになります。

    当ブログをどうするべきか悩ましいところではありますが、とりあえず存続させることにして、『ルーマニアの変容』の訳文それ自体は削除する方針です。

    今後は『涙と聖者』や対談の翻訳、シオランの本の紹介、あるいはシオランに関する記事などを別に書いていきたいと思っています。

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その3

    リーチェアヌとの対談の続きです。

    以前の翻訳はこちらです。


    その1

    その2



    ***


    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):ラシナリからシビウへの移転はあなたにとってトラウマでした。ではブカレストとの出会いはどうだったのでしょうか。あなたが哲学と文学を専攻する学生だったときの、1930年代のブカレストはどのようなものでしたか。 ブカレストとはあなたにとってそもそもどういうものでしたか。 大学図書館でしょうか、カフェ・コルソでしょうか。そこであなたはツツェアと、ノイカと、エリアーデと知り合ったのですか? ブカレストでのあなたの学生生活はどのようなものでしたか。

    E.M.シオラン(E.M.Cioran):1989年12月に大学図書館が破壊されたと聞いたとき、私はとてつもないショックを受けました。私は四年か五年ブカレストにいて、ある部屋に住んでいましたが、そこには暖房がなかった。だから私はずっと大学図書館で過ごしていたのです。一日中ね。私にとってブカレストとは大学図書館のことです。そこで私は膨大な読書をし、特にドイツ哲学のテクストを読んでいました。図書館では時々コンスタンティン・ノイカを目にしましたが、そう頻繁ではなかった。彼は金持ちで、図書館に行く必要がなかったから。もちろん私はコルソにも行きましたよ。私はブカレストで沢山の人々に会いましたが、そのなかでも特に興味深かったのは挫折した人々ですね。いつもカフェにいて、長々とおしゃべりをし、ほかに何もしない人たちです。正直に言って、私がブカレストで会ったもっとも興味深い人たちはこのような人たちでした。無為の生活を送っているけれども、非常に頭の良い人たちばかりだった。それで、当然のことですけれども、私はカフェでツツェアと出会いました。


    T
    ペートレ・ツツェア(Petre Țuțea)



    L:彼は当時すでに、現在目されているように「神秘的思想家」だったのでしょうか。

    C:私の脳裏にどんな彼の姿が焼き付いているか申し上げましょう。彼は宮殿のそう遠くないところで『プラウダ』を買って、十字を切ったあとその新聞にキスしたのです。彼はロシア語は一言も知りませんでした。そうやって彼は路上で『プラウダ』にキスをした。彼は当時マルクス主義者でした。情熱的で神秘的なマルクス主義者。

    L:ツツェアの魅力はなんだったのでしょうか。どうしてあなたは彼を、過去未来を通じて知り合ったなかでもっとも天才的な人物とみなすのでしょうか。

    C:ツツェアは人間ではなく、一つの宇宙です。彼には熱狂と霊感の瞬間があって、彼を評価することができない者にとっては、狂気に陥っていると取り違えられることもありえた。事実彼はなんでも話すことができました。なぜなら彼には実際的精神というものが全面的に欠けていたから。ある一つのデータから出発して即座に体系を創り上げるのです。彼は――なんと言ったらいいのか――まさに思考の中心であって、自分が理論化したものが実現可能なのかと問うことは一度もなかった。一つの思考を展開させるとき、彼はほかの物事や人々を考慮しないのです。思い出しますが、経済省が当時の戦争省にルーマニアの工業力について報告書を提出したときに、経済省の官僚であったツツェアは、膨大な頁数の報告書を作りました。それは哲学のスタイルで、ドイツ哲学の術語を使ってできていて、そこで彼は一種の防衛の哲学を展開しているのです。とても興味深いものでした。この報告書は、誰だか知らないが大佐だか将軍だかに回されて、もちろんまったく理解されず、結局全部廃棄されてしまいました。これほど実践的精神が欠けていながら歴史のなかに入っていったことが、ツツェアの魅力をなしているんですね。彼は日常生活ではきわめて親切な人間ですが、その男がまるで個人的仇敵について話すかのようにその時の政治指導者について話すんですよ。同時代の政治的人物すべてについてです。彼は「自分と奴ら」というたちでしたね。彼は最後まで、歴史について話しているとき自分がその歴史の中心にいるということを確信していました。彼の幻想の体系に、その誇大妄想に入っていけない者は、彼のことを何も理解できません。彼と話していると、彼の自我がある種の絶対的なものであって、彼はあたかも国家か世界の支配者かのように話していることを受け入れざるをえなくなります。

    L:それは気取っていたのでしょうが、それとも真剣だったのでしょうか。

    C:彼はとても誠実でした。ツツェアは嘘を言う人間ではありません。話しているときも彼はずっと彼自身でした。純粋な人間で、思想の上でも生活の上でもシニカルになることができないのです。


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    ナエ・イオネスク(Nae Ionescu)


    L:あなたの世代全体に影響を及ぼしたもう一人の人物についてお話いただきたいと思います。その人物とはナエ・イオネスク――戦間期ルーマニアにおけるもっとも論争を呼ぶ人物です。彼はどのような人間でしたか。あなたは彼に指導を仰いでいたのですか。それはどれくらいだったのでしょうか。

    C:長期間にわたってです。私は彼と個人的に知り合ったのです。私はすぐに彼が本当に教養がある人物ではないと気づきました。彼の知的形成は完璧な、あるいは広範囲のものではなかった。彼は若い頃ドイツでよく本を読んだけれども、彼の講義はその若い頃に蓄積したものに基づいていました。しかしこの男の魅力は考えられないようなものだった。彼は征服者でした。面白いのは、彼が講義の準備に使った時間はたったの30分だけだったということです。彼はずっとジャーナリストでもあったので時間がなかった。そのせいで彼は何度も即興で講義をし、まさに当の講義の最中に大きな努力を行って思考していたのです。そのために彼は学生を巻き込んで講義を進めました。彼が多大な努力を払っていることはわれわれにも分からなかった。このような感じで、相互に緊張感があったわけですね。あるひとつの問題に彼とともに入り、彼とともに進む。このような教授と出会うことはざらにはないでしょう。彼は、われわれにとって日常的で親密なものとともに思考するすべをもたらしました。新聞から出発して――彼は非常に多くの記事を書いていました――、一気に形而上学的・宗教的問題を立てる。彼は何度もわれわれに次の講義では何を話せばいいのかと訊いてきましたよ。ある時、私がアイディアを出したのですが、彼は天使について語りました。講義が終わったあと、私をそばに呼んでこう言ったのです。「われわれが天使について話していたとき、私がずっと何を考えていたかわかるかい? 警察のトップになることを受け入れるべきかどうか考えていたんだよ」。ナエ・イオネスクは、カロル二世の復位に賛成するキャンペーンを展開することによって、亡命していたカロル二世の復位に際して決定的な役割を果たしました。そしてカロル二世は再び戴冠すると、即座にナオ・イオネスクを内務省に推薦したわけです。

    L:ナエ・イオネスクにとって、哲学と政治の結びつきは直接的なものだったのでしょうか、それとも二つは完璧に分かれていたのでしょうか。

    C:分かれていたと言うほうが近いと思います。彼には冒険家の側面があって、困難な問題に立ち向かうことを楽しんでいた。彼はバルカン的矛盾のすべてを体現していました。当時私は彼についての記事を『ヴレメア』紙に一つ書きましたが、それは彼をあまり喜ばせなかった。私はその記事のなかで、彼の知性と明晰性の度合いは、何かと同一化し、何かを信じることが不可能なレベルにある、と言いました。これほど鋭敏な人物にとっては、生はあまりにも複雑な遊びなので、一つの理念に単純化することができないのだ、と。

    L:彼はあなたや当時の若者たちに、政治的選択の面で直接的な影響を及ぼしたのでしょうか。

    C:もちろんです。特にエリアーデに対してね。どうしてそうなったのか申し上げましょう。国王にとってナエ・イオネスクはもっとも重要な人物で、多大な影響力を持っていました。しかしあるとき、何が理由なのか正確にはわかりませんが、彼は国王と――あるいは国王が彼と――決裂しました。そのときから彼には復讐しか念頭になかった。そうして彼は鉄衛団を支持するようになったのです。この行動はなによりまず私怨からなされたもので、政治的理由は二次的なものでした。われわれは彼の個人的冒険に引きずり込まれたというのは確かだと思います。彼の政治的選択への原動力は、結局のところ復讐にあったわけですからね。和解するという考えは彼にはなかった。王座を掘り崩すというのがいまや彼の唯一の関心事になり、これが最終的には彼を破滅させました。
    私が惹かれたのは彼の冒険家的な側面です。彼は一方では哲学者であり、もう一方では征服者だった。魅力に満ち溢れ、社交の人で、女性と派手な交際をし……。彼は莫大に金を浪費し、まったく躊躇せずに誰からにでも金を借りていました。あるとき彼は私にこう言ったことがあります。「金が欲しいなと思ったところに金があるんだよ」。また別のときには、「奴らだって聖人ではない。人のことは言えないさ」。彼にはギリシア人風の側面がありました。結局のところ、彼は何も信じていなかった。彼は没落する文明の代表者で、原始的野蛮が荒れ狂う国で鋭利さを実践する魅力ある人物でした。疑いなく彼はひとかどの「人物」でしたよ。彼をとなりにすると、他の大学教授たちは純朴な農民のように映りましたね。いずれにせよ、エリアーデは「精神的に(道徳的に)」彼と関わり合って完璧に間違いを犯しました。なぜならナエ・イオネスクという男は、目標や基準や権威にするべき人物ではなく、単なる冒険家であったからです。私の考えではエリアーデはこのことがわからなかった。エリアーデは一日中彼の側にいる生徒のようでした。「先生、先生……」という風に。

    L:ですがエリアーデは彼の助手であったのですから、それは当然のことではないですか。

    C:ナエ・イオネスクには助手を持つ権利がありませんでした。博士号を持っていなかったからです。彼は博士ではなかった……。

    L:ラドゥレスク=モトルとの騒動のことですね。彼はナエ・イオネスクにドイツでの博士号学位証書を見せるよう求めた……。

    C:彼が博士号を持っていたのか、それとも持っていなかったのかはわかりません。彼は持っていると断言したけれど、それを見た者は誰もいなかった。

    L:しかし、あなたや他の彼に近しい人たちにも見せなかったのでしょうか?「ほら、私の同僚たちは私が博士号を持っていないとか言うんだが、彼らの言いなりになって彼らに見せるのは嫌だけれど、君たちには見せるよ」、とでも言いながら。このようなことはなかったのですか?

    C:わかりません、私は見たことがない。でも私にとってこの問題は重要ではなかった。彼が博士号を持っているかどうかなんてどうでもよかったのです。ドイツではコンシェルジュさえも博士号を持っているんですよ。結局のところ、ナエ・イオネスクは全教授陣から嫌われていた。

    L:彼が学生たちから人気があったからでしょうか?

    C:おそらくそうでしょう。いずれにしても彼は大学でうまくやっていける人物ではなかった。彼は大学人ではありませんでした。

    L:彼の講義には多くの学生が聴講しに来たのでしょうか?

    C:ええ、たくさん来ましたよ。でも彼は講義にいつもやって来るというわけではなかった。それどころか講義に来るのは非常にまれでした。ある日、彼はわれわれにこう言いました。「おそらく君たちは、私がなぜ規則的に講義に来ないのかと訊くかもしれない。理由はきわめて単純です。君たちに言うべきことが何もないときには私は来ません」。

    L:彼は雄弁家でしたか?

    C:雄弁ではありませんでした。反対に、彼は直接的に話した。それが彼の魅力だったのです。彼はサロンで講義をすることもできたと思いますよ。彼はデカダンスの文明に属する人物でした。

    L:お訊きしたいのですが、あなたはエリアーデと違って、彼に対して距離をとっていたのですか。

    C:ええ、大いにね。私は自分がナエ・イオネスクの素朴な賛美者ではないということに気づいていました。『ヴレメア』紙で彼について書いた記事は背信的な称賛でした。

    L:ではノイカは?ノイカとナエ・イオネスクはどのような関係にあったのですか。彼はあなたがとった慎重な態度とエリアーデが行った信仰との間の中間にいたのでしょうか。

    C:ナエ・イオネスクはノイカを受け入れられなかった。ときおり彼はノイカが特別な演習に来るのを拒否しました。「いや、君は明日来てはならない」と言ってね。

    L:しかしなぜです?理解できません。

    C:彼らはギリシア人の生まれだったんです!

    L:ナエ・イオネスクはギリシア人だったのですか?

    C:言ってみれば彼はバルカン人でした。彼は私に自分はトルコ人だと言いましたが、本当のことはわからない。いずれにしても、ノイカは彼らとまったくうまくいかなかった。ナエ・イオネスクはノイカに我慢できなかったのです。

    L:ですがノイカはナエ・イオネスクを称賛していないでしょうか? ナエ・イオネスクの講義の編集に参加したのは彼だけです。ナエ・イオネスクの死に際して、彼はすでにパリにいたあなたに手紙を書いています。そのなかで彼はナエ・イオネスクとの別れがもたらした衝撃を嘆きながら表明しています。そしてこう手紙を締めくくっているのです――「なぜなら君も自分がどれほど苦しんでいるのか理解しないだろう」、と。

    C:たぶん、ノイカはナエ・イオネスクが自分を好んでいなかったことに気づかなかったのでしょう。

    L:シオランさん、哲学の文章を書く上でのあなたやエリアーデ、ノイカのトーンは、ルーマニア哲学に非アカデミックに記述する様式をもたらしました。直接的に、内臓から書くという、この個人的なトーンは、ナエ・イオネスクの影響なのでしょうか?

    C:ある程度はそうです。おそらく。

    L:何十年か経ちましたが、現在、彼の影響をどのように評価していらっしゃいますか。有益だったでしょうか、有害だったでしょうか。

    C:有益でした。というのも彼は大学に新しいトーンをもたらしたからです。彼なしの大学というのを私は想像できません。彼がいなかったなら、大学で私には馬鹿げた記憶しか残らなかったでしょうね。彼の存在は無二のものでした。



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    1940年代、『崩壊概論』の頃のシオラン


    L:あなたが大学を卒業なさったときには、もう人生の計画を建てていたのですか? あなたご自身で自らの道を切り開いたのでしょうか。

    C:私の人生での唯一の信仰は、自由であること、独立していること、まずもって職業に依存しないことでした。自分の望むことを行うのに成功しなければ人生に意味はない。私はこのことを最初から理解していたんですよ。私にとってすべてであった問題は、どのようにすれば自らの自由を守ることができるのか、というものでした。もし私がどこかの職場で働くことを受け入れていたとしたら、金を稼いで生き続けることはできたでしょうが、すべておしまいになっていたでしょうね。パリで私はたくさんの挫折した人たちに出会いました。彼らはとても才能があって素晴らしい人間だったけれども、職場が彼らを破壊してしまった。戦前のパリは、人生に挫折した人間にとって理想の街でした。特にルーマニア人は華々しいものでしたよ。それで私は、職業を得るという屈辱を避けるために全力を尽くしたのです。いかなる犠牲を払っても回避しようとしました。私は働いて自分を破壊するよりも、パラサイトの生活を送りたかった。それは私にとってドグマのようなものでした。自分の自由を守るためにはどんな貧困も受け入れました。パラサイトの人生とは、つまり楽園のような素晴らしい人生ということですが、これだけが私には唯一耐えられるものだと思えたのです。

    L:おかしなことに、あなたはつねに敗者を称賛されますが、あなたは挫折しないためにはいかなることをもやってのけたようです。あなたが受け入れた屈辱とはどのようなものでしょうか?

    C:私は永遠の学生の人生を受け入れました。私は学生食堂で食べていましたが、学食にいる学生のなかでももっとも年をとっていました。私の夢は一生奨学金で暮らすというものでした。これだけが私の気に入るものでした。永遠に学生であり続け、学生の地位を利用し続ける……。奨学金は職を得ないための唯一の方法でした。この考えを私が抱いたのは、1936年、ブラショフでのことです。この年は私が働いて給料を得た唯一の年です。私は哲学の教師でした。この時私はもう働きたくないものだと思った。

    L:あなたが教室のなかで哲学を教えている光景を想像するのは難しいです。当時のあなたの生徒の一人で、今はホノルル大学の教授となっている人がいますが……

    C:シュテファン・バチウですね……

    L:あなたが高校でどのような先生だったのか、彼が教えてくれました。

    C:私は教科書をまったく無視して授業を行っていました。ただうわごとだけをべらべら喋っていた。私がブラショフを離れるとき、高校の校長は私から逃れられた喜びに舞い上がっていましたよ。でも申し上げますが、その時私は自分がもう働きたくないと思っていることに気づいた。五分たりともね。

    L:働かないでパリでどうやって生きていくことができたのですか?

    C:申し上げたでしょう、奨学金ですよ。戦前、パリに来たとき、ここでの生活は楽園のようなものでした。ホテルは非常に安くて、人生を半分挫折しかけている知的な外国人学生だけで埋め尽くされていた。戦前のパリが持っていた魅力を想像するのは不可能でしょう。私はここで自分の理想、パラサイトとして生きるという自分の理想を実現できると思った。「パラサイト」というのは適切な言葉ではないかもしれない。周辺的なアウトサイダー、マージナルな人間として、と言えばいいでしょうか。言葉の通常の意味で働かない人間として、です。

    L:よくわからないのですが、あなたは何歳まで奨学金を受給していらっしゃったのですか?

    C:ちょっとお待ちください、正確なところを申し上げましょう。……私は戦前フランスに来てから40歳まで学食で食事をしていました。ある晴れた日、私は呼び出されて、私は実際には学食に通う権利がないこと、27歳かそのあたりまでという年齢制限があることを聞かされました。その時私は40歳だったんですよ。私は年齢制限があるなんて知らなかった。私はソルボンヌに登録していて、学生の特権を大いに持っていると考えていたのですが、「あなたはもう資格がないですよ」、と言われたわけです。本当に私は知らなかった。私は死ぬまで大学の学食で食べようと計画していたんですからね。これが私にとっていかに大きな失望だったか。突然計画がおじゃんになってしまった。私はすでに『崩壊概論』を出版していたけれども学食で食べていて、学生たちが新聞に載っている私についての記事を見ながら言い合うんです。「こいつはなんなんだろう?本を出していながら学食で食べているぞ……」。まあとにかく、私は40歳まで学生として生活することができて、学生生活の恩恵を被っていたわけです。これはルーマニアではおそらく不可能だったでしょう。フランスで私は、外国籍の学生という地位を可能な限り利用しました。それだけの話しですが、同時にそれだけで私は自由だった。私には大した野望もなかったし、偽りのプライドも捨てていた。そして屈辱をさして感じることもなく、永遠の学生の状態を受け入れたのです。

    L:当時あなたはどこにお住まいでしたか?

    C:カルチェ・ラタンのホテルの、小さい一室ですよ。全部で五つのホテルに住みましたが、どれもここ(オデオン街のシオラン宅)からとても近いホテルです。私の理想はカルチェ・ラタンのどこかのホテルで死ぬというものでしたね。

    L:死ぬまで学食で食べると決めていらっしゃったのですから、筋が通っていますね。

    C:その通りです。私が滞在した最後のホテルでは、小部屋を二つ持っていました。屋根裏でしたけどね。鍵を下にやって、他人がやってきても部屋にいないように見せかけて、引きこもって本を読んでいました。そのうちホテルの土地が売られることになってしまって、退居しなければならなくなった。そのとき、もうこんな風な生活を続けていくことはできないだろうと思い、問題を起こさない住居をどうやったら見つけることができるか考え始めました。どうやって見つけたかお教えしましょう。今から30年ほど前、私は『歴史とユートピア』を書きました……。

    L:1960年に出版されましたね。

    C:そして不動産を扱っているある婦人と知り合いまして、彼女は文学に理解があると自負していました。本が出版されたとき、私はシモーヌ(シオランの伴侶)に言いました。「あの婦人に見本を贈ったらどうだろう」。「見本を一つ処分したいのなら、贈ればいいでしょう」と彼女は答えました。三日後にその婦人が来て、このアパルトマンを提案してくれたというわけです!その時からここに住んでいますが、その賃料というのが……

    L:アイスクリームの値段。

    C:その通りです!このことは私にとって大いなる成功です。

    L:1974年にあなたはここを失うかもしれない地点に追い込まれましたね。所有者がこのアパルトマンを要求したのでした。あなたは弟さんへの手紙のなかで、自分に法律の知識がないことに後悔し、法律の教科書を読み始めた、と書いていらっしゃいます……。結果としてあなたは諦められたようです。「結局、この年になってみると、もう生きている人間ではなく、ただ生き延びている人間だよ。一番ふさわしいのは暫定的状態で生きることだ……」。とすると、70年代にあなたは、60歳でフランスの路上生活者になる危険にさらされていたということでしょうか。

    C:よくわかりませんね。たしかなのは、私がここの地区の水準の賃料を払うことはできなかったということです。しかし、私が譲歩しなかったのは大いに好運でしたね。シモーヌは出ていきたがった。私は拒否しました。私をここから出したければ警察を呼んで逮捕させるんだな、と言いましたよ。所有者は出ていかない私を見て、どうすることもできないと思ったのでしょう、最終的に私を放置して、平穏が戻りました。もし彼らがあくまで私を追い出そうとしていたのなら、文学の世界でも騒動が起こったでしょうね……。いずれにせよ、こうやって私は物質的問題を解決したのでした。

    シオランによる黙示録(ガブリエル・リーチェアヌとの対談) その2

    リーチェアヌとの対談の続きです。この翻訳では、主にルーマニア語版に基づいていますが、仏訳を参照しています。

    その1はこちらです

    ガブリエル・リーチェアヌ(Gabriel Liiceanu):しかし、実際あなたは何に苦しんでいたのですか?

    エミール・シオラン(Emil Cioran):不眠による極度の神経の緊張です。不眠を知る前、私はほとんど普通の人間でした。眠りの喪失は私にとって啓示でした。その時私は、生は睡眠のおかげによってのみ耐えられるものだと気づいたのです。毎朝、新しい冒険、あるいは同じ冒険が始まります。しかしそれは中断を伴ってのものです。反対に不眠は無意識を排除し、こんなことに耐えるには人間はあまりにも弱すぎるということを、1日24時間ずっと鮮明に意識しなければならなくなります。不眠は一種の英雄的行為であり、毎日が始めるから負けることが分かっている闘争です。というのも、生きることは忘却によってしか可能とならないから。次の朝には新しい人生が始まるという幻想を持つためには、毎日人は忘れなければならない。逆に不眠は人に不断の意識という経験を強います。その時、全世界との、眠ることができる全人類との闘争に入るのです。もはや自分が他人と同じ人間であると考えることはできない。他の人間は無意識になることができるのですからね。こうした後の最初の反応として持つもの、それは馬鹿げた誇りです。自分は他人と同じような人間ではない、自分は他の者が意識を持っていないときに、終わりのない夜を徹した経験があるという。この誇り、この破滅の誇りこそが唯一勇気を与えてくれるのです――俺は他人とは違う運命を持っていると。自分による自分への「お世辞」、この常軌を逸した感情は、もはや自分は人類に属していないというものです。自分で自分を美化すると同時に自分を罰する。おそらくこの極度の不眠の時期に、自分は明晰であるという誇りが生まれたのでしょう。これは一生ついてまわりました。私が言いたいのは、人々は知的で、独創的で、天才的でありうるでしょうが、明晰であることはできないということです。対して私は、明晰性をわがものとし、それを独占しているとみなしていました。今では私はもはや同じように考えてはいません。結局のところ、不幸な人間はすべて明晰なのです。しかし当時、不眠が私の明晰性は特別な明晰性だという確信をかき立てていました。確かなのは、不眠の時期は私の残りの人生にとって決定的な影響をもたらした、ということです。それは恐るべき経験でした。私は20歳で、毎晩、夜が明けるまでシビウを一人で歩き回っていました……

    L:すると、あなたの哲学は青年期のもののままであり、あなたの観点はその時代に決定的になった、ということでしょうか。

    C:いいえ。生に関する私のヴィジョン、それは仏教のなかに見出すことができます。私の考えでは、仏教はもっとも深い宗教です。私はあまりにも一貫していないので、なんらかの一つの宗教を追い求めるということができないのですが、私の世界に対する眼ざしは、仏教と非常に近いものです。たとえ別な風に言い表されていてもね。あの2年か3年続いた、恐ろしい不眠の時代に、私は否定に取りつかれ、先ほど話した誇りが私のなかに生まれました。明晰性へのうぬぼれ、ものごとの無常性の確信、他の人間の人生を支配している幻想に対する意識、これらすべては、不眠という根本的経験に由来します。私が哲学へと、言うなれば突き進んだとき、私にとってもっとも関心を惹いたのは、意識の問題でした。意識とは宿命である、宿命としての意識(Bewusstsein als Verhängnis)という観念が私のオブセッションとなりました。私の哲学への関心はこの問いとともに始まり、この問いとともに終わりました。根本的にいえば、人間は覚醒する存在です。そして不眠はこの哲学的本能を罰するのです。

    L:覚醒させ続けるという罰ですか。

    C:そうです。私にとって、意識のドラマを経験していない者は素朴な人間です。たとえその人が天才だとしてもね。ある意味で、意識の過剰、つまり忘却なしの生は、私に対して病的な側面がありました。私が不眠に苦しんでいたとき、私は全人類を絶対的に軽蔑していました。すべての者が私には動物に見えました。

    L:なぜなら彼らは一時、意識を持たないでいることが許されていたからでしょうか…

    C:その通りです。それは妬みでもありましたし、軽蔑でもありました。覚醒していること、間断なく意識を持つことは、人間を限界にまで導くものです。

    L:そうですね。しかし他方で、意識はあなたにとって呪いでもありました。意識のドラマはあなたの著作のなかで頻出する主題です。動物は人間よりも幸福であり、植物は動物よりも幸福であり、鉱物が最高の幸福を享受していると、あなたは何度も繰り返されて来ましたね。

    C:私は意識一般について話しているのではなく、意識の過剰について話しているのです。この過剰だけが、誇りと敗北という矛盾した感情を引き起こし、この過剰だけが、意識を同時に呪いと予感として感じさせます。そして不眠とは、過剰としての意識を人に啓示させるものです。普通、われわれは意識を、定期的で継続的な中断を挟んで経験しています。この場合、意識は重荷ではない。不眠がもはや始まりというものは存在しないと気づかせたとき、人はつねにそれまでとは異なった生を生き始めます。不眠が人を中断のない意識という現象の前に立たせることではじめて、人間とは意識を持つことができる唯一の存在であると理解し、そして同時に、人間はそのありのままではこの現象を耐えるにはあまりにも弱い存在であると理解するのです。

    L:シオランさん、あなたについて少し過酷なことをお訊きするのを許していただきたいと思います。意地の悪い読者がいるとして、次のようにあなたに言うとしましょう。「もし、あなたが定式化して論じるということにおいて卓越していないというのなら、あなたの思想の根本というのは要するに少々の陳腐な言葉に尽きてしまうのではないか。人間は悪だ、死は災厄だ、生きることは無意味だ、自殺は別だが、等々と」。

    C:それらすべては、理論上では陳腐でしょうが、経験するときはそうではない。死は災厄だということは、経験としては決して陳腐ではありません。もっとも深い宗教の一つである仏教も、生の無の認識という「陳腐」に尽きます。

    L:実際に、次のようにあなたを批判することもできるでしょう。あなたは世界と同じくらい古いテーマを再び取り上げ、「コヘレトの言葉」以来言われてきたことすべてを、並外れた才能でもって繰り返しただけだと。あなたの新しいところはなんであると思われますか。

    C:それはまったく経験の強度の問題ですね。生に関する見解の素材に新しいところなどない。死より陳腐な現象が他に存在するでしょうか。しかし同時に、死は究極的な問題であり、すべての宗教の関心の中心であったのは偶然ではありません。「独創的な哲学」などというものは、学問から出発して作り上げるほかない。学問の世界では新しいことが可能です。そのような哲学は、もちろん独創的でしょうが、しかしそれは同時になんの関心も示すことはない。ハイデガーのことを考えてください。彼が死について、そして他のすべてのことについて書いたものは、日常の言葉に移されると、なんの独創性も持たないものになります。彼の値打ちは、彼が他の者とは違った風に定式化したということに由来します。新しいもの、それは結局のところ響き、トーン、調子など、各人の経験の強度から発してくるものです。私が受け取った手紙、特に若い人たちからの手紙は、私の定式化の仕方と経験から、人々がなんらかの認識を持つことができるということを示しています。それがたとえどれほど愚か者であってもね。独自の表現を越えて思想が単純化されると、いかなる思想も陳腐になります。

    ルーマニア語版『涙と聖者』訳 その1(5頁-17頁)

    どのプロジェクトも立ち上げただけで放置するという怠惰ぶりを晒していますが、また新しく始めます。すみません。『ルーマニアの変容』の続きをやろうかと思いましたけれども現在手元にないもので…。

    今回は『涙と聖者』になります。この本は1937年にルーマニア語で書かれ、その仏訳版が86年に出ましたが、この仏訳版は50年後のシオランの手によって徹底的に削除・リライトされ、ルーマニア語原著版とはほとんど別物になっています。邦訳書も仏訳を基にしていますので、残念ながら元の『涙と聖者』の全容を日本語で把握することは難しい状況です。

    という理由で(?)、実力不足を知りつつも訳してみることにしました。『変容』とはまた違った難しさがあり、大変困難ですが、細々と放棄することなく続けたいと思います(他のも放棄したわけではありません)。

    邦訳をお持ちの方は、後年のシオランが何を嫌って何を残そうとし、残したものでも何を書き直したのか、など比較されると面白いかと思います。


    涙と聖者


     私は涙がどこから来るのかを知りたいと思い、聖者のもとに行きついた。涙の苦い輝きは彼らのせいであろうか、誰が知っていよう。しかし涙は彼らの痕跡であるように思われる。涙は聖者たちによって世界に到来したのではない。だが聖者たちがいなければ、われわれは楽園の郷愁を知らなかっただろう。私は大地に飲み込まれた一粒の涙を見たい……すべての涙はわれわれには知られない道を介して上方へと昇ってゆく。涙の前に存在するのは苦しみだけだ。聖者は涙を復権させたにすぎない。

     認識によって聖者に近づくことはできない。われわれの奥深くに眠っている涙を目覚めさせ、涙を通して知るときにのみ、われわれは一人の人がいかにして人でありえたかを、そしていかにして人でなくなったかを理解するのである。

     聖性それ自体は興味深いものではない。聖者たちのが興味深いものなのだ。それは一人の人間が自らを放棄し、聖性の道を選ぶ旅程である。しかしその旅は聖者伝作家になる旅であろうか。聖者たちの痕を辿り、足の裏を彼らの涙で濡らす……。

     ルーミーは言った。「バイオリンの音色は、楽園の扉が開く音である」。
     ならば天使の溜息に比しうるものはなんであろうか。

     リルケの詩のなかで嘆く盲目の女にどう答えればいいのだろう。「私はもうこの空の下で生きていたくない」。地の下で生きることもないと言えば、彼女は慰められるだろうか。

     多くの聖者は――とくに多くの聖女は――イエスの心の臓に自らの頭を休ませたいという欲求を告白した。なぜ救い主の心臓が二千年間鼓動をやめることがなかったのか、今や私は理解する。神よ、あなたは聖者たちの血で自らの心臓を養い、彼らの額の汗で心臓を浸したのだ!
     世界は錯乱のなかで創造される。というのもそれを除けば、すべては妄想であるからだ。
     聖テレサは、イエスが彼女の前に婚約者として姿を現し、神聖な合一の証しとしてアメジストの指輪を与えた日、修道院の庭を走り回り、恍惚になって踊り始め、太鼓を叩いて喜びと熱狂をともにするために修道女たちを呼び集めたが、この聖女と結びついていないと感じることがどうしてありうるだろうか。あの瞬間、エクスタシーの神的曖昧として、燃えさかる大空の詩が高揚したのだ。

     Vivo sin vivir in mi
     Porque tal vida espero
     Que muero porque no muero...

     6歳のときに殉教者伝を読み、彼女の心は繰り返される叫びに唯一の答えを見出した。「永遠よ!永遠よ!」。そして彼女はムーア人のもとに赴き、彼らを改宗させ、自らの命を危険にさらそうと決めた。この欲求を満たすことはできなかったが、彼女の火は燃え立つばかりで、彼女がその魂の火を灯してから、今日にいたるまでもその魂の火は消えていない。

     聖女からの罪深い口づけのためならば、私はゆりかごを受け入れるようにペストも受け入れるだろう。どんなテレサやカテリーナが私を天空とともに抱擁してくれるのか。

     ジェノヴァのカテリーナはエクスタシーの最中に言った。「もし私の感じているものの一滴さえ地獄に落ちたなら、地獄は即座に永遠の生に変わるだろう」。
     ……そして私の魂はその一滴を無我夢中で待っている。それを手に入れるために、目的地を変える必要はないだろう……。

     いつか、聖者の涙のなかに自分の姿を映すほど純粋になることができるだろうか。

     同じ時代に多くの聖者たちがともに存在することができたというのは不思議なことだ。私は彼らの出会いを思い浮かべてみようとするが、情熱と想像力が働かない。聖テレサは、52歳のとき、高名で称賛されていて、その彼女がメディーナ・デル・カンポで25歳の十字架の聖ヨハネと出会った。彼は無名だが情熱的だった。スペインの神秘主義は人間の歴史のなかの神聖な瞬間である。
     聖者たちの対話? それを書けるのは、純潔の魂を持ったシェイクスピアか天上のシベリアに追放されたドストエフスキーくらいのものだろう。私はといえば、一生聖者の周りを彷徨することだろう。
     おそらくルーミーほど音楽と踊りを神へといたる道にした者はだれもいない。この聖者はずっと昔から称賛者が絶えなかった。彼とシャムスッディーン――知恵を持つ夢想家、無名の巡礼者、無教養で奇妙で独創的な人物――との出会いは、不思議な魅力をもっている。彼らは知り合った後、コニアのルーミーの家に三ヶ月間閉じこもり、その間一度も外にでることはなかった。私にはそこで全てが語られたのだろうという確信がある。当時、人間は秘密を持ち合わせていた。人は好きなときに神に話しかけることができた。そして神は君の溜息を自らの無のなかに埋葬した。われわれのやるせなさは、もはや話かける相手を誰も持たないということだ。われわれは死すべき者の孤独を告白するにいたった。この世界はかつては神のなかにあったに違いない。歴史は二つの部分に分かれる。以前人間は、神性の震える無のなかに惹きつけられていると感じていた。今日、世界の無は神の息を奪われている。
     音楽は私に神に対するあまりにも大きい勇気を与えた。ここに東洋の神秘家たちと私を隔てるものがある……。

     最後の審判において裁かれるのはただ涙だけだろう。

     イエスの心臓はキリスト教徒の枕だった。ああ!そこで眠ることを望んだあの神秘家たちを理解するにはどうすればいいのか……しかし懐疑も私をイエスの心臓の影から離れさせることはできない。私の唯一の隠れ家は空の影だ。
     心臓の象徴はそれにとって世界に等しいと感じなかった者は、聖性を理解していない。世界としての心臓――宇宙的次元としてのその広がり――が聖性のより深い意味である。すべてのものは心臓において生じる、ここに神秘主義と聖性が意味するものがある。ただし人間の心臓を考えるべきではなく、聖者の心臓を考えるべきなのだ。

     聖性は変容した生理学である。更に言えば、神聖な生理学である。その機能の全ては空へと向かう……聖性のオブセッションの一つは血である。血の重要性は魂の宇宙的ヴィジョンにだけではなく、聖者たちが血とともに行った長い闘争にも由来する。というのも、聖性は血に対する勝利である一方、地上との結びつきを絶ったあと、血を自らと同じ次元に高めるからである。イエスの純化された血は聖者の浴であり杯であった。それゆえ、シエナのカテリーナの最期の言葉が、深い意味を持ってくるのである。「おお血よ、血よ!」。彼女自身、救世主の血の「効用」について語っていた。

     神秘家と聖者の違い。神秘家はただ内的ヴィジョンにとどまる。聖者はそのヴィジョンを実践的に実現する。聖性は神秘家の帰結を、とくにその倫理的帰結を受ける。一人の聖者は神秘家であるが、神秘家は聖者でないこともある。慈愛(カリタス)は決まって神秘家の属性であるというわけではない。しかし慈愛を持たない聖者というのは考えられない。神秘主義と倫理学は、超人間的な次元に移されると、聖性というわれわれを眩惑する現象を生み出す。神秘家は天空の感覚のなかで、円天井の接線(タンジェント)から生まれる快楽のなかで自足する。聖者だけが他者の苦難を、見知らぬ者の苦しみを背負い、彼らだけが現実に干渉する。純粋な神秘家に比べれば、聖者は政治家である。神秘家と近接しているのに、聖者は人間のなかでもっとも活動的である。それにもかかわらず、聖者たちの落ち着かない生は聖者伝作成の障害とならない、というのも彼らの活動はただ一つの線でしか展開しないからだ。多様であっても、一つのモチーフが貫いている。それは唯一の次元での絶対的情熱(受難)なのである。

     「神秘家というものは、人が黙っている秘密をその人に話してしまうような人間である」。(私はこの定義を行ったという偉大な東洋人が誰なのか知らない)。

     いかなる聖者にあっても、マルグリット・アラコクにおいてより、イエスの心臓の崇拝が目もくらむほどの見事なヴィジョンとなったことはなかった。イエスが彼女の前に現れ、自らの心臓を示したあと、彼女は、全てを覆い尽くす炎のような抗しがたい高揚と、イエスの心臓を破壊から恩寵の奔流によって救おうという欲求にかられ、言った。「神は私の心臓を望んだ。私はそれを神が抜き取ってくれるよう願った。神はそれを行い、私の心臓を自らの心臓のなかに置き、私は、神の心臓のなかで、私の心臓を、燃え立つ竈のなかで焼かれる小さな原子のように見た。そこから心臓のかたちをした燃える炎のようなそれを抜き取り、最初に抜き取られた場所に再び置いた」。ここにこそ心臓が最後に行きつく場所がある。イエスの心臓のなかである。
     空は心臓の妄想にとって唯一の限界である。なぜ聖者たちは空においてのみとどまるのだろうか。それは聖性とはあの心臓の妄想の別名であるからだ。

     目は何も見ない。それゆえ私は、自分は心を通して見るのだと言ったカタリーナ・エメリヒのことがあまりにもよく分かる。心こそ聖者たちの目である。ならば、視野を知覚のなかに埋没させてしまうわれわれよりも、聖者が多くのことを見ることになんの疑いがあろうか。目は限定された領域である。目はつねに外を見ている。しかし心の中の世界においては、内観は認識の唯一の手段である。心の視覚的領域?世界プラス神プラス無。それですべてだ。
     目はものを大きくさせることができる。しかし心の中ではすべてが大きい。私は世界の美も聖者たちも自分を慰めることができないと嘆いたマクデブルグのメヒティルトのことがわかる。それができるのはイエスのみ、イエスの心のみである。いかなる神秘家も聖者も目を必要としない。彼らは世界を眺めているのではない。それゆえ、彼らにとって心こそが視覚の器官なのである……。

     音楽や図書館と同様に、聖者たちのもとへ度々赴くことは、性から離脱させる。本能はどこかほかの世界のために奉仕しはじめる。聖性に反抗しているかぎり、人は健康である。本能の自然の方向は生の地平と同一である。
     天空の帝国は生の空虚において拡がっていく。生物学的中性、あるいは生命力ゼロが天空の帝国主義の目標である。
     生はその自然な方向を失うとき、別の方向を探す。それゆえなぜ空の青があれほど長く、彷徨の唯一の場所であったのか、納得がいくというものだ…。
     どうして音楽はわれわれの血を吸うのだろう?あのトーン、魂がふるえながらわれわれに分け与えられるあのトーンは、空虚へと消える、参与の際のわれわれのエネルギーとともに。そしてその後に何ものかが残っている――人は支えなしに空間のなかで生きることはできない。しかし音楽がわれわれから完全に奪うのはその支えなのだ。唯一の慰めの音楽、それさえも肉体の抵抗と介入が奪われるときに、われわれは音楽を全面的に理解するだろう。それゆえ音楽は、禁欲の音が響く道である。バッハのあとで、まだ愛することが可能だろうか? その地上からの離脱が空の香りを帯びていないヘンデルでさえも? 音楽とは悦ばしき墓場である。至福がわれわれを埋葬する……。
     聖性もわれわれから血を吸い取る。われわれが空を求めていればいるほど血は失われていく。空の道には放浪した本能が彷徨っている。この彷徨から空が生まれたのだ……。
     
     ルーミーは心の五つの感覚について語っている。ここにすべての神秘主義の認識論がある。エクスタシーとは、神秘的認識の最高の表現であろうか? それらすべての感覚は炎のなかで溶ける。
     
     神よ、あなたがいないと私は気が狂いそうです、あなたといても私は気が狂いそうです!

     どうして天使は冷たいのだろう。彼らは性を持っていないからだろうか。おそらく。そしてまた彼らは太陽の彼方にいるからだ。ここにこそ聖者が熱い血を持っていない理由がある。血それ自体が熱いのではなく、苦痛が心臓を沸騰させるのである。苦痛があれば、熱を得るのに太陽を必要としないからだ。

     聖者をつまらなくさせるのはその人類愛である。この徳目はほとんどなにも述べず、伝記上の「徳」に欠けている。愛のことならば、神を前にしてはわれわれは一人残らず凡庸である。見えるものはすべて憎まれるに値する、ここに神の優位性がある。
     もし聖者の生において、あれほどあった愛が存在しないとしたら、われわれの愛に値するのは彼らだけだろう。愛の絶対性は彼らを不完全なものにする。聖者たちのなかで、苦悩それ自体を求めさまよう苦悩を知らず、絶えず愛のなかで行動していた者は、無味乾燥さに損なわれており、天空の光の反射とて、もはやそれを活気づけることはできない。慈悲と信仰それ自体は聖者の卓越性を構成しない。フランシスコ・サレジオのような者はあまりにも「公式」の聖者でありすぎる。アッシジのフランチェスコにいたるまでも、このような凡庸性を免れることはできない。
     愛は聖者たちの共通の場である。もし彼らの涙と溜息がなければ、彼らの愛の山塊に興味や執着を見出すのは難しい。

     少しでも聖女たちを愛した者はイエスを嫉妬しないではいられない。他人の愛人を愛したところでなんになる?あれほどの恍惚と抱擁のあとで、どうして彼女たちがわれわれに口づけを与えてくれるというのだろう。聖女たちの微笑に、われわれは希望を失う……なぜなら、彼女たちの心のなかで最初の位置を占めるのはイエスだから。
     もし苦悩の快楽というものが聖性の秘密を構成しているのでないなら、聖性は中世のどこか知らぬ地方の街の政治的陰謀ほどの興味も惹かないだろう。苦悩は人間の唯一の伝記である。苦悩の快楽が聖性のそれであるように。
     聖者であること、それは苦しみの無限の可能性においていかなる機会も逃さないこと。
     リマのローサは、ピサロの罪を償うために南アメリカに生まれたように思われる。彼女は苦しみの使命というものの例である。若く美しかった彼女は、世俗の世界にとどまってほしいという母の願いを斥けることができなかった。そして彼女はある「妥協」を見つけた。頭の上に乗せた花の冠に、額を絶えず突き刺すように針をつけたのである。このようにして、彼女は共同体のなかで孤独になるという願いを満足させたのだった。世俗の世界の誘惑は苦しみによって打ち克たれる。パスカルの(内側に釘が刺さった)ベルトは苦悶の歴史の伝統の継続以外のなにものでもない(それゆえ彼は、聖列されざる聖者である)。
     リマのローサの冠の釘は、誰のために仕付けられたのだろう? 空の恋人がまた犠牲者を新たに作ったのだ。イエスは苦しみのドン・フアンであった。
     聖性とは天空のヒステリーからなる生の否定である。そして実際生はどうやって否定されるのか? 絶え間ない明晰性によって。そこから眠りのほとんど完全な廃棄が出て来る。リマのローサは毎夜二時間以上眠らず、眠気が彼女を征服しにくると、自室に据えた十字架に自らをかけるか、あるいは釘で髪を固定して身体を垂直に保ったものであった。
     聖性は特殊な狂気である。というのも、死すべき者の狂気が、信じられないほど無益な行為、しかも同時にきわめて興味深く情熱をかきたてる行為のうちで消耗し尽くすのに対して、聖者の狂気とは、すべてを勝ち取ろうとする意識的な努力であるからだ。イエスと競い合う聖者たちの過剰さはゴルゴタを日常的に再現する――何世紀ものキリスト教の時代によってより洗練された苦悶を付け加えながら。
     キリストのいばらの冠は、聖者たちのまねびによって、いくつかの治癒不可能な病よりも人間のなかに苦悩を引き起こした。いずれにしてもイエスは聖者たちの治らぬ病であった。リマのローサは、ベールの下に釘の冠を被り、少しでも動くと釘が彼女を苛んだ。伝えられているところによれば、彼女の父が偶然彼女の頭に触れた瞬間、この意図せざる接触によって出来た傷から血が奔流のように流れ出したという。この聖女はしばしば、激しく疲労するまで大きな十字架をかかげているところを目撃された。それは天空の恋人のゴルゴタを、驚くべき強度で再現するためであった。
     これほどの苦悩の責任はイエスにある。彼の良心は、その間もはや生命の兆しを見せないほど、息苦しかったに違いない。率直に言えば、イエスは彼の後継者たちとの比較に耐えられない。この者たちにとって、イエスの天空の受難はウイルスとなった。彼は薔薇の贈り物のかわりに、いばらの冠をわれわれに与えた。イエスの犯した罪より大きい罪を私は知らない。

     聖性に長期にわたってかかずらっていると、回復するまで何年もかかるということになる。そうなれば、どこか他の空の下で悲しみを散歩させたい、違う青空の下で凝固したいという欲求が君を襲う。聖性の無限なるものは、反動作用として、空間の欲求を増大させる。草原の緑の上で広がりたい、高さという先入見を持たずに空を眺めたいと君は思うようになるだろう。異教が現れるものの深さであるのに対して、聖性は深さの病である。

    「私は涙と音楽とを区別することが出来ない」(ニーチェ)。この言葉を即座に理解しなかった者は、音楽と一瞬も親しんでこなかったことになる。涙の音楽以外私は音楽を知らない。なぜなら音楽は、楽園の郷愁に由来し、この郷愁のしるしを、涙を生み出すからだ。

     シエナのカテリーナは、聖餐の食物だけで自らを養うのに充分だった。彼女が自らの背後に天空を持っていた以上、たやすいことだった。エクスタシーは地上の実りを破壊する。彼女は聖餐のさいに空をその身に飲み込んでいた。敬虔な者にとって、聖餐という空の無限小でさえも、この世の、地上の食物よりも栄養があるのだ。なぜ空の高みは食事の放棄を望むのだろう? そしてなぜ詩人、音楽家、神秘家そして聖者は、それぞれ違ったかたちで、禁欲を利用するのだろう? 意志による飢えは天空への道である。それに比べ貧困による飢えは、地上の犯罪である。空の飢えへと私が眼を戻すとき、その飢えは心の方向を支えとして持つだろう。

     聖性は考えうるかぎりもっとも常軌を逸した現象であり、もし聖性の対象が実際に効果的な価値を持つならば、神性までも越えることだろう。あらゆる聖者たちの、死すべき者の苦悩と罪とを一身に受けようという情熱的欲求は知られている。この意味で引用できない感嘆と無限の慈悲がとれほどあるというのだろう。しかし客観的にいえば、他者の苦渋と苦悩からなにが減るというのか? 慰めの能力を除いては、聖者たちの努力は役に立たない。彼らの愛の実践的実現は記念碑的な幻想の次元を越えない。他者のために苦しむことはできないのだ。君の苦しみを倍にしたとて、隣人の苦しみが実際に和らげられるだろうか。もし聖者たちがこのあまりに単純なことをはっきりと見通していたならば、彼らは政治家になっていただろう。すなわち政治家は現れ(外見)に恥といったものをもはや覚えないのだ。彼らは行いたいと望み、現実を変えたいと望み、実際に変化させたいと望むんでいるようにみえる。彼らは現実に対する政治的立場を持っている、現れるもの以外変えることはできないと。しかし聖者たちは現れに対して恥を覚えるような政治家である。それゆえ彼らは自分から物質を、空間を、彼らの改革的行動のために取り上げるのである。苦悩と現れを同時に愛することはできない。現れるものの使命とは、われわれを生に結びつけることである。それはわれわれを聖性から引き離し、聖性から逃れさせてくれる。

    「わたしはいままで、充分に苦しんだと感じさせてくれる苦悩を一度も感じたことがない」(マルグリット・マリー・アラコク)。苦悩の貪欲さの古典的定式。
     優しい悲しみほど豊かでない状態はない。それは霊感の否定である。すべては悲しみの「度合い」に、悲しみの振動の頻繁さにかかっている。あるレベルでは、悲しみは詩的に、またあるレベルでは、音楽的に、そして究極の表れとしては、宗教的になる。このように、詩人の悲しみ、音楽家の、聖者の悲しみが存在する。詩人と音楽家のもとにあっては、悲しみは心より出で、世界の周りを回ったあと、エコーのように自分自身へ帰ってくる。聖者の悲しみは心全体から発出するが、しかし神のなかに止まり、神のなかの囚人になりたいという、いかなる聖者たちも持つ隠された欲求を満足させるのである。

     キリスト教的愉悦とテロルのもとでは、人間は完徳という利得でしか呼吸ができない。完徳以外のなにものも否定的価値しか持たない。13世紀初頭まで、人間の完徳についての「概論」が大量に生産されたものであった。聖性への道のなかばで止まってしまったほとんどすべての人間が、慰めのために、そのような概論を書いていた。それゆえ、諸世紀を通じて完徳は挫折した聖者たちのオブセッションであった。成功した者たちはもはやそれにかかずらわなかった、それを持っていたからだ
     最近の諸世紀は、無視にいたるまで態度を変化させ、完徳という現象を、全面的な不信と、明らかに軽蔑のニュアンスを示しながら眺めている。近代人にとって、完徳ほど大きな恥は存在しない。あれほど多くのものが運命を悲劇にしたので、近代人は楽園の郷愁に打ち克ち、完徳の憧れを必要ないものとして無言で打ち捨てた。他の時代は聖者たちを生み、そして人々は彼らを誇りとしていた。われわれはもはや「評価」することしかできない。われわれとて彼らを愛していると考えることはある。しかしそれはつねに束の間に彼らと親しくなるだけの、われわれの弱さ以上のものではないのだった。

     一方で地上のすべての聖者がおり、彼らの心が天と地の間を放浪する炎であるとしたら、そして他方には、愚かさとメランコリーの間で石化し、悲しみと狂気の皇帝、ネロがいるとしたら――私はネロに私の心を露わにしたいが、どんな声が私にそうさせるというのだろう。ネロの倦怠はキリスト者たちの天空の渇望より広大だった。ローマの大火にいたるまでも彼には凡庸にみえた。倦怠は狂気を生んだ――あるいはその反対だろうか。ネロは一人の憂鬱者だった。でなければ、なぜ彼は音楽を愛したというのか。この男の運命は感動的である。全世界がこの男を愚弄したが、彼らは唯一の免罪の余地、リラの竪琴を忘れていた。
     
     君が死の感情とともに生き始めるとき、君には時間の前進が生誕への道に、逆さまの流れのように思えてくるようになる。それは生の段階の再獲得と再建のプロセスのようだ。死に、生き、苦しみ、そして生まれる。これがこの逆さまの発展の契機である。――あるいはそれは死の廃墟の上で生まれる異なる生だろうか?君が君のなかで死を知ったあとでは、愛し、苦しみ、そして再生する必要性を感じるだろう。死を通り過ぎたあとのほかに、異なる生というのは存在しない。それゆえ変容というのはあれほど稀なのである。

     聖者は炎のなかで生きる。賢者は炎のそばで生きる。

     ベートーヴェンは悲しみの誘惑にあまりにも抵抗しすぎた。この禁欲が時折私を彼から遠ざける。ショパンあるいはシューマンは、ベートーヴェンと比べると、いくらか悲しみの悦楽を心得ていた。ベートーヴェンは悲しみとの戦いにおける意志の勝利の誇りを思わせる。彼がもっとも頻繁に経験したのは絶望であった。絶望とは世界との戦いにおける意志の傷ついた誇りである。同じく彼がもっとも経験したものは、ヨブが語る「まぶたの上の死の影」であった。

     まるで聖者たちが存在しないほうがすべてがよいかのようである。そうすればわれわれは、自分のことにだけ取り組み、自らの不完全さに陽気でいられただろうに。しかし聖者たちの存在は無用な劣等コンプレックスを、無用な軽蔑と妬みを創り上げた。聖者たちの世界はいってみれば天空の毒であり、その毒性はわれわれの孤独に応じて増大する。彼らは、苦悩がどこかに行きつくことができるという例をわれわれに示すことで、われわれを腐敗させなかっただろうか? われわれは目的なしに苦しむことに、無益の苦悩のなかで道を失うことに、自らの流血に自分を映すということに慣れてしまった。しかしわれわれはあまりにも悲しみを感じるべきではない。というのも苦悩は空にのみ導くわけではないからだ。

    シオラン読書案内

     訳文を載せるだけでは寂しいかなと思い、これからシオランを読もうと考えている方のために、読書案内などを作ってみることにしました。
     
     まず、シオランは若い頃ルーマニア語で、第二次大戦後はフランス語で書きました。それゆえ彼の著作は、ルーマニア語時代とフランス語時代と区分できます。この二つの時代の間には、トーンなどのかなりの違いがあります。

     彼の著作は、最近出された遺稿などを除いて、ほとんど全て邦訳されています。ルーマニア語時代の著作の邦訳はフランス語からの重訳です。 

     これから著作を書かれた順に紹介していきたいと思いますが、まず最初に個人的に私がお勧めする本を理由つきで挙げてからにしたいと思います。

     なおご紹介のためアマゾンのリンクを張っていますが、これはアマゾンでのご購入を推奨しているものではありません。特に古書の場合マーケットプレイスは高いのが多いので、まずは古本屋で探されるのがよいと思います。



    +初めて読むという方向け+


    『生誕の災厄』 出口裕弘訳(紀伊國屋書店、1976年)
    生誕の災厄生誕の災厄
    (1976/02)
    E.M.シオラン

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    理由:アフォリズム集なので、好きなところから好きなだけ読める。思考のエッセンスや雰囲気を知るには最適。ただ当然のことながら論証されないため、どうしてそういう考えが出てくるのか、というわかりにくさはある。入手しやすい。


    『告白と呪詛』 出口裕弘訳(紀伊國屋書店、1994年)
    告白と呪詛告白と呪詛
    (1994/12)
    シオラン、Cioran 他

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    理由:同上。これもアフォリズム集。どちらかはお好みで。『生誕の災厄』よりは入手しにくい。


    『歴史とユートピア』 出口裕弘訳(紀伊國屋書店、1967年)
    歴史とユートピア歴史とユートピア
    (1967/05)
    E.M.シオラン

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    理由:エッセイ集。アフォリズムのように断言で済まさず、わりと論じてくれるため思考の過程を把握しやすい。論じている事柄も比較的接近しやすい。訳がノリノリで引き込まれる度合いが高い。入手しやすく古書でも安い。


    『シオラン対談集』 金井裕訳(法政大学出版局、1998年)
    シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)シオラン対談集 (叢書・ウニベルシタス)
    (1998/07)
    シオラン

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    理由:対談集なので読みやすく、エッセンスとユーモア溢れる彼の人柄に近づける。絶版でないため、値段はそれなりにするが入手しやすい。



    +ちょっと読んだことがあるよという方向け+



    『時間への失墜』 金井裕訳(国文社、改訂版2004年)
    時間への失墜 (E.M.シオラン選集)時間への失墜 (E.M.シオラン選集)
    (2004/07)
    E.M. シオラン

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    理由:エッセイ集。「創世記」、「懐疑論者」、「知恵」、「時間」等、扱われる事柄は彼に親しんでないとわかりにくいが、彼の断言の源泉に遡るには貴重な著作。2004年の改訳版は明快な訳文で比較的理解しやすい。絶版でないので入手が容易。


    『絶望のきわみで』 金井裕訳(紀伊國屋書店、1991年)
    絶望のきわみで絶望のきわみで
    (1991/05)
    E.M. シオラン

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    理由:処女作。エッセイ集。ルーマニア時代のシオランならこれか下の『涙と聖者』がおすすめ。上記のフランスのシオランとは違ったシオランに出会える。ルーマニア時代のシオランは概して叙情性が非常に強いが、この著作は抽象的であり叙情的であるという性質をそなえつつも、第二作『欺瞞の書』以降ほど詩的散文が爆発していない。ちょっと入手しにくいが古書ならある。


    『涙と聖者』 金井裕訳(紀伊國屋書店、1990年)
    涙と聖者涙と聖者
    (1990/01)
    E.M. シオラン

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    理由:アフォリズム集。1937年に書かれたルーマニア時代の著作だが、この邦訳の基になっている仏訳版(1986年)は、50年近く後のフランスのシオラン自身の手によって徹底的に削除され手を加えられた末に出版されたものなので、ほとんどフランスのシオランの著作と言っても過言ではない。そのため、ルーマニア時代のシオランにこれから触れる人にも向いている。これも古書。


    全著作紹介はもう少しお待ちください。

    プロフィール

    せみ

    Author:せみ
    ルーマニア哲学・思想を勉強しています。
    今年(2013年)もルーマニアに滞在する予定です。ご質問・ご要望等がございましたらお気軽に。

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